鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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僕が映像翻訳者になるまで(転機なんてなかった)

映像翻訳をやっている。ドラマやドキュメンタリーに、字幕をつける仕事だ。どんなふうにしてここに至ったのか、振り返ってまとめた。

 

10代の頃。死ぬのが怖くなって、作家か教師になりたいと思った。誰かに影響を与えて、覚えていてもらえれば、少しは死ぬのが怖くないと思った。引っ込み思案と自意識過剰をこじらせて、クラスではほとんど誰とも話せなかった。

 

高校の途中で、演劇と出会った。集団で作品をつくることの面白さにのめり込んだ。引っ込み思案は相変わらずだったけど、最初に「仲間に入りたい」と勇気を出せば、あとは本番まで遠慮はいらないのが助かった。セリフの解釈、演技の問題点、練習場所の確保や小道具づくり、衣装選び、話さなくちゃいけないことはいくらでもある。芝居づくりの過程で必要なことなら、誰とでも臆せずに話せるようになった。

 

大学に入って、自分で劇団を作った。興味がありそうな友達にどんどん電話して、一緒に青春を棒に振ろう、と順番に口説いた。メンバー募集のチラシを作って、都内の大学に貼ってまわった。

 

5年間は熱心に自分の劇団をやったけど、どこにも行き着かなかった。大学は途中でやめて、就職もサボった。そうかと言ってプロの劇団のスタッフの募集を探すわけでもなく、コンクールにシナリオを応募するわけでもなく、自分がどうなりたいかもわからず続けていた。

 

実家暮らしで、コールセンターの夜勤バイトで稼いだ金を、家に入れもせず無駄遣いばかりした。バイト先で知り合った映画少年と、自主映画を作ることにした。僕がシナリオを書いて、監督。彼は撮影と編集だ。劇団の仲間が出演してくれた。3週間で作った映画が、コンクールで入選した。

 

でも、やっぱりどこにも行き着かなかった。入選した監督から1人、スポンサーからの出資を受けて、プロのスタッフと作品を撮るチャンスが与えられる。そのためにシナリオを書けと言われても、僕は呆然とするばかりで何も浮かばなかった。

 

シナリオはまったく進まなくて、ただ焦って考えが空回りするばかりだった。頭が冴える気がしてテレビゲームばかりしたけど、そんなことで頭が冴えるはずはなかった。以前に芝居のために書きかけてボツにしていた断片をつなぎ合わせて、一応コンペに応募はした。もちろん選ばれなかった。

 

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劇団は休止状態になっていた。うまくいかないからケンカして解散、でもないし、就職するから演劇は諦める、でもなく、ただなんとなく活動停止状態だった。

 

僕以外の初期メンバー数人が中心になって、活動を続けたい、と言ってきた。僕は中途半端な気持ちで、「僕抜きでやるなんてダメだ」とも、「また一緒に頑張ろう」とも言わずに、「僕抜きでやってくれ。ちょっとは手伝わせてもらうよ」と答えた。

 

僕は単なるお手伝いになって、2年ぶりの公演を迎えた。芝居はいい出来だった。観客はあまり入らなかったけど、メンバーは手応えを感じた。打ち上げで酔っ払ってケンカして、仲直りして、まるで昔ながらの演劇人みたいな熱い気分にもなった。皮肉というか、公演の成功にメンバーは満足して、演劇をやめたり他の劇団に移ったりした。その気持ちは僕にもよくわかった。劇団を続けたいというよりは、やめるきっかけがほしかった。

 

この間もずっと、コールセンターの夜勤バイトは続けていた。職場にいる間は、誰よりも真面目に働いていた。公演があるごとに2週間以上バイトを休んでいた僕は、「それでも使えるスタッフだ」と評価されるよう最大限気をつけた。ゴールデンウィークも年末年始も働いた。社員からも、先輩からも後輩からも気に入られた。会社の偉い人が、半年ごとに交代で「正社員になってくれ」と説得しに来た。その度に、ちょっと安心したような気分になるのが恥ずかしかった。実際にはほとんど休止状態だったのに、「劇団を続けたいんで、ごめんなさい」と愛想よく答えたりした。

 

