鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【日記】47歳からのHIPHOP入門⑮(学校公開に行ったら、先生の授業が良すぎて逆に怖かった件)

2024年1月某日 学校公開に行ったら、先生の授業が良すぎて逆に怖かった件

学校公開の日。吹奏楽部の朝練の見学に行く。保護者のLINEグループに、「ぜひ来てくださいと、先生からも伝言を頼まれてます」と2回流れてきて、それならば、と朝の7時台から出向いて。

 

練習場所である音楽室に着くと、張り紙で「ぜひ後ろからではなく、前から聴いてください」と。楽器の音が向けられている方向にいた方がよく聴こえる、ということもあるんだろうけど、これは「ミニ発表会の雰囲気を作るために、保護者もオーディエンスという役割を演じろ」ということなのかな、と想像して。遠慮なく指揮台の横まで進んで座らせてもらう。この、練習風景がとてもよくて。涙を堪えるのに必死になったほど。

 

音階を演奏するだけの基礎練習から始めるんだけど。それを、バリエーションを替えながら次々と続けていって。それぞれの練習にどんな違いがあるのかは僕にはちょっと分からなかったんだけど、1番から6番までのパターンで音の出し方を確かめていく。

 

僕が何に感心したかと言うと、それは練習の間ダラける時間がないこと。1つのバリエーションが終わると、短く課題を確認してすぐに次に移るのが、「儲かってる会社の会議」みたくテキパキしててカッコいい。「さあテンションをあげよう」とか「集中を途切れさせないで」みたいな精神論の掛け声がなくても、練習のテンションも集中も高めに維持されてる感じだった。

 

音階練習が終わったところで、先生が子どもたちに声をかけて、「ここまで20分でできました。これで曲の練習に25分使えます」と。ああ、やっぱり、「テキパキとした集中」は意識してたんだな。それを含めて、バンドとしての成長だと認めて、保護者の前で子どもたちを褒める感じか。

 

曲の練習も、高い集中が保たれた密度の濃い練習に見えた。合間には、パート内で6年生が後輩に注意点をアドバイスするシーンもあって、そんなの親としては目を細めてしまう。いやあ、成長してるじゃん!

 

2年前、初めて演奏会を見に行ったとき。隣の小学校のレベルの高さに驚いたことがある(家に帰ってから調べたら、全国大会の常連校だった)。演奏はもちろん、「演奏に入る前の音合わせ」がすごく印象に残った。決められた作業をテキパキと遂行する感じなんだけど、それでいて慎重に何度も確かめ、遠慮せず時間をかけて音を確認する様子が、なんだか覇気がみなぎってる感じで。「強豪校は音合わせの段階からレベルが違うのかよ」と驚いた。

 

何となく適当にやってるんじゃなくて、音程を合わせる工程を、集中してやってる。「先生に教えられたことを、あんまり意味も分からずにやってる」だけでは、あの迫力は出ない。各パート同時進行で音合わせをするから、先生が逐一指示や確認をできるものではないし、何より、演奏者自身が音程を正確に合わせようという「決意」を持たなければ、音合わせはできないし、その「正確な音程への決意」は、そのまま演奏のコアになるものなんだろう。

 

今日の、うちの子どもたちの練習にも、その「覇気」が生まれる予感が見えて、なかなかグッと来たんである。

 

続いて。授業もとてもよかった。道徳の授業で、「諦めずにコツコツと地道な努力を続けて、パティシエになる夢をかなえた人の話」を教科書で読んで、みんなで意見交換をする、という内容なんだけど。先生の授業が上手すぎて、それだけで感動すら覚えるほど。

 

まず、板書が「ひくほど」上手い。一文字一文字も、全体のバランスも美しい文字で、小気味いいリズムで黒板が埋まっていく。教科書の朗読も素晴らしかった。決して威圧的にはならないけど、ハキハキと聞き取りやすい声と抑揚。「なるほど」とか「想像できますよね」とか、先生自身の「合いの手」も入れて、生徒に考えを促すような「間」を作るのも絶妙すぎる。「これまでの教師生活で、毎日丁寧に最善を尽くしてきた」というようなオーラを理屈抜きで感じてしまって、オブザーブしてるだけの僕まで背筋が伸びる思い。

 

生徒から意見を引き出すときの雰囲気もとても素晴らしくて。それほど大げさな褒め言葉は使わないんだけど、表情やうなずき方で、生徒を認めてることが伝わる。もじもじした態度や、ちょっとポイントのズレた意見もまったく否定せずに受け止める感じもすごく頼もしかった。

