鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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最近気づいたこと(2019年4月②)

ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!(4月の第2弾ですが、取り上げているツイートは以前のものです)


今回はこんな感じ・・・

 ポジティブも仕事のうち

 

2ヵ月前の自分のツイートを見直して、この日会社で何があったのかな? と想像するけど、まったく思い出せない。ひょっとしたら、もうちょっと具体的に会社であったこととかを書いた方が面白いかもな、と思った。(もう、思い出せないからしょうがない)


「ポジティブな考え方」は工夫や努力をして身につけたものであって、そこを認めてくれよ、というようなことを感じたことがあったのかな?


20代の頃、演劇を熱心にやっていた。「やりたいものが見つかってよかったな」的なことを言われた時に、「いや? 僕だって同じぐらい虚無ですけど? 青春を持て余して、結構ムリヤリな気分で演劇に打ち込んでるんですけど? 好きなものを見つけて、好きなままでいるにもちょっとは努力が必要なんですけど?」みたいなことを思ってのが似てるかも?

 

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合理と不合理が逆転する時

 

マンガ、「インベスターZ」(名門中学に秘密の投資クラブがあり、超優秀な中学生が学園の資産を運用している、という話)で、「つまらないと判断した映画を、その場でやめられる人が投資に向いている」みたいなエピソードがある。つまり、「せっかく見に来たんだから」「お金払ったんだから」という、それまで払った対価が無駄になることを惜しんだばかりに、「つまらないとわかりきってる映画を見続けてしまう人」は、「損切りができない人」と同じ。逆に、途中でやめられる人は、「損切りができる人」みたいな理屈。


3分の1ぐらいまで進めたRPG、どうにも好きじゃないのに、なんとなく続けてしまって、やめられないでいると、ますます「途中でやめたらもったいない」となって、結果「自分でもつまらないと思っているゲームをやり続ける」みたいなことになる、とか、いろいろありそう。


ところで、僕はマンガとか映画の「伏線回収至上主義」みたいなのに違和感を持っていて。たしかに、「回収されない伏線」は作品のキズなのかもしれないけど、「伏線が回収される」という要素が過大評価されすぎでは? という大雑把な印象がある。


「伏線回収=素晴らしい」というのは、ちょっとした貧乏性から生まれた感想に思う。「途中でやめないで得した」「内容を覚えていて報われた」という快感。それはそれでいいんだけど、「伏線回収」以外にも物語の面白さの種類なんていくらでもあるでしょ、と。マンガや映画を見る時ぐらい、「面白い/つまらない」「ドキドキした/しなかった」とシンプルに味わえばいいのに、「伏線が回収された(得した)/伏線が回収されなかった(損した)」みたいな貧乏性ってなんなの? みたいなことを思う。


まあ、そういう僕も「いつもより長く待ったから」という理由で、ジェットタオルを自分が使いたい時間より長めに使っちゃったわけで、「費やした時間がもったいない」という無駄な貧乏性は、なかなかにバカにできない。

 

インベスターZ(1)

インベスターZ(1)

 

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将棋の感想戦のこと


将棋のファンは、将棋の感想戦を見ると、萌えてしまう。あの、不可思議な空気感に憧れる。勝負が終わって、放心状態の対局者が、やがてボソボソと何かをつぶやく。何か相槌のようなものが返ってきて、再び沈黙。そしてしばらくしてまたボソっと。


世界一静かな「詩のボクシング」のような時間。負けた棋士の気持ちや考えたこと、その時間の価値も無価値も、一番理解しているのはその対局に勝った相手で、勝った方はでも、慰めることはできないし、しない。


上のツイートは、羽生九段がテレビ将棋のNHK杯で優勝したときのもの。


将棋を見ると、「人間の価値」みたいなものを実感できて救われる。AIの実力が人間のトップを上回り、「人間の価値」はもはや死んだかと不安になった。でも、やはり「人間が魂を削って集中してそれを表現すること」には「グッとくる何か」がある。それを感じさせてくれるのが、僕にとっての将棋観戦。


感想戦は、「実際には盤上に現れなかった手」を含めて一局を検討し直すものだ。たくさんありえたはずのパラレルワールドから、この1つの現実が選ばれて、勝敗が分かれた不思議を確認しあう儀式だ。


この現実に、将棋があってよかった。羽生さんが将棋と出会えてよかった。ライバル棋士と出会えてよかった。


ただ単に、「人を見下すな」と言えばいい




「カタコトで話す店員をバカにするな」という話をする時に、「カタコトであろうがある程度日本語を話せる時点でスゴい」「異国の地で働いていてスゴい」「だから優秀な彼らをバカにするな」みたいな理屈をよく見かけるんだけど、僕には違和感があって。


店員を評価する時に、「店員以外の時の要素」を持ち出す必要はないんじゃないか。例えば、コールセンターで働いてる僕が、電話応対がヘタだったとして、「でもお酒も飲まないしタバコも吸わないから、あなたは偉い」とかお客に思われたくない。僕だってたまにはお酒を飲みたいし、お金がかかるから喫煙の習慣は手放したけど、今でもタバコへの愛を忘れたことはないんだ。


話が回りくどくなったけど、僕が言いたいことはすごく単純な話であって。「人を見下さない」「人を見下したとしてもそれを表に出さない」ことは当たり前のことであって、そこに理由なんて必要ないでしょ、という話。


その他のツイート

「メモを取る」みたいなつもりでツイートしていることが多いので、自分的に覚えておいてもいいかも、ということを貼りつけておきます。

 

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