鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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最近気づいたこと(2018年9月③)

ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、週に1回ぐらいのペースで反省するコーナーです!

今回はこんな感じ・・・


ウソのつき方

 

 

このツイートは、なんとなくの気づきとしてメモしたんだけど、ちょっと自分的に覚えておきたいと思うので、同じ内容のことだけどいくつかまとめておきたい。


昨日書いた記事でもちょっと似たことを書いた。「口答えをするな!」と部下や後輩を恫喝するより、「抗議の作法」を学ばせたほうが案外組織ってうまく回るんじゃないか、と。


子どもに、「ウソをついてもいい」と、親や先生が教えるのはちょっと違うと思う。子どもには、親や先生が言う「つまらない常識」を時々はみ出したり、はみ出して痛い目にあったりしながら世間との付き合い方を身につけていってほしいので、「たまにはウソも必要だよね」と僕から子どもには言いたくはない。


でも、子どもには「ウソとの付き合い方」みたいなものは学んでいってほしい。なんだろう? ちょっと悪い友達かな?それとももしかしたら、文学かな?


僕は、文学少年だったので、不倫にもギャンブルにもドラッグにも憧れはある。家族も人生も全部捨てて逃げるような虚無にも。もちろん、「憧れ」と言ってもそれを肯定してるわけじゃないし、今の僕がそうしたい、と思ってるわけじゃない。でも、そんな破壊衝動も含めて人生があるはずだし、その複雑さを、「めんどくさい」じゃなくて「豊かなもの」として子どもには感じ取ってほしい。


とは言え、自分や誰かの命に関わる可能性がある時とか、誰かを傷つける場合とか、「ついちゃいけない種類のウソ」「ついちゃいけないタイミングのウソ」は当然ある。その時は子どものウソをしっかり見破って(ムズい)叱りつつ、ウソをつく面白さや悪知恵は全否定はしない、というようなことかな、などと思った。


いやいや、それはちょっと大変だな。最初に戻るけど、親としては「ウソをつくな」でいいや。子ども自身で、友達同士で(痛い目にあいながら)勝手に学んでいくだろう、というのがとりあえずの結論。

 

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娘7歳、SFっぽい世界観

 

「パラレルワールド」とか「記憶を埋め込まれた、誰かそっくりのアンドロイド」とか、そういうSFっぽいコンセプトを娘が割と正確に理解してるのが驚いた。そういうアイデアのあるアニメとかってそれほど見てない気がするんだけど、どこから仕入れてきたのか、経路がよくわからない。


小学6年の修学旅行の時の、僕自身の記憶。転校したばかりで雑談する友達もいなかったハイキングで、黙々と歩いているうちに、その道中をハイキングではなく、「命が懸かったマラソン」みたいに空想し始めたことを覚えている。


なんで覚えているかというと、僕は黙って空想してただけなのに、近くを歩いていたK君(変わり者で、やはり友達と雑談などしていない)が、僕がスピードアップしたところでスピードアップしたり、僕と競り合うようにして歩き始めたので、「空想がシンクロした」と直感的に分かってしまった体験だったからだ。(あとから思うと、空想の内容がシンクロした証拠はどこにもないんだけど、なぜか「同じ内容の空想世界で2人が競い合った」と思い込んだ)


この時の僕の空想は、「パラレルワールド」とは全然違う。「物語っぽいフィルターで現実を見る遊び」というだけの話。思い起こすと、僕は小6でも「パラレルワールド」的なことは理解していなかった(というか知らなかった)気がする。


たぶん、娘自身はちゃんとは説明できないだろうと思う。でも、SFっぽいものごとの捉え方は理解していて、それがこれからどう発展するのか、しないのか、観察してみたい。

 

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「泣き虫しょったんの奇跡」と「かくかくしかじか」


 

どちらもある程度以上有名な作品だけど、全力でおすすめなのは間違いないので、紹介しておきたい。

 

泣き虫しょったんの奇跡 完全版<サラリーマンから将棋のプロへ> (講談社文庫)

泣き虫しょったんの奇跡 完全版<サラリーマンから将棋のプロへ> (講談社文庫)

 

