ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!(「最近」と言っても、取り上げているツイートは結構前のものです。2カ月ぐらい前に取ったメモを振り返って反芻する、なんとも悠長なことをしています)
今回はこんな感じ・・・
「ヤル気があること」を態度で示す
息子5歳と自転車でお出かけ。息子は自分で自転車に乗り、それを僕が後ろから。信号あり横断歩道で青になるのを待って、やっと青になったけど息子は横断歩道渡らない。20メートルぐらい先から来た車が、「赤」で横断歩道手前で止まってから渡った。「車が止まるの確認してからでしょ」と教えてくれた。
— 鯖缶 (@savacanmemo) May 18, 2019
結構横断歩道近くまで多分時速20キロぐらいで来て、「ス」っと止まったその車はマナー的にもルール的にも運転技術的にも問題ないと思うんだけど、あと10メートルぐらい手前で減速して、最徐行で進んできてくれれば、「赤信号に気づいている」と分かるので、歩行者的には安心かな、と思った。
— 鯖缶 (@savacanmemo) May 18, 2019
上のツイートの例、うまく伝わっているだろうか。僕は歩行者(自転車で横断歩道を渡る)の立場にいて、車に「実際に横断歩道手前で止まること」だけでなく、「信号の色にも歩行者の存在にも気づいていることを、実際に止まる前から示してほしい」と思っているということ。
(「止まるための合図」に決まりがあるわけではないので、車のことを責めることはできないし、責めるつもりもないのだけど)
劇団をやってた頃によく思ってたんだけど、ヤル気があるだけでは不十分で、ヤル気があることを周囲に伝えて、それでようやく集団の一員だろ、と。もっとも、体育会的、軍隊的な雰囲気にはしたくない僕は、「ヤル気の示し方」は人それぞれでいい、と思ってたけど。
というか、これは劇団でなくて会社でも同じで。「その仕事、教わってないんで」っていう新人と、「その仕事、教えてください」っていう新人がいたら、間違いなく前者の新人に仕事を教えるのは面倒くさい。まあ、会社みたいな場所で「ヤル気を示せ」なんて言うと、あんまり誰も得しないと思うので、劇団の例を先に出したんだけど。
「話が理解できてること」と、「話が理解できてることを相手に伝えること」の間のにある溝も気になる。例えば、上司が部下から質問や相談を受ける時には、メモを取りながら話を聞けばいい。そうすると、自分がしっかりと話を聞いていることを部下に伝えることができる。「他の仕事をしながらでも簡単な報告ぐらい受けられる」と思っていて、実際に報告が理解できるとしても、報告する側の立場からすれば、ちゃんと伝わっているかわからないから、もう一度言わないといけないような感じになる。(この手の話の定番として、「上司の話を聞くときにはメモを取れ」みたいな例が出てくるけど、「上司が部下の話を聞くとき」でも全然同じだと思うので、そっちの例を使ってみた。個人的には、わりとしっくりくる)
先入観をナメるな
先入観を捨てるのは難しい。「こういう人はどうせ〇〇」みたいな雑な整理がないと、情報が処理しきれなくなる。というか、痛覚や記憶みたく先入観も意識せずONになってる機能だし。
— 鯖缶 (@savacanmemo) May 22, 2019
「こういう人はどうせ〇〇(でもそうじゃないこともある)」と、先入観を自覚して、うまく中和するのが知性なのかも。
似たようなことをずっとグルグルと考えてるような気がする。
そして、僕が言いたいのは常に、「先入観があるのは仕方ない」ということじゃない。「先入観から自由な判断をするためには、自分の先入観に、まず気づかなくてはいけない」ということ。つまり、先入観ナメんな、と。
「差別心は仕方がない」と言ってしまうと乱暴で、というか良くなくて、「社会的にそのままにしていい」ということじゃない。だけど「差別心は当たり前」とは言えないか。「いつも自分にあり、どんなに気をつけていても何度も繰り返し生じてしまうものだ」とは思う。例えば、性欲や食欲と同じように。性欲や食欲に罪はない(罪はないかどうかよく知らないけど)。それを野放しにすると危険だから、取り扱いには細心の注意を払え、みたいなこと。
「差別心は当たり前、だから仕方ない」、ではなく、「だからこそ、取り扱いに気をつけろ」という話。
