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2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【コラム】ヒットチャートにもジェンダーギャップはあるらしい

ラジオで、「ヒットチャートのジェンダーギャップ」についての話を、ラジオで耳にした。「TOP100」のようなヒットチャートにランクインした曲は、女性アーティストよりも男性アーティストによるものが多いらしい。この傾向は何年も続いているらしく、日本でもアメリカでも男性がかなり優位なのだそう。


「ヒットチャートのジェンダーギャップ」をテーマにした」インタビュー本の紹介としての短いトークだったので、詳しいところまでは分かってないんだけど、ちょっと興味を持った。「出産育児でキャリアを中断や断念することは、女性の方が多い。その傾向は、芸能人でも変わらない」「何かを強く訴えるような女性像が、あまり支持を集めない」というようなことが原因としてあるのでは、などの視点が紹介されていた。

 

最初に、ヒットチャートにもジェンダーギャップがある、という指摘を聞いたときに、「マジかよ、そんなはずないでしょ」と反射的に思ってしまう自分がいて、ちょっと引いたな。「音楽の曲が売れるか売れないかに性差別はないんじゃないの」「ショービジネスって、女性が活躍しやすいんじゃないの」と、そんなようなことを僕は無意識に思ってらしい。そのことに気づけただけでも面白かった。


雑な連想にすぎないんだけど。「お笑い」について考えると、男性優位がイメージしやすくなる気がする。「鋭い毒舌」「体を張った芸」「下ネタ」などを「女芸人」がやっていると、相当うまくやったとしても見てる側が居心地が悪く、笑うのが難しい、という話はよく聞く。


ならば、新しい角度やテーストの笑いなら「女芸人」でも不利にならないかもしれないけど、いったいどれだけの人が「新しい種類のお笑い」を求めているのかは疑問。過去のパターンを踏襲しているから笑える、みたい感覚が普通で、「新しい笑い」などあんまり求めていない人がほとんどなんじゃないか。とすれば、特に「女芸人」を嫌ってないつもりの人でも、「なんだかんだ言っても、今まで知ってるお笑いのパターンの繰り返しが好き」と思った時点で、実質的には「お笑いのジェンダーギャップ」を支持するムーブになってしまう、みたいなことはあるんじゃないか。


おそらく、「歌」の世界も似たようなところがあるんだろう、と想像した。男性アーティストの方が、「ウケる歌」のレンジが広そう(「強い僕」も「「弱い僕」も「賢い僕」も「愚かな僕」もアリになってる、というか)。


そんなことを考えながら、「将棋」のプロの世界に「女性棋士」が誕生してないことを思い出した。これもいろんな原因があるんだろうけど、ちょっと関係あるかもしれない。


将棋という競技自体に性差別はない。なさそうに思える。誰が駒を扱っても、与えられる駒の動きは同じ。そこに問われるのは実力だけであって、性別は関係ない、みたいなことは言えるかもしれない。だけどそれをもって「将棋界に性差別はない」とは言えないはず。


例えば、「既得権が守られてることが、ジェンダーギャップにつながってる」という指摘はできる気がする。将棋でプロになるのはかなり狭き門で(その狭き門にはドラマがあるからファンとしてはなかなか否定しにくいんだけど)、3段リーグの上位とC級2組の下位ではおそらく3段リーグ上位の方が強いはずなのに、3段リーグからC2に上がれる(=プロになれる)のは年間4人のみ。控えめに言って、新陳代謝が悪すぎるんじゃないか。


で、将棋界というのは男性が圧倒的に優位な世界なんであって、「既得権が守られる」というのは、「男性優位が温存される」というのと同義と言っていいって話なんじゃないか。例えば、3段リーグから、毎年14人の新4段が誕生する世界線なら、もうとっくに女性棋士は誕生してるだろう。


それと、世の中自体が無意識に期待するジェンダーロールに、「女性の将棋指し」がマッチしていなかった、というような話もあるのかもしれない。子どもを育てる時に、「負けず嫌い」「1つの物事にわき目も触れず集中する」「勝ち負けをはっきりつける」ということが(将棋が強くなるためには不可欠なことだろう)、男の子だと「男の子らしくていい」と推奨されるのに、女の子だと眉をひそめられる、みたいな価値観。どうかな。「そんな価値観は時代遅れ」なのか。「いやいや、案外根強く残ってる」なのか。(1人でも女性棋士がデビューしたら、「私だってプロを目指せる」と思う女の子とか、「うちの将棋部の女子部員がプロを目指したっていい」という顧問とかが増えると思うんだけど)

 

何を言いたいかというと、多くの人にとって自然な感情である「現状維持を受け入れること」自体が、そのまま「男性優位を支持する」に限りなくニアリーイコールになることって案外多いんだろうな、と気づいて、それを覚えておこう、と思った、という話。

 


HIPHOPはどうなんだ。ミソジニー、ホモフォビアを克服できるのか。「売れてなんぼ」の世界だから、聴いてる側の意識が変われば、案外簡単に変わるかもしれないし、そうでもないかもしれない。フィメールラッパーが提示する「強い女」「面白い女」に、いろんなバリエーションが増えるといいな、という結びはナイーブすぎるのかもしれないけど。


※聞いていたラジオ:MUSIC GARAGE:ROOM 101

MUSIC GARAGE:ROOM 101 | bayfm 78.0MHz ベイエフエム

 

※『女性たちの声は、ヒットチャートの外に ~音楽と生きる女性30名の“今”と“姿勢”を探るインタビュー集』というインタビュー本について、著者の平井莉生さんを招いて、番組ホストの渡辺志保さんが話を聞く、という回でした。

 

本のリンク↓

 

 

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子どもに将棋を教えることについて語るときに僕の語ること③(「将棋王にオレはなる!」*009)

子どもに将棋を教える話の続き。

前回のコラムはこちら


子どもたちを、将棋教室に通わせ始めた。娘が小1、息子が年中の頃。募集のページには、「年長から」となっていたけど、相談したら受け入れてもらえた。


ところで、将棋に限らず、「習いごと」全般に言えることだと思うんだけど、子どもには、「ほかの子がしていることは真似してやりたくなる」という習性があるので、「先生に習う」ということはもちろん、「よその子に交じって一緒に習う」がありがたい気がする。


さて、その間、僕は子どもに将棋を教えるのはあまり積極的にはやらないようになる。もっと広く、「ルールのあるゲーム」で子どもと遊ぶ感じ。神経衰弱。これは手加減しないでもいい勝負。子どもは本当に強い。というか、僕が泣けてくるぐらい弱かった。「本気出す」と思って、札を覚えようとしても4枚ぐらいしか覚えられない。


娘の方が負けず嫌いで、「一度負けるとやりたくなくなるし、負けそうなものは初めからやりたがらない」という感じ。どちらかと言うと息子の方が「負けるともう一度やりたくなる」というタイプだった気がする。そう思うと、息子の方がゲームが強くなりそうだな。でも、息子と遊んでると娘もそれに交ざりたがるので、それはよかった。


