鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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教わるのが下手な後輩、教えるのが下手な先輩

 

上のツイートはコント仕立てで書いてるけど、「仕事を教えるのが下手な先輩」と「仕事を教わるのが下手な後輩」の組み合わせなんて、きっと世の中のあらゆるところにあるんじゃないかと想像する。


先輩風を吹かせて、いちいち威張りながら教える先輩。その先輩をバカにして、質問や相談をしない後輩。先輩は後輩の可愛げのなさがおもしろくなく、業務連絡を伝えるときには説教をちょい乗せし、ミスを指摘する時にはイヤミを2割増。後輩はますます心を閉じる… みたいな展開。(ハラハラしますね)


他人事みたいに書いたけど、僕にも嫌いな上司や後輩が少しはいる。でも他人事のように考えれば、「どうせこの人には嫌われてるんだろうな」という不確かな根拠で、僕からも苦手になってることが多い気がする。そうすると負のループが止まらない。


人の好き嫌い、「アイツにはナメられたくない」という気持ちはある程度仕方がないこととして、でも職場ではその気持ちにフォーカスする必要もない。なんとか先輩風を吹かそうという気持ちをグッとこらえて、業務上必要なコミュニケーションに集中するように、気をつけたいと思ってる。


ポイントとしては、「3人目の視点」かな、と思う。僕が後輩Aのことを嫌いだとして、そのAをどう扱うか、好きな後輩Bは見てる。「感情にとらわれている対応をしていたら、Bに対してみっともない」と思えると、「Aのことがムカつく」という感情をちょっと相対化できる、というか。


あるいは、「上司や後輩に対して変な見栄があると、単純に仕事が遅くなる。お客に提供する仕事のクオリティが下がる」と気づけるかどうか。チームワークとは、「感動! 一体感!」というテンションでは実は安定しない。「与えられたミッションを果たすために仕方なくクリアするもの」と思うのが僕にとってはしっくりくる。

 

ちょっと前に、隣の席で電話対応中の後輩が僕を呼んで、「この地名、何て読むんですか?」と聞いてきた。(お客に担当部署を案内する必要があった)PCを覗いてみると「苫小牧」だ。電話を切った後、「”とまこまい”を知らないのはさすがに恥ずかしい」とは言わずに、「ナイス相談。お客さんを待たせずに案内できてすごい。恥をかくのも仕事のうち」と褒めたら、「その褒め言葉がすぐに出てくるのはすごい」と後輩は返してくれた。(まあ、かなりレベルの低い話ではあるけど)

 

リスペクトのあり方について考え中


僕は、映画のエンドロールにはほとんど興味がない。でも、エンドロールが流れてる間は席を立たないし、スマホも見ない。「映画の余韻にひたってる人」がいるなら、その人の「余韻」を尊重したいからだ。


「リスペクト」って、例えばそういうことなんじゃないか。「エンドロール、すごく大事」「エンドロール、感動」って尊敬するんじゃなくて、「僕にとってはどうでもいいことだけど、この時間を大事に思ってる人がいることを踏まえようかな」っていうリスペクトのあり方。


(同じように、「エンドロールの途中で席を立つ人」のことをバカにする必要もないな、とも思う。その人だって、映画を十分に味わったかもしれない)


ずっと書こうと思ってサボってることがあるんだけど、それは「僕は子ども入学式に君が代を歌わない」という話。


僕は誰からも歌うことを強制されたくないし、誰にも強制したくないし、それは国歌であっても同じだ。入学式(あるいは卒業式)に君が代を歌うのは自然なことかもしれないけど、その一方で、君が代を歌わない入学式を認めてもいいはずだ。そのことを自分で覚えていたくて、歌わないことに決めてる。


だけど、僕は「君が代を歌わない側」に寄り添いたいだけであって、「入学式で君が代を歌うこと」を否定したいわけじゃない。だから、自分が歌っていないことをその場で誰かに示して抗議したいわけじゃない。だから、起立して、静かに目を伏せて、祈るような感じで斉唱が終わるのを待っている。


(我ながらなかなかに面倒くさいな。いずれ詳しく考え直そうと思ってます)


なんでこのことをずっと書こうと思ってサボっていたかというと、「君が代を歌わないとか言うと、怒られるんじゃないか」という単純なビビリだ。だから、「国」の話じゃなくて、「会社」の話に置き換えて続けてみたい。


「自分の会社の業務には社会的な意義があって、自分のやっている仕事には間違いなくやりがいがある」と、そんなふうに自分の会社をリスペクトすべきだろうか。あるいは、リスペクトできるだろうか。または、会社を愛すべきか、会社を愛せるか、でもいい。


