鯖缶@3rd&forever

2児(娘7歳、息子5歳)の父の雑記ブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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「迷惑はお互いさま」と思うのがいい

例えば、新しく保育園を作ろうとした時に近所から「騒音対策をしっかりしろ」という声があがったとする。

 

それに対して、「そんな冷たいこと言うな」「子どもたちの声なんて、心が和むのが本来じゃないか」みたいなことは、あまり反論になっていないんじゃないかな、と思う。「不快」と感じる人に対して、「不快と感じるあなたが未熟」とか、「私は不快には感じない」と言ってもあまり説得力がない気がするのだ。

 

先日そんなことを思いながら、いくつかツイートをした。

  

  

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例えば、風邪で会社を休む人がいる。「こんな忙しい時に会社を当日欠勤するなんて、社会人失格だな」というようなことを言う上司がいたら、それはさすがにひどいと思う。風邪で休んだからと言って、仕事をナメているわけじゃない。上司だからと言って、部下の人格否定をしていいわけない。

 

ただ、「当日欠勤が会社にとって迷惑じゃない」と言い出すと、それはそれでちょっと違う気がする。やっぱり、迷惑であることには変わりはないんじゃないか。その部分をねじ曲げるのはちょっと無理がある。

 

僕が思うのは、「迷惑はお互いさま」ということ。どんなに気をつけていても、風邪をひくことなんて誰にでもある。だから、そのことで誰かを責めたりしたらさすがに窮屈でしょ、という。

 

「迷惑をかける立場になった人は、謙虚な気持ちになって自分のできる範囲で迷惑を軽減しようとする」「迷惑をかけられる立場になった人は、寛容な気持ちになってそれを許す」「その立場は、容易に入れ替わる。迷惑をかけないように、あまり気に病まないほうがいい。迷惑をかけるなと、ムキになることはない」というのが僕の思うこと。

 

でも、そう思うのって案外簡単じゃないかも、とも思う。

 

以前、職場(コールセンター)の後輩に、難病の「ナルコレプシー」を患っている女性がいた。時と所を選ばず、「自分では制御できないレベルの眠気」に襲われるそうだ。(僕は「麻雀放浪記」を書いた阿佐田哲也の大ファンだったからなんとなく知っていた。著者自身がナルコレプシーにかかっており、そのことをしばしば作品に書いている)

 

彼女の病気の程度がどの程度なのかは、もちろん僕にはよくわからない。仕事上は「まったく業務ができない」というほどでもなく、「業務に支障がない」とも言い切れない感じ。

 

客との電話対応の途中に寝てしまう場面はなかったけど、電話が終わって、内容を入力している途中に仕事が止まっている様子はしばしば目にした。

 

そんな彼女に対して、職場内で優しく接するのは正直言って難しい。教育係として、彼女に仕事を教えたり業務をフォローする立場にいた僕を含めたバイトリーダーは、端的に言って対応に苦労していた。入力内容に漏れがないかチェックしたり、意識が遠のいた彼女に声をかけたりする必要があるので、仕事が2割増し大変になるからだ。

 

もちろん、ここで「彼女は職場にとって迷惑だ」とは言ってはいけないと思う。(おそらく)簡単には治らない病気を抱えている人を責めたりするのはあんまりだ。「あんまりだ」というのが感情論にすぎるのなら、「責めても傷つけるだけで、解決にならない」というか。

 

でも、だからと言って優しく接することができるかと言うと、それは相当に難しい。ものすごく単純化してしまえば、「時給が変わらないのに、仕事が難しくなる」ことに笑顔をキープできる人は、それほどたくさんはいないと思ったほうが現実的だ。(自分の気を楽にしたいから書いておくと、僕は職場内で一番彼女を責めずに対処していた自信がある。それでも、「優しく、笑顔で」は時として難しかった)

 

少し話をややこしくしてみる。「難病」と「風邪」を例えに出したけど、そこにはどんな線引きがあるんだろう。僕は、特に深く考えもせずに、「難病」を「かかる人は少ない。本人が悪いわけじゃない。簡単には治らない」という前提で上に出した。「風邪」は、「誰でもかかる。多くの場合は10日程度で治る。予防にどの程度気をつけているかは人それぞれ」というようなイメージだ。

 

なんとなくだけど、「風邪」は「お互いさま」と感じやすい気がする。だけど「難病」は、「お互いさま」とは感じにくい。「お互いさま」と思えないと、やはり優しく接するのは難しい気がする。

 

ここで、「仕事の覚えが悪い人」を登場させたらどうだろう。「難病の人に対してはなんとなく社会的に責めたりしちゃいけないと気が咎めて我慢してきたけど、こいつは無能で怠惰なんだ。いじめていい」みたいな感情を抱いたりしないだろうか。

 

でも、と一度立ち止まる。「仕事ができる」と思い上がっていても、いつ仕事を失うかわからないじゃないか。会社が潰れて、中年以上になってから職探しをして、別の会社になんとか拾ってもらう。その時に、入社直後から「仕事ができる」というポジションを確保できる人なんて、ほんのひと握りだろう。それに、いつかは誰もが年を取るのだ。誰でもかつては赤ん坊だったんだ。「仕事ができない」だって、「お互いさま」じゃないか。

 

誰でも自分が、家族が、大切な人がいつハンディキャップを背負うかなんてわからない。僕の祖母は亡くなる前の15年ぐらいは車イスが必要だった。僕の息子がひざの痛みを訴えて整形外科に連れていった時、「ペルテス病(1年以上の入院を要することもある難病)を念のため疑う必要がある。安静にして2~3日経過観察」と言われたときには頭が真っ白になった(幸運なことに病気ではなかった)。

 

そう思うと、自分が「配慮ができる余裕がある側」に立った時には、そのことを幸運に思ったほうがいい。「迷惑をかけられて損をした」と感じていたら、いつかその思いに自分が苦しむことになる。

 

もっと話が広げられそうな気がして書き始めたけど、結局は似たような話に終始してる。今の僕に書けるのはこのぐらい。引き続き、ぐるぐる考えていきたい。

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