ボードゲーム「カタン」もやったな。「確率」とか「交渉」とか「戦略」とかはもちろん最初はムリなんだけど、「サイコロ振って資源カード集める」「集めたカードで建設を進める」っていう手続きがごっこ遊びっぽくて、案外子どもでもできた。正式ルールどおりやると子どもが集中力続かせるにはちょっと長すぎるので、「初期配置で子どもには3箇所開拓地を取らせる」「ダイスで7が出たときに、手持ち資源かカード7枚以上だったら半分戻しルールの不採用」で時間短縮するとかの工夫はした。


ポケモンのポンジャン(僕が子どもの頃は「ドンジャラ」だった気がする)もやった。将棋と違って、子どもにこちらの手は見えないので、あがりを目指さずに子どもに勝たせるようにやりやすい(バレないように手加減できる)。


さて、そんな感じで「将棋以外」を主にやってきたけど、今年の春ぐらいから、駒落ちでの対局を意識してやるようにし始めた。コロナによる休校で、ヤバいほど時間が余ってたし、将棋教室もしばらく休みになったからだ。


最初は9枚落ちから始めて、わりとすぐに8枚落ちに。8枚落ちでも、結構子どもたちが勝ってくれる。棒銀、習って知ってるんだね。よしよし。だけど、7枚落ちになると、なかなか上手くいかない。


どうしたらいいか迷って、「ヒントあり」で7枚落ち、それでも勝てなかったら8枚落ちに戻ってヒントなし、2連勝できたら7枚落ち、みたいなことを繰り返す。でも、ヒント出してたら、答えを言ってるのとあまり変わらないしな。子どもに勝ってほしいけど、手加減はしたくない。


娘が、かなり上手く指して勝てそうな局面になった。でも、持ち駒の銀と金を打つ順番を間違えて、詰みを逃して悔し泣きした時があった。単に負けたことがムカつくんじゃなくて、誰かに先を越されたり、からかわれたりしたから泣いたんじゃなくて、「勝てたはずなのに、自分の力不足で勝ちを逃した」ことが分かっての悔し泣き。これにはグッときた。これは、ますます手加減できない。手加減したら、なんとなく伝わる程度には将棋を分かってきている。子どもたちの勝利の味を薄めちゃいけない。でも、子どもに何とかして勝たせたい。


それで僕は、詰みをわざと見逃したり、わざと詰ませる方を選んで王将を逃げたりする、「わざとの負け」はしないんだけど、序盤で子どもが勝ちやすいような展開にするように気をつけるようになった。「子どもの攻めを受けるフリだけして、本当はいなして、中段玉にする」というのが多分上手側の常套手段なんだと思うんだけど、それをやめて、玉はなるべく4段目まで上がらないようにする。これが今のところはいいバランスなような気がする。これで、子どもたちが勝てる機会が増えてきた。


次は、銀をもう1枚増やして、6枚落ちか。まだちょっと難しい気がする。子どもの成長を、のんびりと待つことにしよう。今では、将棋教室も再開した。息子が13級で娘が14級。年上の娘はは先を越されて悔しいことだろう。


息子の方が、攻めの手がよく見えて、どんどん攻めてくる感じ。娘は、丁寧に受けようとするんだけど、ちゃんとした受けはまだ難しい。それぞれ、楽しそうにやってる。他にも楽しいことがあるから、それほど将棋に熱心という感じでもないけど、誘ってみると楽しそうにするのは、とてもうれしい。


(いったんここでおしまいにします。またいつか、続きを書こうと思います)

 

(趣味の将棋についての連続エッセイとして、「将棋王にオレはなる!」というシリーズを書いています。シリーズ第1話はこちら↓)

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子どもに将棋を教えることについて語るときに僕の語ること②(「将棋王にオレはなる!」*008)

子どもに将棋を教える話の続き。今回は、時系列で振り返ってみたい。

前回のコラムはこちら


「どうぶつしょうぎ」を娘とやったのは多分娘が4歳のころ。最初は、「手本のとおりに、動物たちの駒を並べる」みたいな遊びから。


いやあ、詳しく覚えてないなあ。もったいない。子どもがどういう順番で興味を持ち、どういう順番で「交互に指す」「駒によって進める場所が決まってる」「ライオンを取ったほうが勝ち」ということを理解していったのか。「ゲームを理解すること」ってどういうことなんだろう。


「将棋」だけじゃなくて、「ルールのあるゲーム」というものも教える中に、将棋もある、という感じがいいような気がする。うちの場合、2世帯同居の母が、子どもたちと神経衰弱とか、ババ抜き、すごろく、カルタ、とかで積極的に遊んでくれたのがめちゃくちゃありがたかった気がする。


さて、「どうぶつしょうぎ」を教えてからしばらく経って、「娘がどうしても投了したがらず、それを俺がどうしても許せず」というステールメイト状態になったことがあった。なんというか、娘が「勝負」を楽しんでるような雰囲気が出てきたので、僕としてもちょっと欲が出てきて、「ここで敗北の味を覚えさせよう」と思ってしまった。


娘が、「どうやっても負け」みたいなことを悟ったのか(まだ詰みではなく、指せる手はあった)、次の手を指さなくなった。「負けました」とどうしても言えない娘。僕はどうしたらいいか分からなくなり、軽くパニック。先に寝ていた妻に文字通り「助けて」と頼んで、娘と一緒に投了してもらった。


この流れで僕は完全に怖くなって、「自分の好きなことを子どもに教えようとする時、冷静な判断ができなくなるな」みたいなことを思った。多分、娘は勝負事としてのゲームを楽しんでたというよりは、「パパと交代で駒を動かして、最後に自分が勝つ」という手続きの「ゲームごっこ」を楽しんでる段階だったんじゃないか。それを、「そろそろ勝負の楽しさが分かってきたんじゃないか」と、娘の状態を見誤った。そして、「投了しないことを認めてはいけないのではないか」と、妙な使命感を持ってしまったことも、ちょっと違う気がする。ひょっとしたら、じゃんけんとかで「負けました」と、投了の練習を別にした方がよかったのかもしれない。とかく、「自分の好きなこと」には、過剰な思い込みを持ちやすい。


それで、いったん「子どもに将棋を教えること」から僕は撤退した。オセロやボードゲーム、僕がムキにならずに済むもので遊ぶようにした。


それから2年後。妻が将棋教室の情報を調べてきた。子ども用の将棋入門の講座で、駒の動かし方から教わる、という。ナイス。それこそ僕の求めていたものだ。さっそく申し込んで、無料体験の日に娘を連れて行く。保護者は見学させてもらえるんだけど、授業の様子に、僕はものすごく感動した。


「ぴょんぴょん将棋」という将棋の駒をつかったゲームを教わり、子どもたち同士でさっそく対局するんだけど、その時の子どもたち(年長から小2ぐらい。娘は年長だったと思う)の、かわいらしいことといったら! 背筋をしっかり伸ばして座って、盤面を見る目は真剣そのもの。勝負はすぐ終わり、「負けました」「ありがとうございました」と,投了も、挨拶もしている!


