鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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短歌を好きだったと思い出した話

 

昔の自分のツイートを見ていたら、そういえば自分は短歌が好きだったんだ、と思い出したので、思い出しながらメモしておきたい。


ツイッターを2年ぐらい前からやっていて、2年経った今でも飽きずに、毎日の空き時間に、ついつい眺めてしまう。永遠に続く大喜利、ちょっといい話、真面目な意見、噂話、ちょっとしたエロがランダムに流れてきて、そのカオスな感じが味わい深い。

 

その一方で、嫌なところもある。ヘイトが拡散されやすいということ。過激な悪口に反応が集まり、そこにさらに悪口の応酬がある。ほとんど何も考えていないようなただの悪意が広がってうねっている。


これを見るのはちょっとツラい。自分のツイートも、「もっと過激なことを言った方がウケるのでは」という感じがしてきてしまうも悲しい。油断すると、自分の中にも「悪口はないか」と探してしまう。


実は、これは「感動」みたいなことも同じで、ちょっとでもいいことがあったら、それを少しでも大げさに言った方がウケるんじゃないか、という「精神の貧乏性」みたいな気持ちにさせられてしまう。


それでも、ツイッターをやってよかったな、と思うことも少しはある。「そういえば、短歌を好きだったんだ」ということを思い出したということだ。


自分のタイムラインに、短歌が流れてきて、その人をフォローする。すると、その人が「いいね」した別の人の短歌も流れるようになってきて、見つけてはどんどんフォローしていく。「ウケ狙いの罵り言葉」ではなく、「(どんな種類であれ)大事だけど忘れがちな気持ちの再発見」がタイムラインに流れるようになる。


ああ、我ながら、「大事だけど忘れがちな気持ちの再発見」という言い方の安っぽいな。ポエムで扱えるのは、そんな「ちょっといい話」みたいな気持ちだけではない。もっと生々しい感情、苦々しい感情、あるいは、もっと小さな、もっと静かな、気持ち未満の心の揺らぎでもいい(すみません、どんどん安っぽくなるな)。


(短歌だって「ウケ狙い」があるからツイッターに流しているわけで、「この狙い方はシラけるな」ということだってもちろんあるけど)




正確に思い出せないと言っていた歌たち、今検索をかけました。

 

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
(俵万智「サラダ記念日」)

 

大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも
(源実朝)

 

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
(穂村弘「シンジケート」)


それぞれ、ドリカムやサザン、宇多田ヒカルのミリオンヒットの曲ぐらいに有名な歌だろう(つまり、ファンじゃなくても聞いたことがあるということ)。


映画好きな人に「好きな映画は?」と聞いた時に、「あまりにメジャーな映画を答えるとナメられる」という類のメジャーさなんだろうけど、僕は短歌マニアではないのでメジャーな歌の引用をしても恥ずかしくない。


「サラダ」という選択の、恋人としての日常感(メインおかずでなくサブおかずを褒める、褒められるという関係性。スペシャルじゃない料理だけど、ほんのちょっとだけキラキラしてる)。「七月六日=七夕のイブ」、という地味な日をじっくり喜んでいる感じもまた、「特別な1日じゃないけど私(たち)はこれを特別と呼ぶ」という宣言の高らかさがものすごい。三十一文字で、ここまでノロけられるのかよ、という濃密さ。


寄せる波が、「割れて」「砕けて」「避けて」「散る」の圧倒的なスローモーション感。風景が、ハイスピードカメラで鮮明に撮った映像に見えてしまう、絶望的な覚醒感。


「だるいせつないこわいさみしい」とまぜこぜで言ってしまう投げやりで雑な寂しさ。それを、「サバンナの象のうんこ」に訴える雑な甘え方。自分でも、どうでもいいと思ってることを、誰かに聞かせられない。でも、「誰か」に聞いてほしい「何か」の気持ちがあることは分かってほしい。ポップスにもならないような安っぽい気持ち(つまり僕らの毎日だ)を、安っぽい言葉で歌ってくれたら、そんなの共感してしまうに決まってるじゃないか。


(さっき、有名な歌を引用しても恥ずかしくない、と書いたけど、感想書くとさすがに恥ずかしいです。とほほ)


僕が自分的に面白いと思うのは、「好きな歌」なのに、うろ覚えになってしまう、というこの感覚。これは、長嶋有が「俳句は入門できる」というエッセイで同じようなことを言っているのを読んで、「それそれ」と思った。

 

俳句は入門できる (朝日新書)

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  • 作者:長嶋 有
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覚えてる歌も、いくつかある。



僕が、ツイッターで出会った短歌の中で、好きだったものを1つ残しておく。


私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない
(田中有芽子)

 

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  • 作者:田中 有芽子
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これは、すぐ覚えられたので、会社で後輩のラッパー君にも教えることができた(「マジ、かっけー」みたいな反応だったからよかった)。


わざわざニホンオオカミのことを話題にするんだから、この歌の語り手「私」は、ニホンオオカミのことが好きなんだろう。でも、その「好き」のあり方がユーモラスで、「アレルギーかもしれない」という想像の仕方。アイロニカルでいい。実際に「触れ合う場面」の具体性がないと、「アレルギーかもしれない」とは思わない。「好きなのに、アレルギーかもしれない」とまで考えたところで、(絶滅してるので)「もう分からない」と思い出してしまう、この寂しさがイケてる。ニホンオオカミがまだ存在するパラレルワールドに20秒だけ行って、でも実際にニホンオオカミを目にする前に、パラレルワールドから元の世界に戻ってきてしまう。今のこの世は、他の全てのパラレルワールドと通路が閉じてしまった世界だと気づいて、鼻の奥にツンと抜けるような寂しさに一瞬めまいがする。三十一文字で、往復した想像の距離のいかに広大なことか。

 


そんなわけで、僕のツイッターのタイムラインには、様々な短歌が流れてくる。様々な感情、物の見方、あるいはしょうもなさ、が不意打ちで訪れてくるのは、なかなかに楽しい。これからも楽しみにしたい。

 

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www.savacan3rd.com

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