「会社を愛せる人もいるかもしれないし、愛せる時もたまにはあるかもしれない」とは思うけど、「まあ、愛社精神を前提にして会社を回そうとするのは無理があるな」というのが僕にとっては実感に近い。


じゃあ、会社を愛してないからと言って、バカにしていいのかと言うと、それは違う。会社があり、仕事があることのありがたみを感じずに生きるのは無理がある。会社の今までのあり方を尊重すること、そのことを同僚や上司や後輩に伝わるように態度で示すことは、大人として当然のことだ(挨拶するとか、指示には返事するとか、その程度のことを想像しています)。


愛社精神を前提とせずに、「すばらしいもの」としてではなく「必要なもの」として尊重する、という意味でのリスペクト、がむしろ大事なんじゃないかな、と思う。


「愛国心」も同じだ。愛国心を前提にするのは端的に言って無理があるのではないか。ただし、「国」はたぶん必要だし、今までも存在したしこれからもたぶんあるだろう。そのことを踏まえて尊重するのが、僕にとっては自然に思える。

 

権力の乱用をチェックするのが言論の役目じゃないですか


「甘やかすとつけあがる部下」と、「下手に出ると増長する上司」どちらがたくさんいるかはわからないけど、どちらがより問題かと言えば、圧倒的に上司の方じゃないか。単純に、権力のある方を厳しく見るべき。交通ルールをナメた歩行者よりも、飲酒常習犯のダンプカー運転手の方がヤバいでしょ。


自分が機嫌が悪いと部下を怒鳴りつけ、何かあると評価を下げるようなことをほのめかし、有給休暇を申請するとイヤミを言う。育休明けの部下をいじめたり、あるいはいじめを放置したりする。そんな上司がいたら、最悪だ。


それに比べれば、クソ部下なんて大して問題じゃない。「タメ口ばかりで調子に乗る」「すぐ休む」「言い訳して仕事を覚えない」「実力もないのに、いちいち反抗的」そんな部下がいたとしても、たかだかムカつくだけの話。

 

話が雑すぎるかもしれないけど、「上司は部下をクビにできる」けど、「部下は上司をクビにできない」ということ。(実際には部下を簡単にはクビにできないだろうけど、「不当に難しい仕事や、不当に簡単な仕事を差配する」というパワハラの例のように、権力を行使できる、ということ。部下が上司をクビにするには、より大きな権力を頼らなくてはいけない)


中学、高校の髪型や服装についての校則の話。「スカート丈や下着の色まで指定するのは理不尽」「地毛が茶色なのに、校則で決まってるからと黒に染めさせられた。人権侵害」みたいな話をした時に、「甘やかすとつけあがる子どもは必ずいる。ルールがある以上、例外を認めると歯止めが利かなくなる」というように、「厳しいルール支持」の人が案外根強くいる気がする。


校則を廃止すればいいものかどうかは、そう簡単に決められないかもしれないので議論はここでは避けるとして、僕が常に気にしたいのは、「性悪説を用いる対象」についてだ。


「(ルールを緩めて)生徒の自主的な判断に任せた方が、結果的に秩序が保てる」という性善説的アプローチに比べて、「(ルールを緩めて)甘やかすとつけあがる生徒がどうせいる」という観点は、性悪説のアプローチと言える。「放っておくと人間は堕落するから、あらかじめ歯止めが必要」と。たぶんある程度の真実は含まれているんだろう。


だけど、僕が感じているのは、むしろルールを運用する側に対して性悪説的な観点からチェックするべきではないか、ということ。「ルールを笠に着て、自分の権力欲を満たすパワハラ教師が、行き過ぎた指導をする」方が、「甘やかすとつけあがる生徒がいる」よりも、はるかにヤバいじゃないか。そして、権力の行使というのは相当に中毒性のある快感だから、よっぽど気をつけて扱わないと、なかなか正しく扱えないのが普通なんじゃないか。


何を言いたいのか。最初の例えに戻すと、「ヤバい部下よりヤバい上司の方がヤバさがヤバい」ということ。「権力を正しく扱っているか」のチェックを、より厳しい基準でするのは、実践的な方針なのではないか。


僕は、「ハロウィンで仮装をして渋谷に繰り出して大騒ぎする文化」を雑に嫌っているけど、それでも、「路上での飲酒を禁じる」という条例には違和感を覚える方だ。


(参考記事貼っておきます↓)

渋谷区で路上飲酒禁止条例が成立(木曽崇) - 個人 - Yahoo!ニュース


つまり、「すでにある法律だけで十分じゃないの?」ということ。もちろん、痴漢や乱暴や軽トラ転覆は犯罪で、「ふざけた格好をして酔っ払ってるからOK」にはなるわけがない。でも、「ふざけた格好をして酔っ払ってるからといって、何もしていない人間を取り締まる」のは、あんまり楽しい世の中じゃない。