親は、子どもに「お行儀よくしなさい」と口を酸っぱくして言うものだ。そして子どもは、決して簡単にはお行儀よくなどしない生き物だ。でも、見よ。「ぴょんぴょん将棋」の手を読む子どもたちを。完全に、間違いなく、行儀がいい。「行儀よくしなさい」なんて、誰にも言われてないのに。子どもたちの「ピンと伸びた姿勢のよさ」は、子どもたちの中に実装されていることがわかって、感動したのだ。


その感動からしばらく経って、「普段僕が目にしてないだけで。案外親の管理下から離れた子どもは、親が思うよりしっかりしているものだ」「いくら将棋が好きだからって、将棋に関わるものすべてを大げさに美化することはない」とは思い直したけど、それでもとにかく、将棋教室の無料体験に来てよかった。実力でクラス分けするから、別の学年の子と交流があるのもいいと思ったし、勝ったり負けたりすることがあるのに慣れるのもいい。


結局、その時は他の習いごとと曜日が重なることもあって、すぐには申し込まなかったんだけど、子どもたちを将棋教室に通わせようと決めた。


(続く)

 

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子どもに将棋を教えることについて語るときに僕の語ること①(「将棋王にオレはなる!」*007)

自分の子どもたちに、将棋を教えている。これが、まあ簡単なことではない。いくつか気づいたことを、書きながら思い出して残したい。


僕は、将棋が好きだ。そして、自分の好きなことを子どもに教える時に、「それって親のエゴなんじゃないか」みたいなことを思って、少し恐怖を感じてもいる。「子どもが、本当は嫌がってるのに、親だけが熱心すぎて少年野球を続けさせる。親は子どもが嫌がってることにそのうち気づかなくなり、子どもは親の前で野球大好き少年を演じ始める」みたいなイメージ(「野球」は単なるたとえです、「アウトドア」とか「受験」とかでもいい)があって、「自分の好きなことを子どもにやらせるのは要注意」と思ってきた(というか今も思ってる)。


でも、その考えが最近少しだけ変わってきた。変わってきた、というか、少し整理できた。「親のエゴが出やすいから要注意」なのであって、「親のエゴがでちゃうから禁止」なのではない、ということ。結局、親のエゴというものは、どこにでもついてきてしまう。エゴは、なくすことはできない。大事なのは、「エゴを自覚して、それを無害化すること」なんじゃないか。


例えば、「子どもに感謝されたい」「子どものことを誰かに自慢したい」「子育てに費やした労力を、なんらかの方法で回収したい」とかは、子どもの成長にとっては邪魔になりそう。「子どもが嬉しそうにしていないと、文句を言われてるような気になる」「この前出来てたはずのことを、子どもが失敗すると腹が立つ」「すぐにわかりやすい結果が出ないともどかしい,。他の子と比べてしまう」みたいな、親がそんな気持ちでいて、それが子どもに伝わったら、子どもは目の前のことに集中できなくなりそう。


それで、親としては、「そんな気持ちをなくす」というよりは、「自覚して、うまく対処する」みたいな方がやりやすいんじゃいか、というようなことを思うようになった。それで、そのエゴを自覚するためには、「自分の好きなことを教えようとする」というのは、案外悪くないんじゃないか。「親のエゴの見える化」というか。そんなイメージ。


実際のところ、「将棋を教える」には、「教えるということ」の本質が詰まってる気がする。いくら先生や親がコツを教えようとしても、子どもが自分の頭で考えないと絶対に強くなれない。勝ちたい気持ち、強くなりたい気持ちを、親や先生が植え付けることはできない。教える側は、あまりにも無力だ。


親は、子どもを観察して、今分かってること、分かってないことを理解する。そして、「分かってること」を反復させる。「もうちょっとで分かりそうなこと」と出会わせて、適したタイミングでヒントを出す。自分でできるまで、息を殺してじっと待つ。その繰り返し。できれば、「自分の課題を自分で見つける」「その課題を解決するための訓練法を自分で考える」「できるようになるまで粘り強く集中する」まで、子どもが行けたら最高だ。そうやって身につけた自信は、将棋以外にも生かすことができるだろう。(というか、そんなことは将棋でなくても、ピアノでもサッカーでも算数でもトイレトレーニングでも当てはまる)


そんなことを思いながら、最近は子どもに将棋を教えることに積極的になれるようになってきた。娘が4歳になるかならないかの頃、「どうぶつしょうぎ」で、娘はどうしても「投了」ができなくて、僕はそれを許しちゃいけないような気がして、どうしたらいいか分からず軽くパニックになったことがある(寝ていた妻を起こして、妻に娘と一緒に「負けました」と言ってくれと頼んだ。かわいそうな妻)。それ以来、子どもに将棋を教えるのはイライラがハンパない、と思って遠ざかっていた(将棋教室に申し込み、お金を払ってプロに任せるという選択をして、僕はほとんど一緒に指すことがなかった)。それから、ようやく5年経って、という感じ。簡単ではないけど、ちょっとは手応えもある。もう少し続けてみたい。


(続きはこちらです↓)

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40歳を超えてはじめて将棋道場に行った時の話(「将棋王にオレはなる!」*006)

僕はずっと将棋道場に行ったことがなくて、それは単に「行きたい」という気持ちに「引っ込み思案」が常に勝ってしまうからであって、それ以外に理由はない。それ以外に理由はないんだけど、僕の中で「引っ込み思案」ほど確固たるものはなく、「行ってみたい」という好奇心とか、「強い人と将棋を指したい」という向上心とか、そういうポジティブな感情は「なんとなく怖い」というヘタレっぷりに(惜敗ではあるものの)必ず負けてきた。


それでも、1年ほど前。ちょっとした成り行きで、はじめて将棋道場に行ったのである。その時のことを、思い出して書きたい。


子どもたち2人を週に一度の将棋教室に通わせている。風邪や用事で教室を休ませる時に、「道場」への振り替えができるシステムで、良心的。学校の行事で教室を休んだ代わりに、子どもたちを道場に連れて行く機会ができた。子どもたちはまだ18級とかで、相手に駒を落としてもらっても勝てないことを分かっていたのか、それとも僕と同じで、やったことのない新しい挑戦になんとなく気後れしたのか、あまり道場に行きたがらない。それで、「パパも一緒に指すようにするから」と説得して行くことにした。