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「泣き虫しょったんの奇跡」は、実在の棋士、瀬川晶司さんの自伝。奨励会(プロの将棋棋士の育成機関。四段になるとプロとして認められ、年棒や対局料を受け取れるようになる。四段になれるのは1年でたった4人という狭き門)を三段で退会してサラリーマンになった瀬川さんが、そのあと「プロ試験」で合格する(アマチュアの大会で優勝などすると、プロの棋戦にエントリーできる場合がある。そこで瀬川さんは好成績を収め、「これだけプロに勝ってる人がプロになれないのは勝負の世界の理屈からするとおかしい」との声が将棋連盟の内外を巻き込み、ついに実現した異例中の異例の試験)。


何年も前に読んだ本なので、細部は覚えていないんだけど、僕が一番泣けたのは、奨励会で勝ち残れずに退会した瀬川さんが、家族(お父さん?)から、「お前はよく頑張った」と慰められて、心の中で「違うんだ。僕は、全然頑張ってなかったんだ。遊んでばかりで、ちっとも頑張ってなかった」と、将棋に捧げた自分の青春を、苦く思い起こすシーン。


ある程度以上努力した人間だけが、「自分の努力が足りなかった」と気づけるんじゃないか。何かに真剣になったことのある人だけが、「より真剣な人の凄み、強さの差」に絶望するんじゃないか。そんな風に想像した覚えがある。

 

 

かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)

かくかくしかじか 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)

 

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「かくかくしかじか」は東村アキコの自伝的マンガ。マンガ家になった主人公と、美大を受験するための絵画塾の先生との心の交流を描く。

 

美大に合格後、故郷を離れた主人公(≒東村さん自身)は、やがて「絵」を描かずに「マンガ」を描くようになる。美術としての絵画、からするとマンガは「邪道」に違いなく、(マンガを描いてることを責められたわけでもないのに)「先生」とは疎遠になってしまう。

 

主人公はマンガ家として売れてきてからも、「先生」にどこか罪の意識に似た感情を抱いていて、それが苦く、切ない。「自分は、何かと向かい合えなくなって、そこから逃げたままなんじゃないか。そのことを、あの人には見透かされてしまう」というような気持ち。大事な場所だから、簡単には帰れない(故郷)。大事な人だから、簡単には会えない(恩師)。会っても、本当の気持ちを話せない、というような。


(ここまで書いておいて申し訳ないのですが、「泣き虫しょったんの奇跡」についても、「かくかくしかじか」についても、うろ覚えで紹介しています。細かい部分は間違ってるかもしれません… 「おすすめです!」ということが伝わったらうれしいです)

 

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常識とマナーの行く末

 

「あなたの行動はマナー違反」とか「あなたには常識はないのか?」とかの言葉に、説得力がないな、とはずっと感じていて。


そういう物言いをする人がほぼ間違いなく「イヤな奴」ということで終わらせればいいような気もするんだけど、「常識」とか「マナー」とかいうものの行く末が気になってる。


「ルール的にはOK(グレー)だけどマナー的にはNG」みたいな行動って、きっとたくさんある。本屋で本の内容をスマホで撮影したりとか(これはルール的にNGなのかな?)、チケットの転売とか。ツイッターでは、「出先で、タクシーの配車を頼んでおいて、流しのタクシーを捕まえたからすでに向かってる配車をキャンセル」みたいな例も目にした。


そもそも、ルールは万能じゃない。新しいものごとにルールの整備は追いつかないことはよくあること。事前に細かく設定すると運用しにくいし、一度決めると変えにくいし、周知にも、守らせるにも手間がかかる。

 


だから、「ルールで決められない些細なこと」とか「ルールが決まってない新しいトラブル」なんか補完するのに、「常識」は合理的な存在意義があったはず。「従業員がトイレに行ってもいい回数」を決める会社があったら、よっぽど進歩的な会社か、終わってる会社かのどちらかだろう。そんなの、「常識の範囲で」の一言で済ませたほうがいい。

 


だけど、「常識」がどれほど頼りになるかは、もはや相当怪しくなってるんじゃないか。「自分の属する共同体」への帰属意識が薄ければ、「〇〇は恥ずかしいこと」というような「縛り」は実質的な効果はないわけで。「常識」で解決していた問題が、解決しなくなるのはほぼ避けられないことのような気がするけど、じゃあどうなるのか。ちょっと気になってる。

 

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その他のツイート

今回は以上にします。あと、「自分的に、覚えておいてもいいかも」と思ったツイートをいくつか貼り付けておきます。次回もお楽しみに!

 

 

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