「楽しいこと」は、大抵世の中の役に立たない。「路上での飲酒」を、僕自身は死ぬまでしなくても別に構わないけど、「アメフトは乱暴なスポーツだから、アメフトの試合をネット観戦するのは週に2試合まで」という条例ができたら発狂する。


議論が雑すぎて少し反省してる。実際にハロウィンの時期の渋谷は危険で、何か対策が必要なのかもしれない。それに真剣に悩んでる人たちからすれば、無責任な意見だろう。僕には正解はわからない。


だけど、僕は権力者のことを考える時は、まず性悪説から入って考える。もちろん、すべての権力が間違った使われ方をするわけじゃない。ただ、「権力ってのは取り扱いが難しいから、できれば最小限のサイズで、慎重に行使すべきだ」という立場から物事を観測する、ということ。部下と上司、というイメージしやすい例から考え始めたけど、本当に考えたいのは国家権力についてだ。「甘やかされて増長した国民」なんて全然ヤバくない。本当にヤバいのは、「権力を正しく扱えない権力者」の方じゃないか。権力者について考える時にこそ、性悪説でアプローチすべきだ。(念のため書いておくと、「政治家は悪いヤツばっかだ」という話じゃない。悪いヤツだった場合に被害が大きいのは権力のある強者の側だから、まずはそちらを性悪説で考えた方がいい、という話)


思考が雑になると、「力が弱い側が黙ってくれればいいのに」と思ってしまう傾向があるな、と思って、気になってたことをまとめ直した。引き続き、考えていきたい。

 

 

 

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「コンビニでタバコを番号で注文しない客の話」で思ったこと

 

僕がツイートする時は、自分が2ヵ月ぐらい経ってから読み返すメモのつもりでツイートしていて、そのメモをネタにこうやってブログを書いている(ブログは、5年か10年経ってから自分で読み返すつもりで書いてる。実際には絶対に読み返さないと思うけど、そういう目線を想定して考えをまとめる、ということ)。


この「コンビニのタバコ」の話が、もはや何の話か分からなくなる気もするから一応書いておく。


「コンビニに置いてあるタバコ」について、店員は番号で言ってくれないとすぐにわからないことがある(タバコって、同じ銘柄でも「ライト」とか「マイルド」でタール数が違ったり、種類も多いしなかなか全部覚えきれないんだろう)のに、銘柄で言う客がいて腹が立つ、みたいな話がたくさんリツイートされていたのを目にした、ということ。


もし僕が店員の立場だったら、タバコの銘柄は必死に全部覚えるだろうな、とは思う。「他の多くの商品はお客が自分で手に取ってレジに持ってこられるけど、タバコはお客が注文しないといけないレジ内の棚にある。これを覚えないで時間がかかり、お客をイライラさせたりしたらバカらしい」というような。


もし僕が客の立場だったら、タバコは番号で注文するだろう。店に入りたての店員さんで、銘柄で言ってもわからない可能性が少しでもあるんなら、初めから番号で言う方が、待たなければならない時間が増える可能性を減らせる。僕の後ろにも待ってる人がいるんだ。僕だけの問題じゃない。


というか、もし可能なら、あらゆるものをタッチパネルで注文したいぐらいだ。自分が欲しいものを口にしなきゃいけないなんて恥ずかしい。「ファミチキ」「ななチキ」も番号で注文したい。


「タバコを番号でなく銘柄で伝えてくるコンビニ客がウザい」ということなんて、はてしなくどうでもいいことのように思うけど、この時の僕が、その話に興味を持った理由は分かる。「そういうバカな奴に限って偉そう」という実感があるからだ。


同じ話をこのブログのどこかで書いた気もするけど、僕がよく覚えてる体験談を。


コールセンター勤務の電話対応中、名前の漢字をお客に聞いたときのこと。「“ゆうじろう”の“ゆう”」という説明をした人がいた。


僕は個人的には、漢字の説明をする時に、有名人の名前は使わないようにしている。「自分の知ってる有名人が、他人にとっても知ってる存在だ」という世界観を前提にしている説明なので、それだけで十分尊大だと感じるからだ。「村上春樹の春」とは説明しない。「季節の春」でいいだろう。


まあ、いい。「石原裕次郎」は、いわば歴史上の人物に等しい。「徳川家康」とか、「野口英世」とかと同じカテゴリーに入れる人がいても否定しない。そもそも、伝わればいいのだ。僕は念のため、「石原裕次郎の裕、ころもへんに谷、ですね?」と聞き返した。


