昨日、めずらしく友達とライブに行った。
— 鯖缶 (@savacanmemo) 2018年10月27日
仕事終わって移動し、待ち合わせまで15分余った。「スタバに金を払うには短く、ただ黙って立ってるには長い」という時間。
「図書館で将棋ウォーズ」と浮かんだけど、図書館でスマホゲームが「アリ」か自分のなかで迷った。「ナシ」だと思うけど自信ない。
今までそんなこと気にしたことなかったんだけど、自分のなかですぐに決められなかったので、それが少し面白かった。考えたことをメモしておく。
15分から20分ぐらい空いた時間があって。「30分」だったらスタバにお金を払っても惜しくない気がするけど、15分だともったいない気がする。5分だったらその辺で立っていてもいいけど、15分だとちょっと座りたい気がする、という状況。
そこで思いついた。ライブ会場の近くに図書館があるので、そこで「将棋ウォーズ」の「3分切れ負け」を1回か2回やろう、と。で、その次の瞬間に、ふと疑問になったのだ。「図書館でスマホゲーム」って、(マナー的に)「アリ」なのだろうか。
僕がこの疑問をその後もしつこく覚えているのは、反射的に「ナシなんじゃね?」って思って、でも「ナシの理由が自分でもよく分からない、ということ。結局その日はやらなかったんだけど、自分としてはなんともムズがゆくて、興味深い。
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僕としては、「図書館でスマホゲーム」は抵抗がある。「出てきた寿司を、ネタとシャリに分解してから食べる人」と同じぐらい。でも、「え、なんで? 別にいいんじゃないの? 誰かに何か迷惑かけてるの? ダメな理由は?」と言われると、「なんかヤダ」としか言えない。
「図書館」という場所に対するある種の信仰があって、その信仰を踏みにじるような行為だから、という感じが一番近い気がしてきた。
「民主主義を成り立たせるためには、構成員に情報が与えられており、またその情報を吟味する能力も、それを鍛える機会も与えられてしかるべき」という考えがあったとして、僕自身それを信じているかと問われれば、「あんまり」としか答えようがないんだけど、かと言って市民全員がアッパラパーになった世の中を歓迎できるかと言われると、それは不安でしかない。
だから、「知恵」「知識」の価値を信じる場所、として図書館があってほしい、という願いがある。「本を読んでる途中に、メールやツイッターをチェックする」「勉強している途中に思わず居眠りしてしまう」なら、「図書館への願い」を否定しているわけじゃないからスルーできるけど、「最初からゲームをやるつもりで入ってきて、一心不乱にスマホをいじり倒す」というのは、「目に見えない図書館の価値」をバカにするような行為に感じるから、僕の感覚では「NG」となったんだろう。
ひょっとしたら、世の中にあまたある「マナー」の問題って、「信仰」と考えると見えてきやすいかな、という気がする。だから、「マナーがない」と言う時、指摘する方もされる方も、すごくムキになってしまったり、あるいは全くピンとこなかったりするのではないか。
普段行かないくせに、「図書館」という存在に「願い」を感じているのか、なんともお気楽な人間だ。フリーターのくせに随分とのんびりした世界観じゃないか。
とは言え実際のところ、誰かがスマホゲームをやっていても、そこまで気にならないと思う。でも僕にはできない。もちろん、このことで自分を上品な人間だなんて言うつもりはない。会社に行く時の服装、とか「あるべき社会人の姿」を逸脱している自覚はあるので。
後日、会社の同僚に、「図書館でスマホゲーム、NGだと僕は思ったんだけど、一般的にはどうすかね?」と聞いてみた。「15分ぐらいだっったら別にOKじゃないですかね?」「あ、でも若者だったらいいけど、オッサンだとなんか嫌かも」って言われて、なんて雑なまとめ方なんだ、って思ったけど、なんとなく納得はした。
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