この前友人夫婦が子連れでうちに遊びに来た。「Nさんは子どもにキレたりするの?」と聞いてみた。Nさんは、「仲間内で一番頭がいいのに、一番最後に意見を言う」ような落ち着いた人だから、聞いてみたかった。「ああ、うん、毎日一度はキレるね」と言ってて、ちょっと救われた。僕もだいたい毎日だ。
— 鯖缶 (@savacanmemo) 2019年2月2日
子どもを怒るとき。「怒りで我を忘れて、自分をコントロールできなくなる」というほどではないけど、多くの場合は、怒らずに伝えたほうがよく伝わる場面だったり、怒られたくないという理由で子どもが行動しても意味がないことも多いので、あまり冷静でなくなってることは確か。
— 鯖缶 (@savacanmemo) 2019年2月2日
どんな時に怒ってしまうかを思い出すと、「(仕事とかで、時間的に)焦ってる」「疲れてる」「想定外のことが起きる(子どもが突然グズるとか)」の3つの条件が重なると、怒ってしまう。どれか1つなら大丈夫。でも、子育ての場面だと、そんなのだいたい毎日だ(だった。今はマシ)。あばばば。
— 鯖缶 (@savacanmemo) 2019年2月2日
妻が一緒にいる場面では、「冷静でいられなくなる可能性」は激減する。疲れてたら託せるし、もし怒る時でも、「これはわざと、演技だよ」という意識も多少混ざっての「怒り」にシフトできたりする。1人だと、タスクの難度が増すということもあるし、冷静さを思い出すチャンスも減ることも大変。
— 鯖缶 (@savacanmemo) 2019年2月2日
これまでにも書いたことがあることの繰り返しになると思うけど。
「優しさは、性格じゃなくて段取り」っていうコラムを昔書いた。若い頃は、「僕は気の長いほうだ」という自己イメージを持っていたけど、親になってからは怒ってばかり。なんで怒ってしまうか。体力と時間に余裕がないから(逆に言うと、若い頃は体力と時間に余裕があったから優しく居られた)。だったら、性格の問題じゃないな。むしろ、「段取り」がよければ、「怒り」は緩和したり回避したりできるかも知れないな、というようなこと。
(読み直したら自分でも面白かったです。ぜひ読んでみてください↓)
優しさは、性格じゃなくて段取り - 鯖缶@3rd&forever
「優しさは、性格じゃなくて段取り」という言葉が自分的には説得力があると思っているのは、自分で簡単には直せない「性格」に注目するよりは、「優しくなりやすい環境づくり」を考えたほうがいいよな、という点で、それは今も変わらずそう思う。
だけど、自分で言った話をひっくり返すようだけど、「段取り」だって、そう簡単に上手にならないよな、とも思ったりもする。
僕はこの半年で急激に「キレる」場面は減った。上のツイートでは「だいたい毎日」と書いてるけど、「キレそう」になるだけで、1年前と比べれば相当マシになった。それは、僕の段取りがよくなったわけではなく、子どもが成長したから。娘が小学校に上がり、5月ぐらいには小学校にも慣れて安定し、圧倒的に子育てが楽になった。
「着替え、ごはん食べる、歯磨き、トイレ」などが子どもが自分でできるようになったことで、僕も自分の主夫タスクに余裕が出た。朝、子どもたちを送り出す頃には、洗濯、食器洗い、風呂掃除を終わらせることができる。これは9時から13時に見える風景が全然違う。(僕の家事の段取りがよくなったかと言えば、正直あまり変わらない気がする)
「段取り」以外に変えられないことはないか。「1人だけで(パパかママだけで)子どもと対応するのをなるべく減らすこと」じゃないか、と思った。
僕は、友人Nさんが僕と同じ「おこりんぼう」になってしまったことを知って、ひどく安心した。それで、「自分なんて普通だからもっと怒ってもいいや」とはならない。少し冷静になって、自分の感情を対応できるようになる、と思った。
妻と2人で子どもに対応するときも怒らずに済むことが多い。単純に負担が少なくなる分、余裕が出るというのが最大の理由なのはもちろんだけど、「自分以外の誰かの目」があることが大きい。
「怒っているところを見られたくない」というのもあるし、「怒らずによりよい対応をしたらそれを見てくれる」というのもあるけど、(本質的にはそれと同じかもしれないけど)「他人の目を通じて自分を外から見る」ことを通じて、自分の感情(ある意味制御不能)にフォーカスしすぎずに、「その場でどういう行動を取るか」を考える気になりやすい、というか。
そもそも、自分ひとりで子どもの相手をしていて、怒ってしまったときはみじめな気持ちがするものだ。「こんなに頑張ってるのにうまくいかない」「気をつけてたつもりなのにまた怒ってしまった」「自分は親失格なのでは?」みたいな方向に、アリ地獄みたいに気持ちがズルズル沈んでいってしまう。
だけど、近くに誰かがいたら、実際に愚痴を交換したり褒め合ったりしなかったとしても(もちろんそうしてもいいけど、そうじゃなくても)、ずいぶん救われる。「それほど深刻になるほど失敗したわけじゃない」と実感できる。
僕が、こうやってブログでいちいちいろんな気持ちや考えを反芻するのも、実は同じようなことだ。日記(的エッセイ)を書いているのは、「過去の自分と、現在の自分、未来の自分を会話させてる」ようなものだと思う。
過去の自分に対して、「ドンマイ、まあまあよくやってるよ」「気づいてないかもしれないけど、こんなところに気をつけろ」と話し、未来の自分に「これ忘れないほうがいいよ」と伝える。そうすることで、「他人の目を通じて(現在の)自分を見る」のに近い効果がある。
もし、孤独な子育てで苦しんでる人がいたら(子育てじゃなくても、闘病でも、受験でも、貧乏でも)と、こうやってブログを書くといいかも、と伝えたい。僕は「誰かが読んでくれるかも」と思う方が続く気がするからこうしてるけど、公開しない方が気が楽なら、ノートに日記を書く、でもいいと思う。僕は、もうちょっと書き続けるつもりだ。
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