そうするとお客は、僕のことを鼻で笑ったのだ。そんな意図はなかったかもしれないけど、「こいつ、ゆうじろうのこと知らないなんて常識ないな」というニュアンスで。鼻で笑ってから、「え、ころもへんに右だよ」と。


「祐」である。これは「しめすへん」。旧漢字だと「示」だからわかりやすい。「禮(礼)」とかね。ほら、「示」を続けて書くと、「ネ」になるやつ。いや、まあいい。「しめす」と「ころも」の違いはこの際置いておくとして、何で自分で「ゆうじろう」っていう例を選んどいて、間違って覚えてるの? と、ここまで一瞬で思って、僕のオペレーターとしての答えは我ながら素晴らしかった。「(気づいたようなニュアンスで)あ、大変失礼いたしました」である。


何しろ、漢字が伝わればいい。そのお客の後ろにも、順番を待ってる別のお客がいるのだ。間違いを指摘する必要はない。


だけど、僕が何でこのことを覚えているかといえば、大変腹が立ったからだ。「間違ってる奴に限って、それを間違えたまま、人をバカにするんだ」「人をバカにしてるから、うとまれて、間違いに気づかないままなんだ」「ああ、そんな奴に、鼻で笑われた、ああ、それがオペレーター稼業のツラいところよ」と。


きっと、コンビニに限らず、客商売を経験したことがある人(つまり、ほぼすべての業種だろう)は、「バカな客にバカにされた悔しさ」を知ってる。だから多分、「タバコを番号で言わない客がウザい」に共感が集まったんだろうと思う。


僕が最近よく思ってるのは、例えば「他人(この場合店員やオペレーター)を見下した失礼な態度を罰する法律はない」ということ。


そんな法律はあるべきじゃないと僕は思う。失礼な態度なんて裁くための基準がない。恣意的に運用されるなら、法はただの暴力だ。「タメ口」は法では罰せられない。だから、「世間体」とか「道徳観念」とかが「失礼な奴」「行儀の悪いやつ」を裁いてきたんじゃないかと思う。だけど、もはやそんな世間は存在しない。「失礼な奴」だと思ったところで、「知ったことか」と開き直られてしまえばそれでおしまいだ。


残るは、宗教しかない。僕は天国に行けなくてもいいから、僕をバカにした「ころもへんに右ヤロー」を地獄行きにしてくれまいか。ノート3千冊分「石原裕次郎」と書かないと転生できない書き取り地獄に奴を送ってはくれまいか。そんな宗教があるなら入信してもいい、と8%ぐらいは思ってる。


(それで、その「ライトな宗教」の代わりをしているのがSNSなんじゃないかな、と思ってて、そのことについては多分そのうち書きます)

 

「自己責任だろ」なんて簡単に言わないでくれよ

僕の勤めるコールセンターでは、苦情や不満の表明、または対応上のミスがあるとそれをデータベースに登録するんですね。「失敗の共有」という意味で。「再発防止策」も合わせて登録する必要があるんですけど、「当該スタッフに基本の再徹底を指導をした」みたいな結論があまりに多くてそれに辟易で。


例えば、個人の不注意や知識不足がミスの原因だとしても、「スタッフ個人の問題」として片付けるのは会社として非効率だと思って。僕が自分のミスを考えるときには、自分のどの部分に問題があったかを理解して、知識を入れ直したり、業務のルーティンを変えたりするんだけど。それは僕の再発防止策で。


会社が考えるべきは、そういう個人のミスが起きにくい仕組みだと思うから、「個人の不注意、怠慢、経験不足が原因なら、それをどう補うか」を再発防止策として策定すべきであって。


で、僕の会社のことはどっちでもいい(どうでもいい)。貧乏にな人、不幸にな人、行き場がない人が世の中にいるとしたら、それを「自己責任」と言うのは、あんまり意味がない。「貧乏になってしまう人を最小化するにはどういう仕組みを作るべきか」に集中したほうがいい。


だから、政治家やリーダー的な人に「自己責任」的なことを言われるとさすがに腹が立つ。「知ってるよ!でもお前が言うなよ」みたいに。

で、実はそのことも僕はどっちでもいい(結局何が言いたいのか)。

「ただの市民、ツイッタラーがなんとなく言う一言」も、「世論を作る一言」という意味では、「社会を構成する人間が社会に対して言ってる」という意味では、政治家の一言と変わらないはず、と思う。


つまり、誰か他人を「自己責任だろ」と責める時に、その人と向き合って議論するつもりがあるならそれは個人対個人の意見交換だけど、多くの場合は「○○については自己責任だから本人が文句を言うのはうるさい」という空気に一票を投じてる場合が多い。「社会の仕組みは変えなくていい」と、(自覚しているかはともかく)社会の立場から個人を責めていないか。