つまり、「子どもたちに将棋道場を体験させる」というミッションで、自分の気後れを説得した、ということ。本当は、子どもたちを道場に残して、「2時間後に迎えに来ます」でもよかったし。あるいは付き添いと見学だけでもよかった。でも、僕も指してみたい。今まで「なんとなく怖くて」行ったことのなかった将棋道場。「僕が子どもを連れて行く」というには言い訳で、「子どもが僕を連れて行く」が本当なのは我ながら恥ずかしい。


さて、そんな僕の中学生めいた内面の葛藤などどうでもよくて、行ってみた感想は、「行ってよかった」に尽きる。何がよかったかと言うと、「対戦相手がいることのありがたさを実感できる」ということ。


将棋ウォーズで、ずっとスマホの画面を見てるときの精神状態は、「イライラ」がかなりの密度で混ざってる気がする。もちろん、集中して手を読むこと、うまくいったときの興奮があるから夢中になってやってるのであって、その興奮を「いつでも」「どこでも」味わえるネット対戦は好きだ。だけど、将棋ウォーズをやってる時に、対戦相手への感謝や尊敬を実感することは正直言ってほとんどない。その点、将棋道場は、目の前に相手がいる。運のいいことに、僕は目の前にいる対戦相手への感謝を実感できないほどのサイコパスではなかった。


行く前に、娘から「パパ、手加減しちゃダメだよ」と言われて、それもなんか嬉しかった。将棋道場は、「手加減は失礼」という世界観の場所だと娘が理解していることが分かる。実際に入ってみると、「猛者たちが腕を競い合う戦いの場」という雰囲気ではなくて、将棋教室の延長で、初心者の子どもたちが10人ぐらい。大人は僕を入れて2人で、僕と同様に子どもを連れてきた保護者だ。


で、だから要するに「道場」ということをうたってはいるものの、僕がお邪魔したのは「子どもたちの面倒を見ている場所」であって、僕は席料を払っているとは言っても「面倒を見てる大人の側の1人」というのが最初の意識だった。だから、娘に「手加減するな」と言われても、正直言って手加減をするつもりでいた。


だけど、実際には手加減をする余裕なんてなかった。7級とか9級の、目の前の子どもがビシバシと指してくる。駒を落としてるのならともかく、平手で負けるわけにはいかない(僕は「2級ぐらいだと思います」と棋力を申告していたけど、とりあえず何局か指してから級を決めましょう、と平手の手合いだった)。「こいつにナメられたらいけない」みたいなことを、本能的に思う。「大人なんて簡単に勝てる」とか思ったら、僕のことだけじゃなくて、将棋を、世の中をナメることになるんじゃないか。それは教育上よろしくない。


というか、真剣に指してる相手に対して、「手を抜いて勝たせる」みたいなことは失礼なんじゃないかな、と思ったりした。ひょっとしたら、指導対局の達人は、「一手違い」になるぐらいのある程度の手加減をするのかもしれないけど、それはかなりの実力が必要だと思った。自信満々で指してくる相手の子は、ちょっと油断したら一気に負けてしまうんじゃないか、と思わせるような迫力だ。僕は、子どもの攻めを正面から叩き潰す指し方をしてしまった。僕自身緊張していたので、そうしないと勝ち方が分からなかったからだ。


そんな時に、将棋ウォーズのネット対戦では、負けたらムカつくだけなんだけど、目の前に「強くなってる途中の子どもたち」がたくさんいると、「この子たちにできるだけ負けないように指して、それでもいつか負けるんだったら、その負けには価値があるんじゃないかな」みたいなことを思った。それは、僕は今までに感じたことのない感覚だった。「子育て中の僕が、よその子の対戦相手を務める」というシチュエーションだったから感じたことかもしれないけど、本質的には、相手が子どもでなくても同じことなんじゃないか。


「僕が真剣に指しているからこそ、相手も真剣に指す甲斐がある」という事実を、身を持って体験できて、将棋を指しててよかったな、と思えた。40歳を超えてはじめて将棋道場を体験したからこそ感じたことかもしれない。僕にとっては、その日はかなりうれしい日になった。


ところで、うちの子どもたちは全敗だったようで、早速洗礼を浴びた感じだった。その後1回行ったけど、あまり積極的には行ってない。うちの子どもがもう少し強くなったら、また誘って一緒に行ってもらおうと思っている。

 


(趣味の将棋についての連続エッセイとして、「将棋王にオレはなる!」というシリーズを書いていて、これが8ヵ月ぶりの更新です。シリーズ第1話はこちら↓)

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将棋ウォーズ「3分切れ負け」が面白い(「将棋王にオレはなる!」*005)

 
スマホアプリの「将棋ウォーズ」で相変わらず遊んでいる。「10分切れ負け」「10秒将棋」に続いて、「3分切れ負け」でも初段になれたので、思っていることなどをメモしておきたい。


(趣味の将棋についての連続エッセイとして、「将棋王にオレはなる!」というシリーズを書いていて、これが7ヵ月ぶりの更新です)


「3分切れ負け」、面白い!

将棋ウォーズの対局には、「10分切れ負け」「3分切れ負け」「10秒将棋」の3つのレギュレーションがある。この中で、僕は「3分切れ負け」が一番好き。


将棋が「何度やっても飽きない超絶おもしろゲーム」であることは間違いないと思うんだけど、その将棋の面白さには大きな弱点がある。「実力が互角の相手とやらないと面白くない」ということ。


麻雀も、モノポリーも、ポーカーも、「読みの力」「ゲームの知識」以外に「運」を味方につけないと勝てない。多少実力に差があっても、運次第で結果は逆転する。勝って当然の上級者でも、「運」との闘いに勝つ楽しみがあるし、初心者でも運次第でいい勝負に持ち込める。


だけど、将棋には「運」の要素が(理論上)ない。実力差のある相手との対局だと、やる前から勝負が決まってる感じがある。ファンとして観戦するには、その「勝負の残酷さ」が面白いけど、プレーヤーとしては単に「ちょうどいい相手が見つからない」という現実問題がある。


「3分切れ負け」は、この弱点をかなり補っている感じがする。1局の手数が100手と仮定すると、そのうち自分が指すのは50手。3分=180秒を50で割ると、1手に使えるのはわずかに3.6秒。こうなると、もうほとんど「運」じゃないか。


僕は長いこと「1級」で指してたけど、3級の相手にも何度も負けたし、2段の相手にも何度も勝った。「実力差どおりの結果になるとは限らない」ので、3分切れ負けを好んで一番指してる。

 

以下、どうやって楽しんできたかの覚書として、僕なりにたどり着いた「3分切れ負け」のコツを記しておきたい。


将棋ではなく「音ゲー」と考える

とにかく、相手よりも時間を残していることがなによりも重要だ。時間が切れたらその時点で負けなのだ。相手を一手詰め局面まで追い詰めても、その時点で時間が切れれば負け。「早く指す」ことに意識の8割を集中させる。

 

