ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!「最近」と言っても、もはや半年以上前のツイートをほじくり出して語り直しているわけで、我ながら悠長な話です。
今回はこんな感じ…
スピードがクオリティ
この9月は映像翻訳始めてから一番頑張った。42分のドラマを5話訳した。スクールに通学中は3分訳すのに15時間かかったことを思えば大進歩。いや、一番頑張ったという意味では、当時の方が頑張ってた。今は、頑張ってない。むしろ普通。普通にやれてる。うれしい。(でも10月は休む)
— 鯖缶 (@savacanmemo) September 28, 2019
コールセンターで仕事をしていて、オペレーターたちはとにかく「仕事の早さ」で評価される。限られた人数で、かかってくる電話を取りきらないといけないわけで、「1回の電話を対応して、その内容を入力し終わって送信」までが、短いオペレーターが重宝されるのはしょうがない。
「仕事が早ければ、内容は雑でもいいのかよ」ともよく思う。もちろん、内容が雑だったらダメだろう。コールセンターの場合だったら、「入力にミスがあれば、結局後の工程で対応が遅れる」とか「お客への説明が不足してたら、再度問い合わせがくる」とかがあれば、実質仕事が遅いのと変わらない。
でも、「仕事が早いヤツは仕事が雑」「仕事が遅いヤツは仕事が丁寧」かと言うと、それはそうでもなさそう。1つ1つの工程を丁寧に終わらせれば、ケアレスミスも減るし、仕事が完了するのも早くなる。仕事が遅くなる時にありがちなのは、同じ動作を何度もしてしまうこと。チェック作業をしてる時に集中力を欠いて、どこまでチェックしたかわからなくなって、また最初からやったりすると、遅くなる。そうすると、それは「丁寧なチェック」じゃなくて、「冗長なチェック」になってしまう。
さて、翻訳でもやはり、スピードとクオリティは両立可能、と思う。いや、もっと言えば、スピードこそがクオリティ、なのではないか。「集中して高いパフォーマンスで仕事ができる時間」には、限りがある。せいぜい90分ぐらいじゃないですかね。その90分が、1日に何回取れるか。せいぜい3回じゃないですかね。ならば、その時間になるべく仕事を進めた方が、結果的に質も上がるんじゃないか。「ゆっくり、丁寧にこだわって仕事する」のって、至難の業じゃん、という実感から逆算すると、「スピードこそがクオリティ」と思えてくるんだけど。
「翻訳家」とは言わないらしい
翻訳スクールで。クラスメイトの1人が、「翻訳家」と言ったら、先生がややきつい口調で「翻訳者」と訂正した。要するに、「小説家」「芸術家」を気取るな、黒子に徹しろ、みたいなこと。呼称にこだわるのもナルシスティックな気がしたけど、それ以来「翻訳者」を僕も使ってるから、納得したんだろう。
— 鯖缶 (@savacanmemo) October 1, 2019
この話はなんか時々思い出す。これをツイートしたのは去年の10月か。なんで思い出すかっていうと、たぶんちょっとムカついたから、なんじゃないか。
その講師は何しろ、「翻訳家」という呼称を毛嫌いしていて。「翻訳家」という言葉を聞くと半ば感情的にそれを否定するスイッチが入る。まあ、僕もその考えは嫌いじゃないんだけど。「小説家」「建築家」はカリスマ性も仕事のうち、みたいな感じがある。だけど翻訳の仕事は、「いかに自分を消すか」が醍醐味。「使ってるのに気づかないぐらいの装着感が軽いVRゴーグル」みたいな存在になれるかどうかが勝負、という感じ。(大抵の場合、「個性」以前の問題として「勉強不足」が原因で、翻訳原稿に自分の形跡が残ってしまうんだけど)
だから、「翻訳家」なんて言うんじゃないよ。それは思い上がりにつながりやすいよ、というようなお説教を早口でされて、よく覚えてる。(でも先生、「翻訳者」という言葉にこだわるのも、ナルシスティックだと思いますよ)
