鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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最近気づいたこと(2019年3月)

ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!

今回はこんな感じ・・・

 

汁なのか菜なのか、それが問題だ

 

ツイートを見返してなんとなく思ったんだけど。そういえば、料理の腕前がここ2年ぐらい上達してない気がする。レパートリーの数、おいしく作れるかどうか、作るまでのスピード、「余り物で一品」の力。どれも大して改善してないかも・・・ 


そうでもないかな? 以前は作り方とかレシピサイトで調べて、それに沿って買い物行って、作る前にも出来上がりまでの手順をイメージしてから料理してたけど、最近は「スーパーに行ってから献立を考える」みたいに適当にできるようになってるから、「対応力」的な部分でマシにはなってるのかな。そうか、「適当にこなしてもなんとかなる力」はついてるかもしれない。その部分は、確かに実感しにくいかも・・・


妻が注文する「時短料理セット」。一汁二菜が作れる材料が、レシピと一緒に来て、野菜がもう切り終わってたり、調味料がもう混ざってたりして、「半分出来てる系料理」をする。他人の指示に従って作業するので創意工夫はいらないから、その分楽。それに、自分では思いつかないことを知るきっかけにもなるのでそれはいい。


たとえば、僕の中で「ひじき」は「水で戻してから炒め煮するもの」だったけど、「水戻し不要なひじき」が缶詰で売ってることを知った。そして、それを「塩コショウオリーブオイル酢」で食べる。これが案外うまい。(レシピではしらすと和えてたけど、ひじきだけでも僕的にはOK)


この「ひじきの缶詰」を知って、僕の食生活にひじきが登場する回数は激増した。どういうことかというと、今までひじきは好きでも嫌いでもなかったんだけど、「手間がかかる割にはそれほどおいしくない(おいしく簡単に作れる人もいるんだろうけど、僕にはよくわからない)」というフォルダに入っていたのが、「簡単な割にはおいしい(しかもよく知らないけど体にいいらしい)」というフォルダに移ったということ。


たまには料理を楽しんでもいいかも、とも思うけど、「簡単料理セット」や「ほぼレトルト」だってそれなりに面白い。「親が気合い入れて作った料理を子どもが喜ぶとは限らない」ことを僕はよく知っているので、これからも大いに手を抜いていくと思う。

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「雑」な習いごと

 


とにかく子どもに何でも習わせたい。習いごとは本当にありがたい。


子どもに「正しい箸の持ち方」を教えてくれる教室があったら絶対に申し込むと思う。僕のテーブルマナーはかなり「残念」で、子どもには申し訳なく思う。この後ろめたさが金で解決するなら、僕は解決したい。


あと、工作の類。僕は子どもの頃から「図画工作」の範囲に収まりそうなものはほとんどすべて「苦手」と思っていて、ほとんど挑戦せずに「食わず嫌い」のまま親になった。演劇をやってたころ、「大道具(舞台装置)」の大工仕事、「小道具づくり」なんかを必要に迫られてやってみたら案外上手くできたから、「子どもの頃の苦手意識は、半分は思い込みだったんだな」と思ったけど、思い込みは思い込みとしてリアルなので、「苦手意識の克服」には至らなかった。


親になってからも、「折り紙」や「ねんど」「お絵かき」「絵の具」などの子どもによさそうな遊びはどちらかというと苦行に感じることの方が多い。(絵本、しりとり、ごっこ遊びは楽しいこともある。これも「思い込み」なんだろうけど、もう簡単には治らない)


なので、幼稚園の課外活動(延長保育的な習いごと)に工作教室があったのは本当によかった。僕自身に苦手意識があるから逆に、神聖化してしまうのもしれないけど、大変ありがたい。


妻は、ママ友から「信頼のできる先生の習いごと」の情報を口コミで聞いてきて、水泳、ピアノ、新体操(これは娘のみ)に子どもたちは通っている。先生方は格安の月謝で子どもをコーチしてくれて、頭が上がらない。


さて、そんな習いごとよりもさらに安いのが、役所の主催する短期間の「〇〇教室」の類。娘が半年だけ通っていたミニバス教室は、今時珍しいほどの「雑さ」が面白かった。


小1から小6までが同じ時間に集められてるのもすごいし(試合形式はさすがに低・中・高と分けてたけど)、ドリブルもパスもシュートも未経験の1年生に初日からいきなりをゲームをやらせるのもすごい。(無料同然で2時間子どもを預かってくれるだけで感謝なので、「習いごと」としてのクオリティはこの際しょうがない)