いよいよ、自分がどうしたいのかわからなくて、ちょっと混乱した。20歳の頃は、「どうしたらいいかわからない」と悩む自分がちょっと好きだったが、25歳を過ぎても一歩もどっちにも進んでいないのはさすがに持て余した。

 

もう1回、映画を作ってみようと決めた。誰にも言わずに準備を始めて、半年後に1人だけ後輩を誘った。結局、僕と彼の2人だけで映画を作り始めることにした。本もゲーム機もDVDも、売れそうなものは全部売った。大して資金の足しにはならなかったけど、ちょっとは気分が晴れた気がした。

 

今度の自主映画は、完成まで2年かかった。その間に、妹は結婚し、劇団は僕抜きで活動し、アルバイト仲間は半分以上入れ替わった。完成した映画をコンクールに応募したけど、今度は入選どころか一次審査も通らなかった。

 

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祖母が亡くなって、実家を出ることに決めた。それまでも、祖母の介護のために実家に残っていたつもりはほとんどなくて、たまに話し相手になる以上のことは何もしなかったけど、病気の祖母の存在は、僕が実家に居続ける言い訳にはなっていた。

 

実際に家を出たのは半年後だった。同じように実家暮らしだった彼女が、一緒に暮らしたいと望んだのをきっかけに、なし崩し的に結婚を決めた。家庭を作る覚悟も勇気もなかったけど、「愛さえあればなんとかなる」と信じ込む以外の選択肢が思いつかなかった。

 

妻に誘われて、映画の専門学校の、字幕コースの説明会に行った。半分冷やかしのつもりだったけど、説明会が始まってすぐに、僕は映像翻訳者になると心に決めた。

 

半年後から、その専門学校の字幕コースに通うことにして、まずは英語の勉強を始めた。中学2年の教材からだ。英語力不足も、自分の年齢もそれほど不安には感じなかった。

もともとの映像作品をパートナーにして、そのパートナーを理解し、ピッタリとハマる演出を見つけていく。それなら、いくらでもやりたいし、いくらでもできると、強がりでなくそう思った。

 

半年後に調べたら、その映画専門学校の字幕コースは、校舎の建て替えなどの理由で休講になっていた。すぐに「映画 字幕 スクール」で検索して、一番上位のスクールの説明会がちょうど次の日だったから、迷わず申し込んだ。

 

通い始めると、僕がクラスで一番英語のできない生徒とわかった。でも誰にも負けない自信があった。多くのクラスメートは、「英語ができるから、それを活かせる仕事をしてみたい」と思っていたけど、僕は逆だ。「10年間自分でセリフ作りの試行錯誤をしてきたから、あとは英語力」と思っていた。セリフの勉強よりも、英語の勉強のほうが努力を積み上げやすいだろう、と自分を励ました。

 

スクールに通い始めて1年、娘が生まれた。コールセンターのアルバイトを夜勤から日勤に変えてもらった。親とも妻とも話し合って、実家に戻って住まわせてもらうことにした。

 

スクールは1年休んでから復学。その1年後の卒業時には、プロの翻訳者として採用するテストに合格した。一発で合格した受講生は全体の1割だ。思っていたとおり、僕はほとんどの受講生を追い抜いたんだ。

 

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でも、映像翻訳者としてのキャリアはスタートできなかった。駆け出しの翻訳者は、まるで冗談みたいにギャラが安い。コールセンターを辞めるわけにいかない前提では、新しいことに挑戦できる状況になかった。2人目の子どもが生まれて、経済的にも、体力的にも、時間的にもギリギリだった。翻訳者の仕事を始めるのは保留にせざるを得なかった。

 

子育ては、予想よりも全然大変だった。そして僕は、自分で余裕を失っていて、子どもに怒ってばかりだった。それでも、僕も妻も、自分の想像よりも強かった。はじめてのことも、苦手なことも、楽観的に対応できた。

 

2年経った。下の子が幼稚園に入るのに合わせて、映像翻訳のテストをもう一度受けようと思い立った。英語の勉強は続けていて、スクールに通っていた時よりも英語力が上がっている自信はあった。

 

