鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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最近気づいたこと(2020年5月②)

ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!「最近」と言っても、もはや半年以上前のツイートをほじくり出して語り直しているわけで、我ながら悠長な話です。

 

今回はこんな感じ…

 


手段と目的を逆転させる

 

NFL(アメフト)についてのブログをやっていて<鯖缶NFL三昧>、現地の記事の一部を翻訳して紹介したりしてるんだけど、これも同じで、NFLが好きだから調べてる、というよりも、ブログのネタを探して、それを記事にしているうちに、NFLへの興味が湧いてくる、という感じ。(ところで、9月にはNFL開幕できるんだろうか。想像するのがなんとなく怖くて、NFLブログは更新サボりがち…)


「伝えたい気持ちがあるから手紙を書く」は素敵なことだと思うけど、必ずしもそうじゃなくてもいい。手紙を書いているうちに、伝えたい気持ちが自分の中にあったことを発見していく。やりたいこと、行きたい場所があって旅行にいくんじゃなくて、旅行に行くことを決めて、その後にその場所で何ができるかを調べればいい。社会の行き先に関心があるから選挙に行くのではなく、選挙に行こうと決めることで、社会に関心が生まれる。


(僕は、「選挙に行きましょう」という呼びかけが嫌い。選挙だけでなく、どんな商品を買うか、どんな考えを応援するか、「日々の選択の積み重ね」が世の中を作ってると思うから。その時だけの盛り上がりで大げさに危機感をあおるように、「選挙行かないんですか」と迫るのが嫌い。でも、それはまた別の話)


「興味があるから勉強する」ではなく、「勉強しているうちに興味が湧いてくる」という、因果関係をあえて逆転させろ、という話。


すごく雑な言い方と承知の上で。人間は、「自分を生存させる」という究極の目的の達成を、自分じゃなくて世の中に大きく委ねて生きている。食料の調達も、天敵からの防衛も、そのほとんど全てを「世の中」が代行してしまう。


それを不満に思うなんて、なんとも贅沢な話だ。僕にも別に不満はない。でも、喜怒哀楽や欲望が曖昧になるな、とは思う。「生き残る」ため手段や戦略が、生まれてくる前から「自分以外の曖昧な共同体」によって既にフォーマットが決まっていて、それに沿って自分の欲や喜怒哀楽を設定すると生きやすい。


「生きたい」と思わないでも(ほぼ)生き残れるんだとしたら、自分の目標を立てる必要なんてない。そうすると、設定するゴールに実感が持てなくて、喜怒哀楽も自分のものじゃないみたいで、メーターがバグってくる感じがある。


だからどうするかっていうと、あえて実感のない目標を暫定で立てればいいし、それをやってる間に実感が湧いてくる、という(また雑なこと言ってるな)。生きたいと思うから生きるんじゃなくて、生きてるうちに生きたくなってくる。

 

コーヒー&シガレット


僕はもうタバコを吸ってない(この5年間で8本ぐらいかな。飲み会や麻雀の時にもらったぐらい。この半年はその機会もない)けど、嫌煙家と愛煙家のどちらと友達になりたいかを考えると、圧倒的に愛煙家だ。


個人的な先入観であること承知で決めつけてしまうけど、このご時世にタバコをやめないなんて、控えめに言って「変わってる」。「人の意見に流されない、ちょっと面白い人」に違いない。自分を曲げない強情なところがあって、世の中の空気に流されない。でも、自分のちょっとした欲には流される可愛げがあるのが愛煙家じゃないか(ちなみに、この意見は愛煙家にすら首を傾げられることが多いんだけど)。


タバコの話になると、「健康への害」や「マナー」、「迷惑」という話題とすぐに結びついてしまうから、コーヒーで考えようか。僕らは、「リラックス」しているときに、「リラックスを実感するための小道具」が必要なんじゃないか。「これがあると、リラックスできる」と自己暗示を、体に染み込ませる。

 

僕は海水浴に詰将棋の本を持っていった。5手詰めの、それほどトリッキーじゃないやつ。結果は大成功で、詰将棋を考えることによって、「余計なことを考えない」に少し近づいた気がする。(また行きたい。今年は行けるかな)

 

順番を無視してみる

 


「ライ麦畑でつかまえて」、最初から最後まで似たようなことがずっと書いてあるので、「どこから読み始めて、どこで読み終わってもいい」小説なんじゃないか。そして実は、そんな読み物が世の中にはたくさんあるんじゃないか、と想像する。


このブログですでに何度か書いたことの繰り返しになってしまうんだけど、僕は「伏線回収至上主義」が嫌い。「伏線が回収されること」が必要以上に持ち上げられ、過大評価されている
気がしている(同時に、「伏線が回収されないこと」が致命的なキズのように扱われているような気がしていている)。これは、小説や映画だけじゃなくて、コントの感想とかでも出てきて、ちょっとウンザリしている(別に誰が何をどう思おうと僕が気にする必要もないんだけど)。


僕は、宮沢賢治の「春と修羅」が好きで、よく酔っ払いながら読んでいた。しっかり理解しようとしても、言葉もわからないし、描かれている情景の流れも追えなくてもどかしいんだけど、理解しようとする努力を放棄して、ただ音楽のように流し込んでみると、時々沁みるフレーズがあって、どっしりと酔うことができた。そんな読書、もう10年もしてないかも。もったいないな。

 

その他のツイート

 

 

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www.savacan3rd.com

 

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