この雑な感じ、これはこれで僕は嫌いじゃなかった。なんというか、「雑に扱われるなかでうまくやること」を子どもに身につけさせたいので。


娘はバスケットのスキルは特に向上しなかったと思うけど、迎えに行って最後の10分だけ見学したら、「得点係(シュートが決まったら2点入れる係)」をやらせてもらってた。その得点係も、「全員漏れなく交代で」という丁寧な配慮はなさそうで、「やりたがった子を適当に指名」というシステムだったので、娘はうまいこと立候補したんだろう。僕自身が引っ込み思案だったので、頼もしく思った。


広告に耳を貸さないで

 

広告は時代の欲望を映す鏡、みたいなことを言う。消費者が見たいもの、なりたい自分、なりたくない自分、を描くものだから、その時代の広告を見れば、その時代のことが分かる、というようなこと。(「広告批評」という雑誌がかつてありまして、そこからの受け売りです)


今の時代のことを考えると、「ネットの使用歴から自動的にカスタマイズされた個人ごとの広告」なんて、まさしく今の時代を象徴してそう。「いろんな欲望が肯定される」「AI(的なもの)に自分の欲望が誘導される」「みんなが一緒に見るものよりも、個別にそれぞれが見るものの方が多い」「広告と広告でないものの見分けがつきにくい」みたいなこと。


あと、企業でなく個人発信の情報(ブログとか、ツイッターとか)にも、「広告の手法」がよくも悪くも浸透していて、ブログのタイトルを付けるときにも、「読者の恐怖(なりたくない自分)を刺激するようなタイトルをつけて」みたいなコツがよく紹介される。「こんな上司は嫌われる」「モテない中年にならないために」とか。個人発信のものまで「恐怖で他人をコントロールしようとする言葉」が世の中に溢れているかと思うと、控えめにいってうんざりするかも。


まあ、こんなことは「仕方のないこと」と思って慣れればいいのかもしれない。でも、情報を真に受けてしまいやすい人もいるし、真に受けてしまいやすい精神状態の時期だって誰にもあるだろう。だから、「広告に耳を貸さないで」と、バイリンガルユースのMamiが時々言うのはいいな、と思う。バイリンガルニュース(Podcastの番組)は、広告なしで配信している。個人で発信する時の最大の武器は、「企業の論理、倫理から自由になれること」だろうから、それを実践しているということだろう。


(広告をペタペタ貼り付けたこのブログで言っても、「なんだかな」という感じは否めないけど。まあ、まったく儲かってないし、今のところ「googleの規定によって僕の発想や発言が制限されている」という感じはあまりない。何かの制限があるのはやむを得ないところと思うので、せいぜい自覚的でいたいな、とは思います)

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自分では浮かばないセリフ

職場で、「髪を切った女性を見つけた時に、何と声をかけるか問題」に時々遭遇する。その度に、軽くパニックに陥って、結局何か言うタイミングを失って、何も言わずに「なかったこと」みたいに過ごすことになる。


でも、今考え直してやっぱり「何も言わなくても別にOK」という気がする。よくラブコメマンガとかで「髪切ったのに気づいてもらえなかった、ショック」みたいな内面の機微が描かれるのって、ようするにヒロインが「好きな男子」「気になってる男子」に「何か言ってもらいたい」ということで、職場で「髪切りましたね」みたいなことを言うのは「僕たちってラブコメ的な関係がちょっとありますよね」というある種の要求だと思うので、結局何も言わないのが無難な気がする。


ああよかった。僕の中で、「何も言わない」に方針が決まったからもうパニックにならずに済む。もし職場の女子が「何か言ってもらうこと」を期待していたとしても、それは僕の問題じゃない。僕は考えない。「髪切ったんですよ」みたいなことを言ってきたら「すごく似合いますね」の一択で返そう。実際似合ってるかは知らない。なんなら見ない。


男の子が言ってた、髪の色が少し変わった時に言ってもらいたいセリフ「それどうやってやるの?」は、今思い返してもなかなかに味わいあるなあ。興味が具体的だし、変化を肯定してることが伝わるし、こだわってるなら、「真似したい」って思われたらうれしいだろうし。まあ、僕が同世代の友達に言うなら、「その白髪染めいいね。何使ってるの?」とかに(そろそろ)なるんだろうけど。


その他のツイート

「メモを取る」みたいなつもりでツイートしていることが多いので、自分的に覚えておいてもいいかも、ということを貼りつけておきます。

 

 

 

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