でも、テスト受験は躊躇して時間が過ぎた。バカみたいな話だが、不合格になるのが怖かった。2ヵ月に1回のテストに受験回数の制限はないから、不合格になったとしてもわずかな受験料以外にデメリットがないことは分かっていたけど、もし不合格になったら、心が折れないか不安だった。一度合格したはずのテストに落ちたら、何年かの回り道の重さに、自分の中の何かが、くじけてしまうんじゃないかと思った。そんな風にウジウジしているうちに、更にいろんな人に追い抜かされるのはわかっていたけど、気分が内向して簡単には解けなかった。

 

アルバイト先の社内報で、同い年のかつての仲間が、数人揃って課長代理に昇進したことを知らせる号があった。管理職用の社内研修の際に撮った集合写真とともに、抱負や自己紹介のコメントが紹介されていた。僕は、砂を噛むような思いで写真を見た。「僕が演劇や映画や翻訳を続けている間に、彼らは会社内で責任のある仕事を果たしてきたんだから当たり前だ」と自分に言い聞かせても、嫉妬で血が泡立った。

 

劇団の時の仲間に誘われて、学生の外国語劇を手伝う機会があった。パワーポイントでスライドを作って、芝居に合わせて字幕を映写する。僕からも頼んで、字幕の監修をさせてもらうことになった。翻訳者としては就職浪人中だったから皮肉な状況にも感じたけど、何もしないよりはマシだと思った。

 

結局、字幕はほとんど僕だけで作った。本当は学生スタッフにアドバイスをするだけのつもりだったはずが、役者の1人が途中でサークルを抜けて、字幕のスタッフだった子が代わりに出演することになって、字幕の係がいなくなったからだ。

 

本番前日の最終リハーサルの時。僕はかなり久しぶりに演劇作りに参加したことと、「自分の作る字幕を見るのは、ひょっとして最初で最後になるかも」と思ってかなり感傷的な気分になっていた。

 

学生の役者たちの演技を見ながら、真っ暗な客席の一番後ろで、涙が止まらなかった。努力して準備したことは知っているけど、学生たちの演技もセリフも、人に見せる水準に達してないことは明らかだった。そんなことを言うのは、酷なのかもしれない。でも、しょうがない。観客は、残酷なんだ。僕がその時見ていたのは、かつての自分たちの姿である。「僕は、頑張って演劇を作った。これ以上ないぐらい頑張ったつもりだった。でも、全然頑張ったうちに入ってなかった」と思った。「僕の書いたセリフは、全部クソだった。思わせぶりで、もの欲しげで、甘ったれたセリフばかりだった。自分をわかって欲しがってばかりで、そのくせ自分をさらけ出していなかった」「役者たちもクソだった。僕にはそれがわかってたのに、せっかく出来た仲間に嫌われたくなくて、クソだと言えなかった。言えない自分を認めたくなくて、クソだと思わないようにして、そのことに気づかないフリをしていた」「そうやって自分の認識を自分で捻じ曲げるなら、どんな努力もムダだ。そんなもの、クソだ」

そんな風に、中学生みたいな自己憐憫の思いがグルグルと頭を巡った。でも、不思議と頭はスッキリして、舞台の上の学生たちのことも愛おしく感じた。勘違いだろうとなんだろうと、とりあえず頑張ればいいし、頑張るしかないじゃないか。

 

演劇が終わってしばらくして、僕は翻訳の試験を受けた。1回は不合格だったけど、2回目に合格した。

 

翻訳の仕事を始めてからもうすぐ2年になる。コールセンターのアルバイトも、シフトを減らしたけど続けている。妻も働いているから、家族が暮らしていけるだけの稼ぎはなんとかある。でも、老後に十分な蓄えを残すだけの稼ぎはない。

 

翻訳では、「今の2倍の単価の仕事を今の2倍のスピードで終わらせる」ようにならないと稼げるとは言えない。でも、今のところ気分は楽観的だ。かなり難しくても、不可能ではないことは分かっている。

 

こうして思い出すと、転機なんて何もなかったような気もする。同時に、すべてが転機だったようにも思う。多分、両方が真実だろう。

(↑こちらのコンテストに、お題をいただきました。ありがとうございます↑)

 

 

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