僕が貧乏でいるのは、僕の自己責任だ。そんなことはわかってる。でもそれを、社会のルールを決める立場にいる人から「お前の責任」とは言われたくない。どうしたら貧乏人を減らせるか。貧乏があったとしても、少しでも不公平感を減らせるか。最低限の安心を保障できるか。そこを社会としては考えようよ、という話。(僕はどちらかといえば貧乏ではないんだけど)

 

「絶対正しい」は単なる思考停止かも知れない


「満場一致の評決は無効。偏見か興奮によるものだから(日をまたいで再審する)」っていうのが好き。(「ユダヤの古い慣習」だったとする記述に、それは誤った解釈、との批判があるらしいです。僕としては由緒は分からないけど、その考え方の中心にある感性が好き)


僕が翻訳をやっていて、解釈を間違う時はだいたい作業の過程で「ここは正しい」と思い込んでしまった箇所で誤訳する。知らない用語や言い回しだったら調べるけど、「分かってる」と思い込んでることは調べないからだ。


職場でも同じ。仕事熱心でマジメな人ほど、業務ルールを間違えて覚えていることがある。2回か3回のパターンでだけ当てはまった法則、を100回でも変わらない、と信じてしまう。


どうしたらいいか。結構難しいな。①休む ②体を動かしてリラックス ③複数の視点から見直す ・・・とか? どれもピンとこない。だって、「絶対正しい」と思ってるんだから。


最初にあげた「満場一致の評決は無効」みたいに、法則化してしまうのは1つの知恵っぽい。僕は字幕原稿を作ったら、逆から読む(終わりの方の字幕からさかのぼって見直す)というのをやっていて、こうすると誤字脱字に気づきやすい(順方向で見直すと、「話の流れ」に注意がいきやすいので。出版社、編集者マンガ「重版出来!」では、校正の人が「作家から受け取った原稿を、原稿用紙の逆から読んでチェック」というのをやっていて、「これだよこれ!」とか思った)。


もう1つ、まあまあ重要な対応策を僕は知ってる。「ミスを指摘された時、ミスに気づいた時にそれを素直に認める」だ。これだってかなり難しいけど、「絶対に正しいと思ってることを疑う」ことに比べれば簡単だ。「人は間違うもの。自分はなおさら」「ミスを認めるのはかなりかっこいい」と自分に言い聞かせる。「ミスだった時に訂正しやすいように、自分では正論だと思ってることも小声で言う」というのが、せめてもの対応策かな、と思ってる。

 

 

必要かどうか分からないことはやめる


平成から令和になるタイミングで、「平成でもうおしまいにして、令和には持っていきたくない慣習」みたいなツイートをたくさん見かけた。その時に僕がようやく思いついたのが上のツイートで、まあそれほど気の利いたことを言ってるようにも思えない。


平成の終わり、はどっちでもいいんだけど、「権力行使の機会の捨て方」みたいなことは興味がある。「仕事熱心な人」がいたとしても、その熱意が無駄な仕事に使われてしまうことがよくある。上のツイートの例で言えば、「入力内容のチェック」は必要な業務だとしても、「プリントアウトして、バイトリーダーの席まで持ってこさせる」という工程は、あまり意味がない。


本当に昔に、「プリントアウトしたものをペンでチェック(色によって意味が違う)、クリアファイルにいれて次の工程のスタッフにデリバリー」みたいな流れがあって、その名残りで、「プリントアウトされたタスクの方がよりシリアス」みたいな不思議な信仰心がまだある気がする。


僕が面白いなと思うのは、「プリントアウトした書類を席まで持ってくる」という業務を、「仕事熱心なバイトリーダー」「仕事熱心な新人スタッフ」ほどちゃんとやってる、という現状について。そりゃあそうだ。「プリントアウトの工程は無駄」というのは単なる僕の意見にすぎず、「仕事のとして定義された工程」を遂行してるんだから、そのことを責めるのはあんまりだ。


だけど、「真面目な人ほど無駄な仕事をやりがち」「真面目な人ほど無駄な仕事を人にさせがち」というのはなんとも皮肉かなあ、と思う。「無駄な仕事を見つけて、それを積極的にやめていくことも仕事のうち」、というのが僕としては自然なんだけど、実はこれは簡単じゃないことも分かってる。


会社で働く多くの人にとって、「無駄な仕事」を削るメリットなんて、別にないことのほうが多いんじゃないか。というか、「無駄かもしれないけど慣れてる仕事」がなくなったら、別の「必要かもしれないけど慣れてない仕事」をやらされるんじゃないか、とか思ってしまう(そうでもないのかな)。