僕は、対局前に「これは音ゲー」と唱えてから対局に臨むようにして、戦績が上向いた(実話)。

 

初段以下の対局では、相手玉を時間内に詰めて決着するのは難しい。65%ぐらいは「時間切れ」で勝負がつくのではないか。ならば、「いかにして迷わずに悪手以外を指すか」が勝負の分かれ目だということだ。


「悪手よりはパス」「金銀を持ったら自玉のまわりに置いとけ」「いい場所にいる馬は動かすな」とか、謎のオリジナル格言を自分に言い聞かせて、とにかく迷わずに指すことを心がけた。

 

玉は堅さより広さ

僕が自分で一番気に入ってるオリジナル格言は「玉は堅さより広さ」だ。3分切れ負けでは、「玉の広さ」にはダイヤモンド並みの価値がある。


「玉の広さ」は、最終盤になって、玉の詰みを読む時の「手の広さ」とほぼ同義だ。玉が広いほど、詰将棋は難しくなる。特に、中段玉に逃げ出せる可能性は、相手の「秒」を奪うのにこの上ない破壊力を持つ。


さらに、「玉の広さ」は、「駒を埋めるスペース」と同義だ。中盤でも、終盤でも、有利な局面でも、不利でも、自玉の近くに持ち駒を打つ手は、悪手になることがほとんどない。だから、常に玉は広くしたい。


ひょっとしたら、「玉の広さ」は「3分切れ負け」以外でも重要なポイントなのかもしれない。でも、僕レベルではその価値は分かりにくくて、今まで意識することはほとんどなかった。でも、「3分切れ負け」のレギュレーションに最適化していく中で、「玉の広さ」をはじめて意識して指すようになった。


相手の消費時間に読む

今まで、「最善手を読む」という将棋プレーヤーとしての最重要のミッションを無視するようなことばかり書いてきた。「将棋」というより、「3分切れ負け」というゲームとして楽しむ感じ。


じゃあ、「3分切れ負け」ばかりやっていたら、将棋の実力は上がらないのか。正直言ってあまり上がらないような気もする(一局ずつ一手ずつ丁寧に指すのと対極にある世界なので)。でも、上達のためのヒントは得られると思う。


僕は、「相手の消費時間にも考える」ことを意識するようになってから、戦績が上がった。いくら3分でアマ初段以下のレベルとは言え、適当に指してたらだいたい負ける。かと言って、最重要なのは「時間を使わないこと」なのは変わりない。どうするか。「なるべく相手が考えている間にも読む」だ。


この習慣は、正直言って「3分切れ負け」にハマる前にはほとんど意識したことがなかった。自分の手番の時に相手の手を(自分が次に指す手の次の手を)考えることはあっても、相手の手番の時に手を読むことは「どうせ読んでも無駄になるかも」という心理的なセコさを排除するのは(無意識なだけに)簡単ではない。


そして、相手が攻めてくる手を考えるのも、同様に初心者にとってはかなり難しい。だけど、「相手の消費時間の間にも手を読む」という行為には必然的に、「自分の玉にかかる王手」を読むことが含まれる。自分の玉が「何手スキ」の状態なのか、もちろん短い時間で読むことは簡単ではないんだけど(というか正確に読むのは不可能なんだけど)、それでも読もうとするクセはある程度身についた気がする。


おわりに

今回はこの辺でおしまいにします。こんなこと書いている間にも、たった今「3分切れ負け」で負けたところです。今後は、もっとまともな上達法を開拓していかなければ、あまり楽しくないような気がしているので、またいつか報告しようと思います。

 

(「将棋王にオレはなる!」続きはこちらです↓)

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(シリーズ第1回はこちらです↓)

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どうぶつしょうぎ (Let's catch the Lion!) ボードゲーム

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将棋ウォーズ、初段になった(「将棋王にオレはなる!」*004)

 
スマホアプリの「将棋ウォーズ」で遊んでいる。「10分切れ負け」「3分切れ負け」(それぞれ、10分、3分の持ち時間を使い切ると負け)「10秒将棋」(持ち時間はなく、初手から10秒以内に指し続ける)があって、そのうち「10分切れ負け」で初段に昇段できた。


去年、「高校時代以来に将棋にハマってみる」「目標はプロ棋士に2枚落ち(飛車角なしのハンデ)で勝つこと」と思い立った。その決意をブログの記事にしたし(こちらです)、目標達成までの過程をシリーズにすることに決めた。

 


でも、「将棋王にオレはなる!」のシリーズは、3回目まで書いて、連載休止状態になってて。この記事は11ヶ月ぶり(!)の更新となる。(今、去年の6月に書いた第3回の記事を自分で確認して、「続きをお楽しみに!」と終わってて脱力した)

 

意外にも、自分の将棋上達について誰かに伝えたり、自分でログを残しておこうという気持ちにあまりならなかった。真剣に将棋にハマってる時は、将棋さえ指せれば満足なのでそれをブログに書こうとも思わないし、将棋を指すことから気持ちが離れてる時は、そもそも特に書くことがない。


だけど、初段になったのはひとつの節目でもあるので、いくつか気づいたことを書いてみる。

 

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将棋ウォーズ、楽しすぎる!

他のアプリは使っていないので比較はできないんだけど、「将棋ウォーズ」は想像以上に楽しかった。勝負ごとは、実力差のある相手とは面白い勝負になりにくい。特に将棋は偶然要素がないからその傾向が顕著だと思う(麻雀やサイコロを使うボードゲームはある程度実力差のある相手でも遊びやすい)。


それが、ネット対戦だと簡単に実力の近い相手が見つかる。早朝3時でも、通勤の7時でも、午前も午後も、いつでもすぐに対局開始できた。おそらく、30秒以上待ったことがない。


そして、短い時間の早指し将棋だと、少しは実力差のある相手でも逆転はありうる。将棋は偶然要素はなくても、「ミスでの逆転」はいくらでもあるからだ。スマホアプリで時間計測しての早指し勝負は相当に楽しい。

 

将棋、気分転換にならない

「3分切れ負け」は、先手後手に3分ずつ、通信の誤差含めても7分以上に勝負が長引くことはほぼないので、在宅仕事(翻訳)の合間に、会社勤務(コールセンター)の昼休みにやれば、気分転換に最高! と思っていたけど、実際にはまったく気分転換にならなかった。


負けると悔しすぎて、「スマホを握ったままツイッターのタイムラインを眺め、しばし放心」みたいなことになる。なかなか仕事に戻れないし、ようやく戻ったとしてもイライラが収まらない、みたいなこともよくある。


暴力的な気持ちになるのは「中毒性の強いスマホゲーム」ならではなのか、将棋が特にそうなのか、僕がそういう人間なのかは判断できないけど、「ムキになってしまう」感じは想像以上だった。もちろん、「ムキになってしまう」のは勝った時の興奮と表裏一体なので必ずしも否定すべきこととも思わないし、「負けてスマホを投げそうになる」と「本当にスマホを投げる」はだいぶ違うとも思うけど。


