2022年6月某日 娘が帰ってきた
娘が5泊6日の移動教室から帰ってきた。小学校まで迎えに行ったんだけど、行くかどうか、ちょっとだけ迷ったんだよな。なんか、「家まで1人で帰ってくる」みたいなドラマの方がかっこいいのでは(娘をより成長させるのでは)、みたいなことを思って。結局、娘にがっかりされたくない、という目先のエゴが勝って小学校まで行ったんだけど。(迎えに行けば、ウザがられることはあってもガッカリされることはなさそう)
小学校まで迎えに出る親は3割ぐらいかな、と想像してたんだけどたぶん8割ぐらいの親が来てた。やっぱりちょっと感動しちゃったな。まわりのお母さん方が、待つ間ちょっとソワソワしてうれしそうで。5泊6日の間、子どもが側にいないことの心配な気持ちから、やっと解放されるんだ、という「千秋楽」っぽさがある(「子どもの世話」が再開するんだけど)。
子どもたちが学校に着いて、顔見知りのお母さんのもとに娘のクラスメイトが抱きつきに行くのを見てたら、肝心のわが娘がどんな表情で帰ってくるのかを見逃してしまった。「帰りの会」みたいな「締め」の儀式のために、集合して座ってる。
子どものうちの1人が司会をして、帰りの会は進行。先生のお言葉。短くて素晴らしい。続いて「指導員」(キャンプリーダーみたいなイメージで、世話をしてくれたお兄さん、お姉さん)へのお礼。そして代表の子どものまとめの発表。「○○をしようと思っていました。それはできました。なぜなら、○○できたからです」という「初級日本語の会話練習」のテンプレみたいなやつ。とにかく、テキパキと会が進んでいく。そして、最後に保護者へのあいさつ。立って、振り向いて、声がそろった「ただいま」。
こんなの泣いちゃうじゃないか。それまでお経のような「ですます調」が続いてから、不意打ちでタメ口の「ただいま」かよ。演出うますぎるだろ。
娘は、出発前の体調不良もすっかり消えた様子で、安心した。なかなか僕のところに戻ってこない。友達と話したり、指導員のお兄さんお姉さんにバイバイを言いに行ったりして忙しいらしい。やっと済んだと思ったら、僕には一瞬目を合わせただけで、さっさと帰ろうとする。中学生男子か。親と一緒にいるとこを友達に見られたくないアレか。
家に着いて、荷物を置いて。「洗濯物出しといて」と言うと、「もう向こうで自分で洗濯したから、洗濯物はないよ」と得意げな様子。その得意げな様子はうれしいよ。よかった。おかえり。
親が感無量でいるのをよそに、友達が誘いに来て、娘は公園に遊びに行った。体力無限なのか。
6月某日 TSUTAYAのコミックレンタルが終わってしまう
いやはや。ついにこの日が来てしまった。この2年間、ずっと利用し続けた定額コミックレンタルの終了。月額料金を払えば借り放題のシステムで、毎月100冊ぐらいずつ読み続けてきたこの生活が終わってしまう。
閉店は少し先なので、まだマンガは借りられると思ってたんだけど、1ヵ月単位の借り放題は更新の切れ目で自動解約になったたらしい。「チェンソーマン」と「アイシールド21」を読み途中なんだけどな。ここから先は、定額のサブスクではなく、1冊ごとの料金で借りるしかない。
子どもが生まれてから、本が読めなくなった。たぶん、「体力を限界まで使うのを避けよう」って本能的にバッファを取るのに似てるんじゃないか。「その日の体力を使い切ってから寝るんじゃなくて、寝れるときに寝ておかないとヤバい」みたいな感覚が好むと好まざるにかかわらず身についてしまう。「子どもが熱を出すかもしれないし、何かあるかもしれない」みたいな慎重さがデフォルトになるやつ。
それって、体力的なものだけじゃなくて、精神的にも「早めにリミッターをかけるクセ」みたいなのが働いていたのかもしれないな、と思う。「人生観を揺るがすような芸術」に、出会いたくない。出会ってしまったらそれはエキサイティングなことだと思うけど、あまり積極的には求めなくなってる。「おっさんになると、昔聴いた音楽ばかり聴き直して、新しい音楽を聴かなくなる」なんて言うけど、それに似た感じで、僕は本を読まなくなった。
それで、「せめてマンガだけでも」という思いで、マンガばかり読んできた(せめてマンガだけでも、というとマンガを下に見てるみたいだな。もちろんそんなつもりないけど、ひょっとしたら無意識でそう思ってるのかもしれない)。やめてしまったタバコの代わりみたいに、翻訳仕事や家事の合間にタイマーをセットしてちょっとずつ読む、というルーティンでマンガを消費してきた。
そのルーティンも変えるタイミングなのか。どうしようか。あまり思いつかない。とりあえず手元にあるマンガを読みながら考えるか。
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