「変える理由がなければ前と同じやり方でやる」は、令和でもやっぱり根強く残るだろう。その根強さがなかなか迫力あるな、と感じるからこそ、「続ける理由がなければやめる」を、いちいち実行していってもいいかな、とは思ってる。

 

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【コールセンター】新人OJTですぐに使える褒め言葉8選

コールセンターで、新人スタッフが実際の顧客対応を始めるOJT。その時に使えそうな褒め言葉を書き留めてみました。

 

トレーナー役のスタッフに、「叱るだけでは新人は萎縮してしまって、なかなか仕事が身につかないよ。褒めて、認める指導をしてね」と伝えることがよくあるでしょう。でも、「褒めること」があまり得意でないトレーナーも多いのが現実ではないでしょうか。

 

ここにあげる「褒め言葉」を覚えれば、「褒めるコミュニケーション」のキッカケになるはず。ぜひOJTに活用してみてください。無理におだてる必要はないかもしれませんが、褒め言葉が頻繁に出るトレーニングなら「認められている」と感じ、新人スタッフもリラックスできます。効果的にOJTを進められるはずです。

 

(業務内容やPC操作などの最初の座学研修はすでに終わって、実際に電話で顧客対応を開始したばかりの新人オペレーターを想定しています。トレーナーやSVがモニタリングしてメモや口頭でリードしながら、新人オペレーターが電話対応をし、その後に改善点をアドバイスする場面で活用してください)

 

(目次)

 

「相づちのトーンがよくなりましたね」

 この褒め言葉のポイントは、「ほぼどんな場面でも使える」というところです。「緊張しすぎて最初から最後までしどろもどろ」「PCの入力操作が追いつかず、トークがメチャクチャ」な新人さんの指導でも使えます。「相づちのトーン」とは、つまり声色、声の表情のこと。電話対応ではものすごく重要なことですが、なかなか評価するのが難しい曖昧な要素かもしれません。でも、「曖昧」だからこそどんな相手でも褒められるポイントになるのです。

 「相づちにビジネス感がない」などとマイナスの言葉で責めるより、「トーンがいいですね。次は、相づちのバリエーションを増やせるように、いくつかパターンを紹介しますね」などとリードするのがよいでしょう。

 

「話すスピードが適切でした」

「話すスピード」も、「トーン」と同じく簡単に褒められる場面が多いと思います。「お客様の話すテンポに合わせる」「場面によって話すスピードを適切に変えて、抑揚をつける」のは大切な点ですが、まずは褒めることで「話すスピードを意識する」というクセを促すのがよいでしょう。対応がうまくいかなかった時でも、「○○の質問を受けるまでの前半部分では、適切なテンポで話せていましたよ。質問の答え方を覚えれば、きっと後半もできていたはずです」など 、出来ていた箇所を認めるなど、工夫して使ってみてください。

 

「入力内容を見て、安心しました。しっかり理解できていますね」 

これは、電話対応が終了後、対応した内容が定められたフォーマットに入力されているかの確認をした時の「褒め言葉」 です。「褒める」というと、「ナイスプレーをした時に使うもの」と思ってしまいがちですが、それだとなかなか褒め言葉が出しにくくなってしまいます。新人スタッフにナイスプレーを求める必要はありません。「当たり前のことをなんとかできた」というだけでも十分賞賛に値するのです。当たり前のことができた時に、「できてることを確認しました」と伝えることが習慣になればいいですね。

他にも、「タイピングの速さは十分です」「電話の最初と、最後にしっかり挨拶できていました」など、「当たり前のこと」であったとしても、「それを認めている」というメッセージをシンプルに伝えていきましょう。

 

「その質問はすごく助かります! 確認してくれてありがとう」

質問しやすい雰囲気の環境を作れれば、それだけでトレーニングが効果的になるのは当然のこと。方法は簡単。質問したこと自体を褒めることです。「新人スタッフが業務をマスターすること」 がOJTのミッションであれば、新人を主役にするのが当たり前。積極的に質問しやすい雰囲気を作っていきましょう。

 

「電話交代は今のタイミングでOKです」

OJT期間中には、対応がうまくいかずに、途中でトレーナーが電話を交代することも多いはず。そんな時に、「この程度のことで交代じゃあ困る」などと責めるのはあまり意味がありません。それよりも、うまくいかなかった点を振り返り、次に生かすことが重要です。それならば、「電話交代のタイミングがよかった」など、一言フォローしてあげるのがいいと思います。その後で、「改善点の振り返りをしましょうか」と、指導に入っても遅くはありません。

同様に、「保留が長すぎ」と指摘するよりも、「保留のタイミングはOKです。次は、どうしたら短くできるか考えましょう」などもあります。

 

