鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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子どもの予防接種の管理を、妻に任せっきりにしていたことを反省した件

「母子手帳と、子どもの予防接種タスクの結びつき」に疑問を感じた話。それと、僕自身の懺悔について書く。子どもの予防接種って、母子手帳で管理するじゃないですか。そうすると、「子どもの予防接種についての管理」っていうタスクが、自然と「母親の役割」みたいな感じになりませんかね。

 

きっかけは、去年(と今年)の新型コロナのワクチンの接種。いろんな人がいろんな種類のストレスを感じたと思うんだけど。去年の6月ぐらいかな、僕はもう、「予約」自体が面倒すぎて。自分がいつ予約を申し込めるようになるのか、分からない。どこに書いてある情報が「正式」なのか。近所の開業医と、自治体の接種会場、それとも自衛隊の大型接種会場、どこに申し込むのが一番早いのか。電話をかけるのがいいのか、ネットがいいのか。そのすべてを理解するのが相当に面倒だった。


面倒、と言っても、接種券に同封された説明書きを詳しく読んだり、自治体のホームページを見たりして、それほど遠回りせずに情報にはたどり着いたんだけど。だから、ワクチン接種に関するシステムや周知がクソだった、とかそういう文句を言いたいわけじゃない(実際には「改善の余地はあるが及第点」だったんじゃないか。知らんけど)。どちらかと言うと、「やったことのないことをやる時に、それにかかる仕事量が読めずに、面倒くささを勝手に過大評価して、いとも簡単にすべてが嫌になる」という僕の思考回路のポンコツっぷりを反芻しているだけの話。


それで、案の定予約がなかなか取れなくて、それもヤキモキした。接種の順番が遅れるのは別に構わない。でも、次の予約日がいつなのか気にするのは面倒だったし、予約が取れなかったと伝えると親や妻が残念がる(まあ、心配なんでしょう)のが、責められてるみたいで煩わしかった。


いざ予約ができても、そこから「予約を忘れないようにする」「他の予定を入れないようにする」「必要なものを準備する(接種券をなくさないように気を付ける)」みたいな、「細かいめんどさ」が積み重なって、それがストレスになった。


さて、3回目のワクチン接種の予約をしていて、それらのストレスを思い出したんだけど(3回目の予約は、1回目の時ほどストレスを感じなかった。多少は面倒だけど、“それほどじゃない”と理解できてるので)。


その時に合わせて思い出したんだけど(ようやく本題)。子どもの予防接種って、母子手帳で管理するじゃないですか。そうすると、「子どもの予防接種についての管理」っていうタスクが、自然と「母親の役割」みたいな感じになりませんかね。(冒頭の文のコピペ)


言い訳するつもりはないけど、僕はほぼ意識しないうちに妻に任せてしまっていた。予防接種の予約、その仕組みの理解、どの病院で受けられるのかの確認、受け忘れがないかの管理。想像だけど、結構なストレスになったんじゃないか。ストレスというか、プレッシャーというか。妻が予約した予防接種を、僕が連れて行く機会は多少はあったけど、正直言って「お手伝い」感覚から抜け出ていなかったように思う。すまん、妻よ。僕も一緒になって背負えるはずのストレスを、一方的に押し付けてしまっていた。そして、そのことをあまり気づいていなかった。


子ども2人が小学生になり、妻がフルタイムで働きだしてから、平日の午後の家事育児タスク(夕飯、風呂、洗濯物取り入れ、習い事の送迎)は僕がやることになった。そして、子どもを病院に連れて行くのも僕だ。これが、なかなかに大変なんである。もう小学生になったから、以前と比べて病院に行く回数自体はかなり少ない。それでも、花粉症があるので耳鼻科には割とお世話になってるし、娘は矯正をしてるので歯医者、2人とも近視なので眼科には行く。去年は、息子が原因不明の咳が止まらず(おそらく咳チックだろうと)、小児科や総合病院に通った。


それで、この「子どもを病院に連れて行く」という業務、結構ストレスになるんである。コロナ禍ということもあって、病院に連れていくかどうかで迷う。迷うということは、もちろんストレスの元だ。「この程度なら、病院に連れて行く必要はないんじゃないか」「いや、自分が面倒だから連れて行かないのであれば、それは育児放棄じゃないか」の間で心が揺れる。「子どもが体調崩した時に、親が不機嫌になる」のは育児あるあるだと思うんだけど、それを実感する。不機嫌にならないのは結構難しい。


そこで、「母子手帳と予防接種」をもう一度思い出した。母子手帳で管理をすることで、予防接種の管理がいつの間にか「母親の役割」みたいになってしまってないか。その流れで、「子どもを病院に連れて行く」っていうタスクが、いつの間にか「母親の役割」で定着していないか。


もちろん「母子手帳での予防接種管理」には、なんらかの実務的な利便性があるのかもしれない。子どもの予防接種を妻に完全に任せたこと、そのことに気づいていなかったこと、それは僕の責任だ。それは認めるとして、それでも。役割を固定化させて、温存させてしまうことに、母子手帳が寄与してるとしたら、ちょっと悲しくないか、と。


雑な言い方かもしれないけど、母子手帳って、「母と子の聖なる結びつきのシンボル」みたいな気がして、「父が勝手に触ってはいけないもの」っぽさがある。妻の体重とか書いてあるし。その「聖なるもの」を「不可侵」として「尊重」した結果が、「タスクの不公平な押し付け」につながりやすい、としたらバカみたいだ。


僕は、「母と子の聖なる結びつき」ってあると思うし、それは「大切なもの」としてリスペクトしたい。でもそれは、「タスクの納得いく分担、柔軟な母親観、父親観の更新」とか、「機会均等」とか、実現してはじめて言えることであって、「母親の役割観の温存」に苦しんでる人がいるとしたら、「聖なる結びつきとかのんきなこと言って、タスクをサボってるんじゃねーよ」という話になっちゃうような気がする。


…みたいなことを思い出して、妻が起きてきてからお礼を伝えた。予防接種の管理をしてくれてありがとう、大変さをちゃんと理解してなかったと思う、ごめん。みたいな。妻はキョトンとして、「はぁ? 別に当たり前のことだし」とツンデレみたいなリアクションだった。今のところ「デレ」にはつながってない。トホホ。

 

 

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