 

で、もちろんその素晴らしい授業には感動したし、子どもを預けてる親としては、まったく荒れそうにないクラスの雰囲気に安心したし、先生にはめちゃくちゃ感謝、という話なんだけど。だけれども、なんというか… 「学校っていうのは、怖いところだよな」ということも感じたんだよな。「怖い」というか「スゴい」というか。

 

子どもたちの素直な吸収力を引き出して、学校的な価値観を最大限インストールすることが、「教育」ということなのか、とその現場を目撃した感じがあって。

 

授業の中で、「パティシエになった主人公が仕事についてどう思っているか」とか、「この話を読んで、あなた自身が感じたことは?」とかを、子どもたちに発表させるんだけど、その時に、「自由に思ったことを発表しましょう」という決まり文句があるじゃないですか。僕には、「それってちょっと白々しくないか」と思ってしまうことが多くて。「自由というけど、大人が喜ぶ答えってだいたい決まってるじゃん」って、子どもは薄々感じてる。しかも、大人が用意した答えを言うだけでは50点で、「自分で考えた率直な感想みたいなフリをして答えなくちゃいけない」みたいなのが、かなり白々しい。

 

しかも、何を言っても認めてくれそうな先生が、励ますような態度で発言を待っているのだ。ナメた発言は相当言いにくい。「パティシエのキラキラしたイメージでモテたいだけでしょ」とか、「やりがい搾取だと思います」みたいなことは、とても言えない雰囲気。「20年コツコツ努力するとか、ちょっと私には無理なんですけど」と言うと先生はガッカリして、「私もがんばりたい」と言うと先生は喜んでくれる、という磁力が働いている感じ。しかも、本音でそう思ってる、という「お約束」を守って話さなくてはいけない。


白々しいからダメ、と主張したいわけではないし、実際そうは思ってないんだけど、吹奏楽の練習も、道徳の授業も、先生の指導が見事すぎて、「教育」っていうことはこう言うことなのか、と圧倒された、というか。「学校的価値観」を教えるだけではなく、子どもたちに自分のものとして内面化させる、というところまでやって、はじめてミッション・コンプリートなんだろう。


親としては、「学校的価値観」からはみ出す部分を、家では認めていくのがいいのかな、と思った。

 

例えば、学校の体育の授業では鉄棒はみんなで交代で使う必要がある。誰かが独り占めをすると、練習できないクラスメートが出てしまうので、それは望ましくない。ここで、「独り占めは、集団では認められない」ことを学ぶ必要があって、それはいいんだけど、「独り占めしたいと思ってはいけない」とするのは、はたして子どもにとっていいことなのかはちょっと疑問。「私が一番鉄棒を好きだし、一番上手い。できれば独占して練習したい」という思いがあったとして、それってまったく悪いことではないはず。「できれば独占したい」と思うほど鉄棒に熱中する気持ち、人から教えられるものではないので、大事にした方がいい。

 

とは言え、なかなか難しいかな。「学校のような集団生活では、独り占めは認められない」が前提だから、譲り合いを覚えるしかない。「譲り合い」が必要である以上、「譲り合ってみんなで頑張った方が楽しい」という価値観も一緒にインストールしないといけない。管理する学校側も、管理される子どもたちも、協力して「みんなで頑張った方が楽しい」という気持ちを作ろうとしている中で、「独占したいという気持ちだって、決して悪いことではない」という強さも同時に育んでいくようなことができれば、一番いいと思うんだけど。どうだろう。

 

「たまにはサボりたい」「すべてがむなしい」「上手くやってる子が妬ましい」「ルールを破ってでも勝ちたい」「エロ妄想が止まらない」とか、「学校」という場所で大っぴらに認めるのはNGだったとしても、人間の気持ちとしては「当たり前」で、その気持ち自体には罪はないはず。取扱注意ではあるものの、そんな「自分のままならない気持ち」を愛せたら、人生は豊かになるんじゃないか、と思うんだけど。


(「授業や練習が素晴らしかったからこそ逆に、学校という場所の重力の強さが心配になった」っていう感覚が自分でも意外で面白かったのでメモしてみたけど、トータルの実感としては安心の方が大きかったかな。先生もしっかり指導してくれて、子どもたちもうまく対応してるのが分かって、それはシンプルにうれしかった。「学校」がうまくいってるからこそ、それ以外の部分をフォローできたらいいと、とりあえずは思っておこうかと)

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