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「お客様が、不満に感じた部分があったのは自分で気づきましたか? 自分で気づけたのなら、一歩前進ですね」

顧客に違和感が残るような対応をしてしまった時、しっかり振り返って改善点を考えるのはOJTの重要なポイントの1つでしょう。しかし、「今お客さんイライラしてたでしょ?」などと責めるように指摘するのはただでさえ緊張しているスタッフを、さらに萎縮させてしまいます。「お客様の気持ちを察知できていたら、そのこと自体ナイスです。研修開始当時よりも、進歩できています」などと認めて、それから「どんな点を改善をしたら、満足してもらえたかも、と思いますか?」などと、振り返るとよいでしょう。

他にも、「自分で間違いに気づけましたね」 などもよいでしょう。「ミスを指摘して認めさせる」ということもOJTでは確かに必要ですが、「自分で気づかせ、それを認める」という対応を意識すると、褒め言葉が自然とでてきます。

 

「最後までひとりで対応できましたね。お見事です」

「新人スタッフひとりで対応できるようになること」がOJT期間の大きな目標だと思います。「来週からマンツーマンのフォローはなくなるからね? 今のままだと大変だよ」などというプレッシャーで「ひとり立ち」を意識させるのはあまり生産的ではないでしょう。それよりも、ひとりで対応できた時にそれを認める方がシンプルです。そのことで、新人スタッフも、「ひとり立ち」を自然と意識できるようになってきます。

上の例では「最後までできた」と褒めていますが、部分的に褒めてもよいでしょう。「この部分で私がフォローするまでは、ひとりで正しく判断できていました」「電話の締めくくりの対応は、ひとりでできていましたね」などです。

 

「改善点は自分で分かったと思うので、お説教は省略しますね」

OJT期間中には、新人スタッフのミスや理解不足を指摘しなくてはいけない場面も多いはず。その際に、あまりクドクドとお説教をするのは、指導としては非効率かと思います。あまりに責めすぎると、「そんなに怒らなくてもいいじゃん」という気持ちが出て、「ミスの内容の把握」という本来のテーマが見えにくくなってしまいます。いっそのこと、「お説教は省略しますね」と言うのはどうでしょうか。「本来はお説教すべきですが、あなたを信頼してそれはやめます」というメッセージを伝えるのです。信頼に応えよう、という意欲に集中できる環境を作るのが、トレーニングとしては効率的です。

 

まとめ

いろんな場面で使いやすそうな褒め言葉を紹介しました。参考になれば幸いです。

 

「トーン、テンポ、スピードなど、比較的褒めやすいポイントを見つけ、褒めるコミュニケーションのきっかけにする」「できて当たり前のことだとしても、できてることを認める」「質問や電話交代がしやすい雰囲気を作る」「部分的でも、できた点を認める」「新人自身の気づきを褒めて、それを促す」「信頼して、それを伝える」などの要素を組み合わせれば、自然と褒め言葉は出てくると思います。

 

適切な場面でシンプルに褒める習慣がつけば、いいトレーニング環境を新人スタッフに提供できることになるでしょう。ぜひ、ご活用ください。

 

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(こちらもあわせてどうぞ。「クレーム対応」についての実践的なコラムです↓)

www.savacan3rd.com

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他人のミスを許せよ

 

僕はコールセンターで働いてるから、「他人のミスを起因にしたクレームについて謝る」ことは時々よくある。「頼んだはずの物が届いていない」「約束した時間が守れてない」とか。


そんな時「それ、僕が悪いわけじゃないのに」みたいなことは、あんまり考えないようにしている。職業倫理的な心構えではなく、もっと実践的な判断として。「僕のせいじゃない」みたいな態度は、一番お客をイライラさせるので、そう思うだけムダだからだ。


じゃあどう思うか。「僕という個人の人格で話しているわけじゃない。会社としての答えを話せばいい。それには謝罪も含まれる」というのが1つ。もう1つは、「自分のミスの尻拭いは、どこかで誰かがしてくれている」と思い出すことだ。


僕が入力を間違って、次の工程の人がその間違ったデータを元に取った行動でお客に大小の迷惑をかける。僕のミスが原因だけど、次の工程の人が謝ってくれている。もしくは、お客が怒るほどのことじゃない、と許してくれている。そして、そのことに僕は気づいていない。


自分のミスは、自分では取り返せない。なぜなら、気づいていないし、覚えていないから。だから、他人のミスの尻拭いをしている時は、「それを取り返すチャンスなんだ」と思えばいい。