それにしても、翻訳スクールの頃のことは、わりと思い出す。「プロの映像翻訳者を養成します」つって、こっちは授業料払って教わってるんだけど、「翻訳道」みたいな精神論的な説教をされることも結構あって、まあ納得いかないよね。でも、複雑なのは、僕も「翻訳者たるもの、かくるべし」みたいな話が結構好きだったんだよな。
相手の手を読むのがムズい
将棋をやっていて。相手の手を考えるのって、本当に難しい。「自分の手を考えるのと同じぐらい気合を入れて相手の手を読む」ことに、潜在意識的な障壁が相当ある。単純に「考えてもしょうがないかもしれないことを考えるの、めんどい」というだけなんだけど、その自分の弱さが、存外に根深い。
— 鯖缶 (@savacanmemo) October 2, 2019
自分の指してる将棋のレベルが、「将棋」と呼べるレベルかはさておいて。それぞれのレベルで。「相手の手を読む」は難しい。詰将棋の図面を反対に見て、自分の王が詰められる側という想定で読むだけでも、力がつくと聞いたことがある。多分そうだろう。
— 鯖缶 (@savacanmemo) October 2, 2019
去年、将棋ファンの間では、木村一基さんの王位獲得が話題になった。自身7度目の挑戦、46歳での初のタイトルはストーリー性十分で、ミーハーでもガチでもそれぞれ胸を熱くせざるを得ない感じ。
(参考記事貼りつけておきます↓)
46歳悲願の初タイトル、木村一基九段が刻んだ新たな歴史。王位戦第7局観戦記|将棋コラム|日本将棋連盟
涙の末、手にした悲願 最年長初タイトルの木村新王位 :日本経済新聞
「受けの棋風」っていうのは、「消極的」「安全策」とは全然違って、かなりロマンのある指し方なんだと想像する(素人の僕の雑なイメージでしかないけど)。「攻め」は、「多少無理があっても、相手が一手ミスすればとどめを刺せる」という意味では実践的、現実的な勝負術。「受け」はその逆で、「相手の手を読んでそれを潰していく作業で、一手でも致命的な読み抜けがあると、負けに直結する」という感じ。だから、「受けの名手」である木村一基さんが、そのロマンをついに実らせたのはすごい。
さて、僕がこの自分の過去ツイートをちょっと面白いと思って貼りつけたのは、「無意識に考えるのをサボってしまいたくなること」って、きっとあるな、ということ。僕の中では、例えば「老後の心配」とか。これは、考えるのが相当心理的な障壁がある。ちゃんと考えて、「ここまで準備したから今のところはこれでOK」とか思ったほうがいいんだろうけど、なんとなく不安なままでもう10年ぐらいすぎた。
…やっぱり、ここでフリーズするな。たぶん、「お金のこと」「健康のこと」「心のこと」とかに分けて、それをさらに細分化して、「とりあえず今できること」を抽出するのが王道なのかな。まあ、あんまり自信ない。
その他のツイート
娘8歳の夏休みの自由研究は、「夕飯を作ってみた」というもの。献立を考え、買い物に行き、作り、それを絵と写真で画用紙に説明したやつ(ほぼ妻がサポート)。
— 鯖缶 (@savacanmemo) September 11, 2019
だけど、出す直前で恥ずかしくなったらしく、ちっちゃい粘土の工作に変更した。このね、「恥ずかしい」って気持ちも成長だよね?
うちの妻が偉いのは、「自分も手伝った(力作の)自由研究」を一度は学校に持っていった娘が、それをそのまま持って帰ってきて、次の日に「(明らかに手抜きとわかる)粘土のミニ茶碗とミニ急須」を持っていく娘の意向を「ありゃ、なんで」と言いながらも認めたところ。なんか、偉い。
— 鯖缶 (@savacanmemo) September 11, 2019
【僕の日常】
— 鯖缶 (@savacanmemo) October 3, 2019
会社仕事:コールセンター(PCガン見)
自宅仕事:映像翻訳(PCガン見)
趣味①:NFLネット観戦(PCガン見)
趣味②:ブログ(PCガン見)
趣味と仕事の合間にやること:将棋ウォーズ、ツイッター(スマホガン見)
【所見】
目が疲れそう。趣味③ラジオの時間を増やしましょう。
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