鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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必要かどうか分からないことはやめる


平成から令和になるタイミングで、「平成でもうおしまいにして、令和には持っていきたくない慣習」みたいなツイートをたくさん見かけた。その時に僕がようやく思いついたのが上のツイートで、まあそれほど気の利いたことを言ってるようにも思えない。


平成の終わり、はどっちでもいいんだけど、「権力行使の機会の捨て方」みたいなことは興味がある。「仕事熱心な人」がいたとしても、その熱意が無駄な仕事に使われてしまうことがよくある。上のツイートの例で言えば、「入力内容のチェック」は必要な業務だとしても、「プリントアウトして、バイトリーダーの席まで持ってこさせる」という工程は、あまり意味がない。


本当に昔に、「プリントアウトしたものをペンでチェック(色によって意味が違う)、クリアファイルにいれて次の工程のスタッフにデリバリー」みたいな流れがあって、その名残りで、「プリントアウトされたタスクの方がよりシリアス」みたいな不思議な信仰心がまだある気がする。


僕が面白いなと思うのは、「プリントアウトした書類を席まで持ってくる」という業務を、「仕事熱心なバイトリーダー」「仕事熱心な新人スタッフ」ほどちゃんとやってる、という現状について。そりゃあそうだ。「プリントアウトの工程は無駄」というのは単なる僕の意見にすぎず、「仕事のとして定義された工程」を遂行してるんだから、そのことを責めるのはあんまりだ。


だけど、「真面目な人ほど無駄な仕事をやりがち」「真面目な人ほど無駄な仕事を人にさせがち」というのはなんとも皮肉かなあ、と思う。「無駄な仕事を見つけて、それを積極的にやめていくことも仕事のうち」、というのが僕としては自然なんだけど、実はこれは簡単じゃないことも分かってる。


会社で働く多くの人にとって、「無駄な仕事」を削るメリットなんて、別にないことのほうが多いんじゃないか。というか、「無駄かもしれないけど慣れてる仕事」がなくなったら、別の「必要かもしれないけど慣れてない仕事」をやらされるんじゃないか、とか思ってしまう(そうでもないのかな)。


「変える理由がなければ前と同じやり方でやる」は、令和でもやっぱり根強く残るだろう。その根強さがなかなか迫力あるな、と感じるからこそ、「続ける理由がなければやめる」を、いちいち実行していってもいいかな、とは思ってる。

 

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