自分が客の立場になった時も、そう思えばいいのにな、と思う。「仕事が遅い」「不機嫌そう」「順番を守ってくれなかった」とか、店員に腹が立った時に、「自分も気づいていないけど、誰かに許されながら働いてるんだ」と思い出せないだろうか。これは、「そっちの方が明るい世の中になる」みたいな話をしたいんじゃなくて、ただ単に自分の精神衛生上の話。そう思った方が、嫌な腹の立ち方にならないんじゃないか。


と、過去にも似たようなことは書いたのに、なんでこんなことを思ったり書いたりするのかと言えば、それが難しいからだ。他人のミスを許すのは難しい。自分のミスに気づくことが難しいのと同様に。


ネットを通じて、ものすごい数の「他人の失言や失敗」を目にする。迷惑行為や犯罪まがいの動画を見て、許す気持ちになるのは難しい。「この人も普段はしっかりしてる」「自分で気づいて今では反省してる」というニュースなんて、努力しないと見つからない。


そう思うと、「ストレスの原因をネットで増幅させてるのかよ、現代人よ」みたいなことを思う。多分、似たようなことをまた書く気がする。

 

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「上下関係なんて単なる役割分担でしょ」と思った話


コールセンターで働いていて、電話をかけてくるお客の横柄な態度にウンザリすることはよくある話。でも、実は「社内の他部署の人」と話す時にも油断してはいけない。


単純に、お客から問い合わせが(会社共通の受付である)コールセンターに入って、「担当者から折り返し電話連絡をする」というタスクが発生したとする。その担当者に連絡して、「@@の件で%%様から連絡ありました。携帯000-0000-0000へ折り返しお願いします」と伝えるんだけど、その時の「担当者」が偉そうなことがクソほど多い。


(多いと言っても、実際は10%ぐらいかな? 僕は10%でも「クソほど多い」と感じるけど、その辺は個人差あるかもしれませんね)


社内用の電話番号でかかってきた時点で面倒そうに電話に出て、面倒そうにこちらの話を聞く。「はぁい」「了解でーす」と面倒そうに返事をして電話を切られる。


形式上、「僕」が「担当者」に仕事を依頼する立場になってるから僕は「お願いします」と言っているけど、それは仕事の分担上の話であって、あなたが威張る理由にはならないでしょ、とその度に思う。


翻訳の仕事を引き受けた時にも、チェッカー(校正係)に対して「偉そうだな」という印象を受けることが時々ある。


実際、新人よりは経験豊富な人がチェッカーを務めることが多いから仕方のないことなのかもしれないけど、「偉そうな態度を取る理由」はよくわからない。「原稿を作る」「それを校正する」という役割分担があるだけで、どちらが偉いとかの意識は仕事の邪魔でしかない。


もっと話を広げれば、「指示をする側」「指示を受ける側」だって、「単なる役割分担」と考えてもいいではないか。業務を片付ける上で、「働きバチ」と「その管理者」を分けた方が上手くいくだけの話であって、「管理者」が偉いかどうか、人格的、能力的に優れているかどうかは別の問題でしょ、と思う。


もちろん、人格的・能力的に優れた人を管理者に配置したほうが集団がうまくいくし、その指示を尊重しなければ管理者にした意味がない。それに、管理者の立場になったことで、能力的にも人格的にも伸びた人だって現実には多いだろう。でも、だからといって、「管理者」だから、という理由で威張る必要はない。


さらに、「仕事を教える側」「仕事を教わる側」も「単なる役割分担」だと思って、「上下関係」とは切り離していい、と僕は思ってる。この考えは少数派かもしれないけど、「イケてる会社」とか「イケてる集団」とかはきっとそうなってるんじゃないか(残念ながら僕はそんな組織にいたことはないんだけど)。


なにせ、「何を教える」というのは完美な快感である。その気持ちのよさに、いい気にならない人はめったにいない。要するに、「教える立場」の人はだいたい威張る。その「威張ること」を許容すると、ロクなことにならない。「教える側」は、いつまでも教える立場を守ろうとして、「教わる側の成長」を無意識に妨げることだって十分にあり得る。


だから、僕は「上下関係」は必要最低限に制限した方がいいと思う。例えば、「新人研修」をやるなら、講師は新人の中から交代で選べばいい。先輩が、その講師の補佐をする。そうすれば、「講師」は単に役割であることがはっきりして、余計な権力構造が生まれにくくなる。


何かの「認可」も多分同じ。「認める人」を固定すると、そこに既得権が生まれてしまう。「仕組み」を洗練させて、その業務に従事する人はできるだけ交代にする、というような工夫はできないか。


みたいなことを考えました。社内の連携でちょっと面倒な態度を取られただけでネチネチと話を広げるんだから、我ながらめんどくさい奴だな、と思います。

 

 

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