鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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最近気づいたこと(2018年11月②)

ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!

今回はこんな感じ・・・

 


「未来かよ」

 
漫才やコントで、電話をかけるシーンがあったとして、それをパントマイムで示す時の話。電話をかけるときに、スマホを使う指の動き(スワイプとか)を見ると、なんか「カッコよすぎ」な気がしてしまうのだ。


「マイノリティ・リポート」かよ! トム・クルーズ入ってたぞ今の動き! みたいな「無駄なツッコミ」が湧いてきてしまう、というか。コントで、「電話をかけていること」だけ設定として伝わればいいのに、「わざわざカッコつけてる」みたいなボケなのかな? と一瞬思ってしまうと、流れが悪くなる。(だからコントとかでは、「スマホらしい動き」はなるべく強調せずに、「電話をかけてる」ことだけが伝わるような動きを選ぶ気がする)


考えれば奇妙な話である。もはや「スマホ」の方が「当たり前」のはずなのに。そして、普段の生活で自分がスマホを操作してる時にはなんとも思わないのに。「舞台で、パントマイムでその動きを見ると、「未来かよ!」と思ってしまう、という。


このことはどちらかというと「動作の記号化」「動作の抽象化」に関わってくることなんだと思う。「なるべくリアルな動きに忠実なパントマイム」をやろうとしても、その動きがリアルになればなるほど、「手に持ってるはずのスマホがそこにないこと」が目立ってきてしまう、ということ。だから、ある種「手話」のように、動作の一部分だけを取り出して、「符号」として伝えてしまった方が、むしろしっくりくる。


この感じ、すごくグっとくる。「スマホをかける」という当たり前のこと自体に、まだ演者と観客の間で共通認識となるような「当たり前のゼスチャー」がまだ生まれていない、この奇妙なタイムラグに。

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「ゼスチャーが雑な人」

 

上に書いた、「スマホのゼツチャー化」の話と少し似ているんだけど。職場で、昼休みの前に突然思いついたネタ。「メシに行く」は左手でお椀(丼?)を持って、右手で箸の動きをやるべきだが、なぜか左手でもかっこむ動きを時々入れる。「右右左右左右右」みたいなリズムで豪快にメシを食うゼスチャー。

 

「ゼスチャーを使う」時点で、「口で説明しなくても、簡単な動きで伝わるはず」という、共通理解を前提にしたコミュニケーションのはずなのに、そこを雑に破壊してくる人、というキャラクターが自分で考えたネタなのにツボにハマった。

 

実は次の日も飽きずにやっていたんだけど、後輩の優秀なイケメンに「いや、鯖缶さんどんだけユーモラスなんですか」ってツッコまれて、「気を使わせた…」と反省して、もうやめた。

 

選べない

 
もう、この歳になったら根本的には治ることはないと思うんだけど、自分の「買い物嫌い」には呆れてしまう。それを他人に説明しようとして分かったんだけど、要するに「ええかっこしい」で、「バカだと思われたくない」。その思いが「欲しい」とか「楽しい」とかを上回ってしまう。


行列のできた店に、並べない。「並んで、待ってまで食べるほどの味なのかよ」みたいに思われるのが怖い。「食べてみたい」っていう気持ちをエンジンにして、「未経験のこと」に一歩踏み出してみればいいのに、それよりも「いや、それほど食べたくないし」と、自分を説得してしまう方がはるかに楽だ。


「人生の選択」みたいなことでもそうかもしれない。「とりあえず選んでおいて、ダメならやり直せばいい。何もやらないよりいい」と100回ぐらい自分を説得しないと動き出せない。その結果出遅れて、ますます挑戦する気概がそがれる。トライ&エラーの経験が乏しくて、それでますます自分の自意識過剰を可愛がってしまう。


ほら、「ニンテンドースイッチを買うのがめんどくさい」というだけで、ここまで内向できる。しょうがないので、これを楽しんでいくしかない。

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ちょっとした逆転現象

 

よく、ビジネス敬語で話題になるのが、「ご連絡いたします」と言った時に、自分の動作なのに「ご」とつけるのは、誤りなんじゃないか?という話。


これは、謙譲語のひとつ形なので誤りではない、というのが有力だと思うんだけど、それでも話題になるのは「間違いだと感じる人」がある程度以上いるから、話題に上るんだろう。


(下のサイトではシンプルにまとめられてます。文科省の指針では「正しい」とされているようです)

「ご連絡いたします」の意味と使い方・敬語・間違いなのか - ビジネスマナーを学ぶならTapBiz


僕にとって興味があるのは、「ご連絡いたします」が敬語として正しいかどうか、ではなくて、「しっかりした知識が不足してる人の雑な認識」の方が「大きな声で繰り返し言われる」という逆転現象の方だ。


「自分の方はへりくだるんだから、自分の側の物事に「お」や「ご」はつけてはならない」というのは雑な認識だろう。上の謙譲語の例もそうだし、「お花」「お茶」「お金」など「美化語」として、尊敬・謙譲に関わらず「お」をつける例もある。だけど、「教えるのが好きな人」というのは、「教えること自体」が好きなので、「教えている内容が正しいかどうか」にはあまり興味がなかったりする。


「ルールに従うのが好きな人」「ルールに従わせるのが好きな人」は、ルールに対して批判的になりにくい。ここでいう「批判」は、文句や不平を言って反抗的な態度を取ることではなくて、「よりよいルールはないかと考えること」「ルールが正しく運用されてるかをチェック、確認すること」という意味での批判。

 

どうなるか。ルールの把握が雑な人が、雑な理解のまま真面目にルールを守り、他人にもルールを守れと自信満々で迫ってくる。僕の実感では「地獄」に近い。控え目に言っても非生産的だと思う。この現象、きっとそこらじゅうで起こってるはず。想像すると気が遠くなる。


その他のツイート

「メモを取る」みたいなつもりでツイートしていることが多いので、自分的に覚えておいてもいいかも、ということを貼りつけておきます。



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