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犬好きと猫好き、右翼と左翼
A「僕は〇〇のことが好き。みんなも〇〇のことが好きに決まってる」
— 鯖缶 (@savacanmemo) May 22, 2019
B「僕は〇〇のことが好き。でも、みんなは好きとは限らない」
Aの人は声がデカいし、すぐに仲間を見つけられるから、そのポジティブな思い込みが加速しやすくてうらやましい(うらやましくない)。
僕の勝手な偏見として。
犬が好きな人は、「きっとみんなも、犬のことが好きに違いない」という世界観を持っている。「犬は苦手で」という人のことは認めず、「本当は犬が好きになれるはずなのに教育が足りなくてかわいそう」みたいな、傲慢な思い込みで楽しく生きてる。
そんな「犬派」に対して、「猫派」はずっと謙虚なイメージだった。「猫がこんなにも好きなんて、ちょっと私は頭がおかしいんだと思います。猫のことなんてどっちでもいい人の方が多いと思いますし、それが普通なんだと思います」というような。
ここでは、「自分の世界観を朗らかに肯定できる人」を「犬派」、「自分の世界観を疑い、多様性の重みを知る人」を「猫派」とした。実際には犬好きの人の中にも「猫派」はいるだろうし、猫好きの人の中にも「犬派」はいるだろう。(例え話を持ち出したのに、まったく話がわかりやすくならないのはごめんなさい。)
僕がしたいのは、右翼と左翼の話。
これも陳腐なたとえになるけど、物事を立体的に見るには、右目と左目の両方を正しく働かせて見ないといけない。同じように、「右翼的なものの見方」と「左翼的なものの見方」がを止揚させてこそ、「まともな世の中」が実現しやすくなる。
右翼が自信を失って、ムキになってばかりいる。僕は、右翼にはもっと、どっしりと自分の正しさを信じていてほしい。左翼が揚げ足を取っても、そんなの放っておけばいい。「今まで大切にしてきたこの価値観は今も確かにあり、それを愛していけば大抵の人は幸せになれる」と、ポジティブに保守を貫けばいい。それが右翼の役目なんじゃないか。
左翼も自信を失ってるように思う。冷笑キャラをこじらせて、ただの「かまってちゃん」みたいに、「わかってくれない」とひがんでばかりいる。そうじゃないだろ、「弱者を取りこぼさないために、障壁となってる古い枠組みを、落ち着いて批判する」みたいな、優しい皮肉屋でいてくれよ。
ヤバい右翼とヤバい左翼がある種の共依存のように安っぽいプロレスを続けるのを見て、まともな人は「ああ関わりたくない」と全スルーを決める。だけど本当は、「左右の両目で物事を見ること」が大事だろう。少なくとも僕はそうしたい。
その他のツイート
「メモを取る」みたいなつもりでツイートしていることが多いので、自分的に覚えておいてもいいかも、ということを貼りつけておきます。
息子5歳、「絶対に宇宙に行きたくない」とシクシク。理由を聞くと、
— 鯖缶 (@savacanmemo) May 22, 2019
「ブラックホールこわい・・・」と。
短所と長所は表裏一体、みたいなことはよくある。
— 鯖缶 (@savacanmemo) May 22, 2019
自分のでも、他人のでも、短所を急に変えるのは難しいから、なるべく長所っぽく理解したほうがいろいろ幸せなはず。
「雑」→「細かいことにこだわらない」
「ウジウジしてる」→「慎重」
(まあ、短所ばかり目につくからこんなこと言うんだけど)
僕「昨日、羽生さんが勝って、大山15世名人の歴代最多勝に並んだのね」
— 鯖缶 (@savacanmemo) May 24, 2019
妻「うん」
僕「対局の相手、誰か分かる?」
妻「え、そんなの私に分かるわけ・・・ あ、森内さん?」
僕「惜しい!」
妻「じゃあ、谷川さん?」
僕「正解!!!」
(うちの妻、将棋知らないのにリテラシー高すぎませんか?)
職場の休憩室で時々見かける人が、「そんな美人じゃないけど、センスがあって垢抜けた感じ」という人かと思ったら、よくよく見ると「すごい美人が、なぜかドレスダウンするように美人度を下げてる」というカテゴリーの人だと気づいて、ガン見を我慢するのが大変。
— 鯖缶 (@savacanmemo) May 24, 2019
(1つ前の「最近気づいたこと」はこちらです↓)
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