鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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「女性言葉」の翻訳について考え中

映像翻訳で、女性言葉の翻訳について、迷うことがあって、断続的に考え続けている。特に結論はないんだけど、自分なりに整理してみたい。

 

 

 

上のネタツイートは、僕のウケ狙いで作ったショートコントだ。半年以上経ってからもう一度取り上げるほど面白いかというと疑問だけど、これを作った時に迷ったことがあって、それが今でもちょっと気になっている。


登場人物が2人いて、オペレーターの「きくみみ・なしお」と、その上司の「へんじだけ・よしこ」なんだけど、最初はオペレーターの名前に「へんじだけ・よしこ」を思いついた。でも、ツイートする直前になって「上司を女性にした方がポリティカルコレクトじゃね?」と気になった。


2人の登場人物がいて、男女のペアだった場合に、男性を上司役に設定するのは、男性が優位だという先入観を僕自身が持っており、男性優位の社会を無批判に温存させようという意識の現れなんじゃないか、と、立ち止まってしまったのである(NHKラジオの「実践ビジネス英語」だとかの会話文では、「上司と部下の会話」では上司役に女性がむしろ多かったりする)。


「電話オペレーターと言えば女性、それを管理する上司は男性」という先入観は、古いのではないか。実際、僕の勤めるコールセンターのオペレーターも、15年前は「平日早番」では女性90%、男性10%ぐらいだったけど、今ではほぼ同数になっている。管理職が男性優位なのは変わらないけど、少し前に会社のトップは女性になった。


それで、一度気になってしまったら、上司役を女性(というか女性を思わせる名前)にしないといけないような義務感が生じて、「きくみみ・なしお」をオペレーター役に変更してネタをツイートした。


それから30分ぐらいして、「ひょっとしてネタの面白み的には、この変更はダメだったんじゃないか」と思い始めた。もう投稿してしまったから内容は変えられないんだけど、なんとなく悶々とする。最初に出てくるオペレーターが、「へんじだけ・よしこ」の方が、インパクト的には面白い気がする。


「きくみみ・なしお」よりも、「へんじだけ・よしこ」の方が、(脳内で)明るい声で再生される気がする。「明るくハキハキとした話し方で、ヤバいこと言ってる」という方がボケとしては明確なのでは。それで、交代した上司が「きくみみ・なしお」と、更に問題を広げる方がコントの展開としてはバカバカしさが大胆なのではないか。


僕は、せっかくの面白いネタが、自分の中途半端なジャスティスのせいでピンボケになってしまったのではないか、ということで迷い始めた。つまり、「面白さ」と「公正さ」が対立する場合に、エンターテイナーとしてはどういう選択をすればいいのか、という問題が気になり始めた。(「どっちにしろ面白くない」という話もありますが、それはもう、すみません)


翻訳仕事でも、「女ことば」の是非という問題がある。女性キャラクターのセリフを訳す際に、「~だわ」「~なの」という「女ことば」の語尾を使うのが、アリなのかどうか。


「女の子は、女の子らしい言葉遣いをしなさい」という規範意識が、もはや捨て去るべきものかもしれないのに、翻訳がその規範意識の温存に、加担してしまっているのではないか。翻訳者は、その加担に無自覚でいてもよいのか、という話。


人が思う女性らしさは、人それぞれ。そして女性らしく振る舞うかどうかも、その人の自由。その人の思う「自分らしさ」が「(いわゆる)女性らしさ」と少し違うなら、「女性らしく振る舞いなさい」という圧力はある種の暴力になる。


世の中では、「女性らしさ」のイメージが更新され、「女性らしくありなさい」という強迫観念も和らいでいる(まだ根強いのかな、そうかもしれない)。「~だわ」「~なの」という言葉を現実で話す人はほとんどいないのに、翻訳ドラマの字幕の中に「女ことば」が温存されるのは、いかがなものか、という。


さて、実際に字幕の原稿を書く僕にとっては、単純に「女ことば」をすべて禁止にして字幕を作るのは無理、という実感がある。述語に動詞がくる文の形では語尾はつけなくても不自然じゃないセリフになるんだけど、述語に名詞がくると、語尾なしでは不自然なので、どうしても語尾をつけざるを得ない。


どういうことか。例えば、「あなたも頑固ね」という字幕から、「ね」は省けない、ということ。「あなたも頑固」というセリフは、「女らしい、男らしい」以前の問題として「セリフらしさ」がなくなってしまう。変えるとしたら、「あなたには頑固なところがある」などか。これなら、「あなたには頑固なところがあるわ」などと最後に「女ことば」を表す「わ」をつける必要はない(むしろ「わ」があったほうが不自然)。


だけど字幕を作る上で、「名詞述語文」は、避けられない。字数が少なくて済むからだ。セリフとして読み切れなければ、そもそも「作品鑑賞」の楽しみを届けられない。そして、字幕は「話し言葉を模した書き言葉」であるので、そもそも「現実で使われている言葉」と違うのは避けられない。(その乖離をそのようにして自覚的に演出できるか、がポイントのような気がします)


もう一つ思い出しておきたいのが、「エンターテイメントはステレオタイプと切り離せない」という話。

 

例えば、男性2人が登場するコントがあったとして、その2人が親子なのか兄弟なのか、あるいは恋人同士なのか、赤の他人なのか。2人の関係性は、なるべく手っ取り早く観客に提示される必要がある。「コンビニ店員と客」という設定があるからこそ、「コンビニ店員らしからぬ言動」がボケとして成立するわけであって、「コンビニ店員と客」という設定はなるべく早く伝わる必要がある(もちろん、常に「だからこそ裏をかいてわかりにくい出だし」はある。でもそれだってステレオタイプあってこその話だ)。設定としての「親子」を出す時に、「親子のあり方の多様性」感じさせてしまうと、それはノイズになってしまう)。


だから、エンタメでは「親子」は「いかにも親子らしく」、高校生は「いかにも高校生らしく」、描かれてしまう傾向がある。これは「ステレオタイプでも仕方がない」とか「ステレオタイプに描くべき」という話ではなくて、「ステレオタイプになろうとする力が、重力のように物語に作用している」という話。だから、「ステレオタイプ=悪」というのも行き過ぎだと思うし、かといって「必要以上の演出(やたら「女ことば」の語尾を連発したり)は不要」だし、単にダサいということ。個別の文脈で必要かどうかを判断していくしかない。


暫定的な結論として、僕がどうしているかと言えば、さっきのように「あなたも頑固ね」「今夜は最高の気分よ」などの場合の語尾は許容し、それ以外の部分ではできるだけ避ける、としている。そうすると、(僕の感覚では)ちょうどよくなる。


また、これは「女性キャラに必要以上に女性らしく演出してしまう」という問題だけにとどまらない。人種、年齢、国籍、職業、ありとあらゆるものにステレオタイプ(的な物の見方)はまとわりついてくる。翻訳するときは、ステレオタイプ的な演出は自覚的に使って、不必要に強調することを避けるようにしたい、と今のところ思っている。

 

(下の記事で、「ステレオタイプの経済性」という言葉を使っていて、分かりやすい言い方だな、と勉強になりました。面白い記事だと思うので、リンクを貼っておきます↓)

なぜ翻訳でステレオタイプな「女ことば」が多用される? 言語学者・中村桃子さんインタビュー - wezzy|ウェジー

 

 (僕自身の自己紹介的な過去記事です。よかったら読んでください↓)

www.savacan3rd.com

 

 

 

 

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