「気分転換になるかも」という見込みは正直言って甘かった。仕方ないので、「仕事で将棋の気分転換をする」と思うようにしている。


連勝を伸ばすことと、連敗を止めることが大事

「10分切れ負け」で初段になれたのは、「3分切れ負け」でなかなか勝てずに、ふと「気分転換」にやってみて、そうすると新鮮な気分で指せて、連勝できたのが大きかった。連勝中は、楽しいので自然と読みに集中できるし、対局中にミスしても慌てずにヤケにならずに済む。


将棋ウォーズでは、連勝中はその表示が出て対戦相手にも伝わるので、「5連勝」など表示されていると、ついビビってしまう。「相手が強い」「相手が好調」と思っていると消極的な手をつい選んでしまって、読みに集中できなくなる。だから、連勝中はそれだけで威嚇になるから、有利なのだ。


なので、連勝した時はしっかり休んで(仕事で気分転換して)、集中できるタイミングで次を指すようにした。調子に乗って雑に指さないように気をつけた。連敗している時も同様だ。頭に血が上った状態で次の対局を始めても、その時点で不利になってる。連続して指さないように気をつけた。

 


さて、今回はここまでにします。今まで対戦してくれた相手にお礼を言いたい。ありがとうございます。

 

今のところ、高校までの貯金で指していて、特に棋力が上がったわけではなくて、このままでは二段にはなれそうもない。だから、次にこのコラムを書くのがいつになるかわからないけど、将棋は続けたいと思っているので、またいつか。

 

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最近気づいたこと(2019年1月①)

ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!(久しぶりの更新なので結構前のツイートから取り上げてます)

 

今回はこんな感じ・・・

 


ゆで卵がうまく作れなくて凹んだ


「ゆで卵」。僕は全然上手に作れなくて。つまり、「ツルン」と剥けるように茹でたり、茹でたあと冷やしたり、がよくわからなくて、僕が作ると、上手くいくかどうかは「時の運」という感じ。


ここからはたぶん予想なんだけど、「ゆで卵」って、「ちゃんとした手順を知って、その手順を丁寧にやる」ことができれば、かなりの確率で「成功」する料理なんじゃないかと思う。というか、料理はほとんどそうなのかもしれないけど。「華麗なテクニックや特殊な準備、道具を必要としない」という意味で、「丁寧さ」さえあればできるはずの料理。


だけど、情けないことに僕はそれができないんだ。「卵かけご飯、卵焼き、目玉焼き」のほうが好きで、めったにゆで卵を作ることがないから、失敗しても、次に作る時までにそのことを忘れてしまう。そして、なんか適当に茹でて、「上手く剥けない(殻がツルンとならない)」茹で上りになってしまう。


それで、剥きながら、ボロボロになっていくゆで卵を見て、なんというか胸が痛む。「ああ、僕がもう少し人生に丁寧だったら」と、自分のダメさを自分で責めてしまう。でも、食べたらまあうまいので、次まで忘れてしまう。そんなことの繰り返し。

 

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人間ドックに行ってきた


「4週間で4キロ減量」と最初のツイートに書いてある。事実なんだけど、これには悲しい前段階があって。僕は油断すると70キロぐらいの体重になる。それを、健康診断の前の4ヵ月ぐらいで、なんとか65キロぐらいに落とす、というのがここ数年のルーティーンだったのが、今年は、気づいたら75キロになっていた、という。それに気づいてあわてて落としたのだ。なので、差し引き1キロ増量ぐらい。毎年「ちょっと肥満かも?」だったのが「ちょっと肥満」に進行した感じ。

 

速報結果(?)を見ながらの医師との問診的な場面で、「言い方が少し威張ってた」と書いたけど、実際は「ものすごく」威張ってた(なぜかソフトに言い換えてた)。でも、それでムカつくなんて、やはり動揺してたな、と思う。


「食」についての生活週間というのは、いわばその人の「弱み」というか、ある意味「人格の一部」なんだと思う。それをどうこう言われるのは、悔しいし、腹の立つことだ。僕の食生活がどんなに「クソ」だろうと、それにはそうなるに至った必然があるし、そのクソに僕自身は愛着を持っているのだ。尊敬しろとも尊重しろとも言わないけど、バカにしないでほしいな、とは思った。

(とはいえ、どんなに優しく言われてもどうせ腹が立つんだから、医師や看護師も大変だろうな、とは思う)


羽生善治九段に寄せて


将棋の羽生さんが竜王戦で挑戦者の広瀬さんに敗れて、27年ぶりに無冠になった。このことがどういうことを意味するのか、実は僕にはよくわからない。というのは、それまでずっとタイトルを獲り続けていたことの凄みも、「天文学的」な偉大さ、というか、あまり理解できるレベルではないからだ。


羽生さんの将棋が、全盛期より衰えたのか、と言えばたぶん答えはイエス、なんだろうけど、でも今の羽生さんが七冠独占していた時の羽生さんと対決しても、必ずしも負けるとは限らない。負けた竜王戦だって、「老獪な勝負術でなんとか3勝した」のとは違う。「瑞々しい感性の若い将棋を指したが、挑戦者の広瀬さんが強かった」というシリーズだ。


端的に言えば、感動した。僕の大好きな羽生さんが、将棋の面白さを伝えてくれるような手、手順、局面の考え方を見せてくれた。きっと、これからも見せてくれる。


羽生さんが将棋と出会えてよかったな、と感謝したい。そして、その羽生さんの価値を分かるライバルたちと出会えて、真剣に対局ができて、心の底からうらやましい。そんな幸せなことってないだろう。軽々しい言葉かもしれないけど、きっと羽生さんはその幸せに値するだけの人だ。おめでとう。


(僕のツイートに、どうしてか「森下さん」「深浦さん」の名前が出てこなくて、ちょっと我ながら残念。まあでも、それを言い出すとキリがないので・・・)

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信じなければ、救われない

 

これまでも似たようなことを書いてきたし、これからも似たようなことをどうせ書いていくんだろうけど。「ズルいな」って思うことってたくさんある。


例えば車同士の事故があったとして、過去の裁判判例が「甲2:乙8」だったとする。それで、この「甲」の立場になった人の中には、「過去の裁判での判断がどうであろうと、自分は絶対に悪くない」と思い、そう発言し、そう信じ込める人、が世の中にはある程度いる。


少なくとも裁判の判断で「2割」の責任があったような事故類型なら、自分が「絶対に」悪くない、と思うのは無理があると思うんだけど、そう信じて疑わない。本当は、自分が優先道路の側にいようと、事故が起こるかも知れないと「予見」する義務はあるし、実際に事故になりそうになったらそれを「回避」する義務があったとしても、「そんなこと知るか」で済ませてしまう認識が大雑把な人。


