鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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子どもに将棋を教えることについて語るときに僕の語ること①(「将棋王にオレはなる!」*007)

自分の子どもたちに、将棋を教えている。これが、まあ簡単なことではない。いくつか気づいたことを、書きながら思い出して残したい。


僕は、将棋が好きだ。そして、自分の好きなことを子どもに教える時に、「それって親のエゴなんじゃないか」みたいなことを思って、少し恐怖を感じてもいる。「子どもが、本当は嫌がってるのに、親だけが熱心すぎて少年野球を続けさせる。親は子どもが嫌がってることにそのうち気づかなくなり、子どもは親の前で野球大好き少年を演じ始める」みたいなイメージ(「野球」は単なるたとえです、「アウトドア」とか「受験」とかでもいい)があって、「自分の好きなことを子どもにやらせるのは要注意」と思ってきた(というか今も思ってる)。


でも、その考えが最近少しだけ変わってきた。変わってきた、というか、少し整理できた。「親のエゴが出やすいから要注意」なのであって、「親のエゴがでちゃうから禁止」なのではない、ということ。結局、親のエゴというものは、どこにでもついてきてしまう。エゴは、なくすことはできない。大事なのは、「エゴを自覚して、それを無害化すること」なんじゃないか。


例えば、「子どもに感謝されたい」「子どものことを誰かに自慢したい」「子育てに費やした労力を、なんらかの方法で回収したい」とかは、子どもの成長にとっては邪魔になりそう。「子どもが嬉しそうにしていないと、文句を言われてるような気になる」「この前出来てたはずのことを、子どもが失敗すると腹が立つ」「すぐにわかりやすい結果が出ないともどかしい,。他の子と比べてしまう」みたいな、親がそんな気持ちでいて、それが子どもに伝わったら、子どもは目の前のことに集中できなくなりそう。


それで、親としては、「そんな気持ちをなくす」というよりは、「自覚して、うまく対処する」みたいな方がやりやすいんじゃいか、というようなことを思うようになった。それで、そのエゴを自覚するためには、「自分の好きなことを教えようとする」というのは、案外悪くないんじゃないか。「親のエゴの見える化」というか。そんなイメージ。


実際のところ、「将棋を教える」には、「教えるということ」の本質が詰まってる気がする。いくら先生や親がコツを教えようとしても、子どもが自分の頭で考えないと絶対に強くなれない。勝ちたい気持ち、強くなりたい気持ちを、親や先生が植え付けることはできない。教える側は、あまりにも無力だ。


親は、子どもを観察して、今分かってること、分かってないことを理解する。そして、「分かってること」を反復させる。「もうちょっとで分かりそうなこと」と出会わせて、適したタイミングでヒントを出す。自分でできるまで、息を殺してじっと待つ。その繰り返し。できれば、「自分の課題を自分で見つける」「その課題を解決するための訓練法を自分で考える」「できるようになるまで粘り強く集中する」まで、子どもが行けたら最高だ。そうやって身につけた自信は、将棋以外にも生かすことができるだろう。(というか、そんなことは将棋でなくても、ピアノでもサッカーでも算数でもトイレトレーニングでも当てはまる)


そんなことを思いながら、最近は子どもに将棋を教えることに積極的になれるようになってきた。娘が4歳になるかならないかの頃、「どうぶつしょうぎ」で、娘はどうしても「投了」ができなくて、僕はそれを許しちゃいけないような気がして、どうしたらいいか分からず軽くパニックになったことがある(寝ていた妻を起こして、妻に娘と一緒に「負けました」と言ってくれと頼んだ。かわいそうな妻)。それ以来、子どもに将棋を教えるのはイライラがハンパない、と思って遠ざかっていた(将棋教室に申し込み、お金を払ってプロに任せるという選択をして、僕はほとんど一緒に指すことがなかった)。それから、ようやく5年経って、という感じ。簡単ではないけど、ちょっとは手応えもある。もう少し続けてみたい。


(続きはこちらです↓)

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(趣味の将棋についての連続エッセイとして、「将棋王にオレはなる!」というシリーズを書いています。シリーズ第1話はこちら↓)

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