鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【日記】47歳からのHIPHOP入門⑱(昔の写真を見て感無量になった件)

2024年1月某日 昔の写真を見て感無量になった件

昨日、新しいスマホ購入に際して、自分のappleIDとか、そのパスワードとか確認するじゃないですか。で、その過程で。クラウド上に残ってる昔の写真や動画を見るじゃないですか。

 

ヨチヨチ歩きや、言葉を覚えかけの頃の子どものあまりのかわいさがまぶしすぎて。生命が内包する輝きが、あまりに無防備に発露されていて、それを見るだけで目の奥に涙が湧く。

 

思えば、子育てというのは緊張の連続だったなあと深くため息をついた。たぶん1年ごとに一度ぐらい、子どもたちを激しく叱りつけた時のこともいくつか思い出して。その瞬間、子どもたちはさぞ怖かったことだろう、と想像したり。

 

「そんな日もあるさ。心ってのは案外頑丈にできていて、曲がっても、簡単には折れないものだろ」とも思うんだけど、でもやっぱり、僕の中にあるモラハラ気質がまた暴発してしまうんじゃないか、それでで子どもたちの心を修復できないほど傷つけてしまうんじゃないか、という恐怖があった。

 

怒りの感情に慣れてないし、感情をコントロールできないなんて恥だという思いが強かった僕は、つい怒ってしまった時に、自分を守ろうとして過剰防衛が発動してしまう。それで、相手を(子どもや妻を)追い詰めるようなキレ方をしてしまうことがあった。自分を「優しくて、気が長い性格」だと思ってたけど、そんなのは幻だった。「睡眠不足」みたいなステータス異常に耐性があるかどうかまで含めて「優しさ」だったのか、と。

 

今まで子どもたちに手を上げたことはないんだけど、怖がらせるために物を投げたことはある(それだって本質的には暴力とは変わらない)。だけど、一応はギリギリ理性は保ってきた、と思う。でも、「ギリギリ」だった。あとちょっとしたきっかけがあれば、理性が保てなくなるかも、という恐怖は常にあって、そうならないように緊張してたな。

 

だけど、時を経て。子どもたちが成長して、もちろん親というのは保護者であり管理者であり監督者であることは変わらないんだけど、僕の子どもに対する「支配力」はだいぶ薄まってきた実感がある。もしも、僕が自分を失ってDVクソ野郎になるようなことがあったとしたら。そんなことは絶対ダメだし、絶対にそうさせないんだけど、それでも万が一、僕の中のバケモノが僕を乗っ取ってしまったとしたら。でも、もしそんなことが起きたとしても、今の子どもたち(小6と小4)なら、なんとか逃げてくれるんじゃないか。今はまだ難しくても、5年後、10年後には、僕から逃げられるようになってるんじゃないか、とか想像した。そう思うと、だいぶ緊張はせずに済むようになってる。

 

コロナ禍のピリピリムードも落ち着き、もはや忘れかけてる今のタイミングで昔の写真を見て。だいぶ大丈夫な気がしてきた。というか、そんな緊張(僕の中のモラハラ気質が暴発してしまうのではないかという不安)は、この半年ぐらいは忘れて過ごせていた、ということを思い出して。やや感無量。

 

子どもたちが自分の手を離れていくのはもちろん寂しいんだけど、その一方で、子どもたちが僕の支配から出ていってくれることには、深い安堵があるんだろうな、と。

 

1月某日 対局室のふすまになりたい

朝。昨日見た昔の写真や動画を、妻にも見せたくて、デスクトップの前に来てもらって。一緒に見ていたら、子どもたちも寄ってきた。意外なことに、子どもたちも、自分の幼い頃の動画を喜んで見ている。自分の、ヨチヨチ歩きや、ヨチヨチした話し方を見てうれしそうだ。(なんでそれを「意外」に感じたのか、なかなか説明しにくいんだけど、僕は自分が子どもの頃、自分の赤ちゃん時代の写真にあまり興味がなかった気がする… 動画だとまた違うのかもしれない)

 

で、最近は子どもたちの写真を撮ることもほとんどなかったんだけど、やっぱりたまには写真や動画を残しておきたいような気がしてしまった。

 

子どもたちの写真をあまり撮らないことは、少なくとも僕にとってはそっちの方がしっくりくるから、なんだけど。「写真を撮らなくちゃ、残さなくちゃ」みたいなプレッシャーを、子どもたちに(自分自身にも)感じさせずに過ごさせたい、というような、「アルバムを作るために生きてるわけじゃない」みたいな気持ち。

 

将棋ファンの「対局室のふすまになりたい」とツイートをよく覚えていて。”推し”の対局姿は間近で目に焼き付けたいんだけど、間違っても自分の存在によって、集中を乱すことがあっては申し訳なさすぎる。だから、対局室のふすまになりたい。呼吸も心臓の鼓動も届かないふすま的なわたくし。


僕も結構同じ気持ちというか。”推し”の尊いライフに、間違っても自分の影響を与えたくない、というような。それで、僕にとっての一番の”推し”は子ども2人じゃないですか。だから、運動会なんかの晴れ舞台でも、日常の喜怒哀楽でも、なるべく「写真を一生懸命に取りたがる親」の存在で、彼らの集中を邪魔したくない、という意識があった、というか。

 

まあでも、「写真を撮らない自分」を至上命題にしてこだわる必要もないし、子どもたちにとっての僕は、ファンである前に保護者なわけであって、「ふすまになりたい」というような気分でずっといるわけにもいかないわけであって。時々は、写真をとるぐらいのことはしてもいいかもな、と思ったりして。

 

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