いや、もっとシンプルな例でいいな。バスの運転手で、やたら運転が荒い人。僕の予想では、そんな人に限って、「その荒い運転が上手い運転だ」と思ってる。「俺は運転が上手いから、ある程度荒い運転をしても大丈夫なんだ」とか思ってる。違うよ。本当に運転が上手い人は、状況をよく見て先読みして運転行動を選択するから、周りを威嚇しないし、急停止も急発進もしない。真面目とか丁寧とかそういう性格の問題じゃなくて、それがふさわしい運転だからそうするんだし、それが上手い運転だよ、とか思う。

 

不機嫌な態度の上司、認められないとスネてばかりの部下。どっちもズルい。店員に威張ってる客。下手したら、それがカッコいいことだとすら思ってたりするタチの悪い下品な奴もいるだろう。ズルい奴ばかりだ。


「ズルいな」と思うのは、ひょっとしてその人たちは、「自分が正しい」と信じたまま死んでいくんじゃないか、と思って、どれが「ズルい」「不公平だ」と思えるのだ。そう思うと悔しくて泣けてくる。だから、「どうぞ罰せられてくれ」と思ってしまうことがある。でも、この思いはどこにも行き着かず、苦しさが募るばかりだ。


僕は無宗教だけど、ひょっとしたら「宗教的」な人間かもな、と思うことはある。僕が今までしてきたちょっとしたウソ、ズル、サボリ。他人を羨む気持ち、蔑む気持ち、自分だけ認められたいと思う気持ち。それらを「できるだけ気をつけるようにするので、どうか許して」と願う時は、ちょっと救われるような感じがある。神に祈っているのとは多分違う。でも、自分で決意しているだけなのもとも少し違う。「許してください」と思うとき、人は自分の誤りを見ている。僕が自分の間違いをいつも気づいているだなんて図々しいことを言うつもりはないけど、「許してください」と願うとき、少し救われるな、と思っていて、その時は「奴らはズルい」という思いから多少自由になれるかもしれない。

 

 

その他のツイート

「メモを取る」みたいなつもりでツイートしていることが多いので、自分的に覚えておいてもいいかも、ということを貼りつけておきます。



 

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最近気づいたこと(2018年9月③)

ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、週に1回ぐらいのペースで反省するコーナーです!

今回はこんな感じ・・・


ウソのつき方

 

 

このツイートは、なんとなくの気づきとしてメモしたんだけど、ちょっと自分的に覚えておきたいと思うので、同じ内容のことだけどいくつかまとめておきたい。


昨日書いた記事でもちょっと似たことを書いた。「口答えをするな!」と部下や後輩を恫喝するより、「抗議の作法」を学ばせたほうが案外組織ってうまく回るんじゃないか、と。


子どもに、「ウソをついてもいい」と、親や先生が教えるのはちょっと違うと思う。子どもには、親や先生が言う「つまらない常識」を時々はみ出したり、はみ出して痛い目にあったりしながら世間との付き合い方を身につけていってほしいので、「たまにはウソも必要だよね」と僕から子どもには言いたくはない。


でも、子どもには「ウソとの付き合い方」みたいなものは学んでいってほしい。なんだろう? ちょっと悪い友達かな?それとももしかしたら、文学かな?


僕は、文学少年だったので、不倫にもギャンブルにもドラッグにも憧れはある。家族も人生も全部捨てて逃げるような虚無にも。もちろん、「憧れ」と言ってもそれを肯定してるわけじゃないし、今の僕がそうしたい、と思ってるわけじゃない。でも、そんな破壊衝動も含めて人生があるはずだし、その複雑さを、「めんどくさい」じゃなくて「豊かなもの」として子どもには感じ取ってほしい。


とは言え、自分や誰かの命に関わる可能性がある時とか、誰かを傷つける場合とか、「ついちゃいけない種類のウソ」「ついちゃいけないタイミングのウソ」は当然ある。その時は子どものウソをしっかり見破って(ムズい)叱りつつ、ウソをつく面白さや悪知恵は全否定はしない、というようなことかな、などと思った。


いやいや、それはちょっと大変だな。最初に戻るけど、親としては「ウソをつくな」でいいや。子ども自身で、友達同士で(痛い目にあいながら)勝手に学んでいくだろう、というのがとりあえずの結論。

 

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娘7歳、SFっぽい世界観

 

「パラレルワールド」とか「記憶を埋め込まれた、誰かそっくりのアンドロイド」とか、そういうSFっぽいコンセプトを娘が割と正確に理解してるのが驚いた。そういうアイデアのあるアニメとかってそれほど見てない気がするんだけど、どこから仕入れてきたのか、経路がよくわからない。


小学6年の修学旅行の時の、僕自身の記憶。転校したばかりで雑談する友達もいなかったハイキングで、黙々と歩いているうちに、その道中をハイキングではなく、「命が懸かったマラソン」みたいに空想し始めたことを覚えている。


なんで覚えているかというと、僕は黙って空想してただけなのに、近くを歩いていたK君(変わり者で、やはり友達と雑談などしていない)が、僕がスピードアップしたところでスピードアップしたり、僕と競り合うようにして歩き始めたので、「空想がシンクロした」と直感的に分かってしまった体験だったからだ。(あとから思うと、空想の内容がシンクロした証拠はどこにもないんだけど、なぜか「同じ内容の空想世界で2人が競い合った」と思い込んだ)


この時の僕の空想は、「パラレルワールド」とは全然違う。「物語っぽいフィルターで現実を見る遊び」というだけの話。思い起こすと、僕は小6でも「パラレルワールド」的なことは理解していなかった(というか知らなかった)気がする。


たぶん、娘自身はちゃんとは説明できないだろうと思う。でも、SFっぽいものごとの捉え方は理解していて、それがこれからどう発展するのか、しないのか、観察してみたい。

 

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「泣き虫しょったんの奇跡」と「かくかくしかじか」


 

どちらもある程度以上有名な作品だけど、全力でおすすめなのは間違いないので、紹介しておきたい。

 

泣き虫しょったんの奇跡 完全版<サラリーマンから将棋のプロへ> (講談社文庫)

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「泣き虫しょったんの奇跡」は、実在の棋士、瀬川晶司さんの自伝。奨励会(プロの将棋棋士の育成機関。四段になるとプロとして認められ、年棒や対局料を受け取れるようになる。四段になれるのは1年でたった4人という狭き門)を三段で退会してサラリーマンになった瀬川さんが、そのあと「プロ試験」で合格する(アマチュアの大会で優勝などすると、プロの棋戦にエントリーできる場合がある。そこで瀬川さんは好成績を収め、「これだけプロに勝ってる人がプロになれないのは勝負の世界の理屈からするとおかしい」との声が将棋連盟の内外を巻き込み、ついに実現した異例中の異例の試験)。


