2025年1月某日 シラフを楽しんでいくしかない
ひょっとしたら、「NFLを見なければ」という呪縛から逃れられたかもしれない。シーズンのクライマックスであるプレーオフに至っても、リアタイ観戦が面倒になってしまい、今日ついに、「見る余裕あるのに試合を見ない」案件が発生した、という話。
今日は会社をサボって(事前に有給を申請してるけど、気持ちとしてはサボりに近い)ネットカフェ観戦。家で見ればいいのに、妻には「会社に行くフリ」をして家を出るという、「1人時間」を1日満喫するという禁断のムーブ(数年前は度々手を染めていたやつ)。
そこまでしておいて、2試合あるうちの最初の試合を見ただけで、「もうどっちでもいいや」という気持ちになってしまった。マジかよ。「会社に行くフリ」をしてるんだから、どっちにしろ夜まで家に帰れないんだぜ。
2試合目のキックオフの時間になっても「どっちでもいい」という気持ちがぬぐえず、その気持ちに身を委ねることにしてみた。甘いお菓子としょっぱいお菓子を交互にツマみ、適当に選んだ何種類かのマンガをパラパラめくり、ウトウトと睡魔に負けるでもなく、勝つでもなく。なんなんだよ、この無駄な時間は。満喫しろよ、趣味のNFL観戦を。せめて。
この10年、毎シーズン100試合は観戦してきたNFL。いざ「どうでもいい」となると、多少の淋しさはあるものの、プレッシャーから解放されたスッキリ感はあるかもしれない。あれ、「せっかくリアタイ観戦できるのに、それをスキップするなんてあり得ない」ってさっきまで思ってたのにな。「いや、あり得るだろ」と。「必死になって毎週5試合見てた今までの10年間の方がどちらかと言うとあり得ないでしょ」と。
何と言うか、「正気」に戻ってしまった感じ。この精神状態を描写するなら、「もったいない」が近いかもしれない。確かに異常だったかもしれないけど、あんなに夢中になってたものから醒めてしまったのか。まあでも、しょうがないのかもしれない。シラフを楽しんでいくしかない。
1月某日 映画とマンガ
映画へ。今年初、かな。去年、「映画のチケットを予約した日に限って子どもが体調崩して休む」というケースが続いたのでそのジンクスが心配だったけど、子どもたちは無事登校。
「小学校~それは小さな社会~」っていうドキュメンタリーを見たんだけど。予告編を見た時には「たぶん僕の好きな映画なんだろうけど、作り手の思惑にはまっちゃうのは悔しいから見たくない」と思ってた。
見た結果、その予感は当たっていた、というか。僕は、「みんなが同じことを同じようにできるようになる。そのことを、みんなが喜ぶ」みたいな「学校的価値観」にはウンザリしてるんだけど、その一方で、その同調圧力のおかげでなんとか社会の営みが保たれていることはリスペクトすべきなんだろうな、とも思っていて、そのアンビバレントな気持ちを再確認する時間になった。悔しいけど見に行ってよかったよ。
(映画の感想は以下にまとめています↓)
【感想】ドキュメンタリー映画「小学校~それは小さな社会~」感動と違和感の塩梅が絶妙すぎた - 鯖缶@3rd&forever
時間の都合が合う映画のなかで、他に見たいのがなかったので「消去法」で選んだんだけど。そういう選択って、もっと生活に増やしてもいいのかもしれない。「見たい映画がないから家にいる」じゃなくて、「映画館に行くことだけは最初に決めて、気が進まなかったとしても何か1つ選ぶ」というような。出不精という自分の特性を理解しつつ、それをいなしながら生きていく、というか。
帰ってきてから、Kindleで「キーチ!!」(新井英樹)を読み終えた。キーチは学校教育でなんとかなるタイプの子どもじゃないよね。「型破りな生命力を持った主人公による、痛快な英雄譚」なんだけど、キーチのコミュニケーションの手段は基本的に「暴力」しかなくて。「うちの子の同級生にキーチいたら絶対イヤだよな…」って思いながら読んだな。
自分が納得できなければ、テコでも動かない。学校や世間の同調圧力には屈しない、ていうか無視する、っていう主人公な。「いじめ」とか「児童虐待」とかがキーチの「倒すべき敵」になってから、一気に読みやすくなる(ヤバい主人公を応援する目線で読めるようになる)んだけど、もしそうじゃなかったら、どんな気持ちでキーチを見ればいいのか気になった。「いやあ、この問題児を愛せと言われても、たぶん無理なんですけど…」というような、謎の葛藤を求められそう。そのバージョンの「キーチ!!」も、読みたいような、読みたくないような。
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