何年も前に読んだ本なので、細部は覚えていないんだけど、僕が一番泣けたのは、奨励会で勝ち残れずに退会した瀬川さんが、家族(お父さん?)から、「お前はよく頑張った」と慰められて、心の中で「違うんだ。僕は、全然頑張ってなかったんだ。遊んでばかりで、ちっとも頑張ってなかった」と、将棋に捧げた自分の青春を、苦く思い起こすシーン。


ある程度以上努力した人間だけが、「自分の努力が足りなかった」と気づけるんじゃないか。何かに真剣になったことのある人だけが、「より真剣な人の凄み、強さの差」に絶望するんじゃないか。そんな風に想像した覚えがある。

 

 

かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)

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「かくかくしかじか」は東村アキコの自伝的マンガ。マンガ家になった主人公と、美大を受験するための絵画塾の先生との心の交流を描く。

 

美大に合格後、故郷を離れた主人公(≒東村さん自身)は、やがて「絵」を描かずに「マンガ」を描くようになる。美術としての絵画、からするとマンガは「邪道」に違いなく、(マンガを描いてることを責められたわけでもないのに)「先生」とは疎遠になってしまう。

 

主人公はマンガ家として売れてきてからも、「先生」にどこか罪の意識に似た感情を抱いていて、それが苦く、切ない。「自分は、何かと向かい合えなくなって、そこから逃げたままなんじゃないか。そのことを、あの人には見透かされてしまう」というような気持ち。大事な場所だから、簡単には帰れない(故郷)。大事な人だから、簡単には会えない(恩師)。会っても、本当の気持ちを話せない、というような。


(ここまで書いておいて申し訳ないのですが、「泣き虫しょったんの奇跡」についても、「かくかくしかじか」についても、うろ覚えで紹介しています。細かい部分は間違ってるかもしれません… 「おすすめです!」ということが伝わったらうれしいです)

 

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常識とマナーの行く末

 

「あなたの行動はマナー違反」とか「あなたには常識はないのか?」とかの言葉に、説得力がないな、とはずっと感じていて。


そういう物言いをする人がほぼ間違いなく「イヤな奴」ということで終わらせればいいような気もするんだけど、「常識」とか「マナー」とかいうものの行く末が気になってる。


「ルール的にはOK(グレー)だけどマナー的にはNG」みたいな行動って、きっとたくさんある。本屋で本の内容をスマホで撮影したりとか(これはルール的にNGなのかな?)、チケットの転売とか。ツイッターでは、「出先で、タクシーの配車を頼んでおいて、流しのタクシーを捕まえたからすでに向かってる配車をキャンセル」みたいな例も目にした。


そもそも、ルールは万能じゃない。新しいものごとにルールの整備は追いつかないことはよくあること。事前に細かく設定すると運用しにくいし、一度決めると変えにくいし、周知にも、守らせるにも手間がかかる。

 


だから、「ルールで決められない些細なこと」とか「ルールが決まってない新しいトラブル」なんか補完するのに、「常識」は合理的な存在意義があったはず。「従業員がトイレに行ってもいい回数」を決める会社があったら、よっぽど進歩的な会社か、終わってる会社かのどちらかだろう。そんなの、「常識の範囲で」の一言で済ませたほうがいい。

 


だけど、「常識」がどれほど頼りになるかは、もはや相当怪しくなってるんじゃないか。「自分の属する共同体」への帰属意識が薄ければ、「〇〇は恥ずかしいこと」というような「縛り」は実質的な効果はないわけで。「常識」で解決していた問題が、解決しなくなるのはほぼ避けられないことのような気がするけど、じゃあどうなるのか。ちょっと気になってる。

 

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その他のツイート

今回は以上にします。あと、「自分的に、覚えておいてもいいかも」と思ったツイートをいくつか貼り付けておきます。次回もお楽しみに!

 

 

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「ハチワンダイバー」を読み直したら猛烈に面白かった件

将棋マンガ、「ハチワンダイバー」(柴田ヨクサル)を読み直したら、猛烈に面白くて興奮したので、ひたすらにおすすめしたい。 

 

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マンガの題材として、「将棋」というのはとっつきやすいんだろうか? 難しいんだろうか?

 

読者目線としては、「将棋指し」はキャラとして感情移入しやすい気がする。スポ根マンガの主人公にも共通するような「努力、根性、青春」とかを出しつつも、「根暗」とか「変わり者」「孤独が好き」「理解されない」みたいな要素を入れてもよくて、マンガの主人公としても敵キャラとしても魅力的。

 

また、将棋に限らず、麻雀漫画でも、スポーツマンガでも同じだと思うんだけど、「最大の敵=最大の理解者」というのもグっとくる。

 

「自らのすべてを将棋に懸けて、どうしても倒したいライバルがいる」という思いがあったとして、その思いの質量をもっとも理解できるのは対戦相手だろう。ジョーと力石(「あしたのジョー」)の例を出すまでもなく、そんなの、切ないではないか。

 

さて、「キャラ」という意味では、「将棋」はとてもマンガに向いた題材だと思う。でも、「将棋の対局そのものを面白く描けるかどうか」というと、かなりの難題なのではないかと思う。

 

例えば「スラムダンク」では、もちろんキャラがすばらしく魅力的なんだけど、もしも描かれたバスケの試合が面白くなかったら、マンガとしての迫力は半減してしまったはずだ。

 

「フェイント」とか「緩急」とか「疲労」とか「迷い」とか、そういう試合中に起きることをしっかり描いたからこそ、キャラも生きてきて、「スラムダンク」のドライブ感は常に失われることがなかったのではないか。

 

きっと、将棋マンガでも、「将棋の対局内容」がしっかり面白く描かれていなければ、マンガの迫力は半減してしまう。

 

「将棋を面白く描く」のは、相当に困難だ。ある局面で、「歩を一つ前のマスに進めた」ことの意味を理解するためには、相当将棋を分かっていないと難しい。「ある程度将棋を分かっている人」に、「解説がすごく得意な人」が説明すれば別だけど、そんなことをイチイチやっていたらマンガとしてのスピード感がなくなってしまう。

 

その点において、ハチワンダイバーは奇跡的な成功を収めた作品ではないか。将棋のルールや手筋がまったくわからなくても、「スリリングな終盤」とか、「中盤での意地のぶつけ合い」とかを、何局も体感できる。どんな風に成功しているかは、もう読んでもらうしかない。

 

ハチワンダイバー コミック 全35巻完結セット (ヤングジャンプコミックス)

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ハチワンダイバー 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

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すでにマンガファン、将棋ファンに行き渡ってるメジャーな作品だと思うけど、もう一度読んでみてほしい。僕は、読み直して驚いた。これほど面白い作品だとは気づいてなかった。

 

まだ読んでいない人は、最初の3巻だけでも、今すぐ読んでみてほしい。「王道っぽい迫力」と「味わったことのない不思議なスピード感」の両方が味わえると思う。

 

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