鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る⑰(子どもの学校のプリントに狼狽した件)

2023年4月某日 学校のプリントに狼狽した件

新年度になって、子どもが持ち帰ってきた「小学校のきまり」的なプリント。登校時間とか、休みの連絡方法とかを列挙する中に、「心を込めて掃除します」みたいなことが「きまり」の1つとして書いてあって、好きじゃなかった。心を込めたかどうか、他人からは分からないじゃないですか。「毎日掃除します」とかでよくないか、と。


「校庭で元気よく遊びます」もあった。これも、「元気よく」は省いていいと思う。ルールを記述する時に、「説教をちょい足し」してくる現象、興味深い(というか警戒してる)。


「心を込めて掃除」も「元気よく遊ぶ」も、「自分で考えた目標、心がけ」なら内面を含めるのも「アリ」だろう。でも、「ルール」としては、余計じゃないか? 誰かの内面に、ああだこうだ言いたい時に、ただの余計なお世話じゃ物足りなくて、「お墨付き」が欲しいのかよ、とか思ってしまう。


実際には、学校の先生方は(少なくともうちの小学校では)、相当いいバランス感覚で子どもたちを指導してくれてる気がする。「きまり」というのも、「ルール」であり、「目標」でもあるんだろう。でも、プリントとかレジュメとかを作る時に、手癖のように道徳的な言葉を足してしまうのが興味深い。

 

ちょっと話がズレるかもしれないけど。ダイエットをする時に、「ストイックな自分になる」「前向きに取り組む」みたく道徳的にとらえてしまうと成功しにくい(らしい)。どういうことか。ダイエットに感情を持ち込むと、冷静な判断がしにくくなる、ということ。


例えば、「苦手な野菜を食べた」や「好きなコーラを我慢した」などを「頑張ったオレ、最高」とか過大評価してしまうと、「その分、ご飯大盛でいい」など思いがち、みたいな。あるいは逆に、お菓子をつい食べてしまった時に、(それだけなら大した問題でないのに)「ああ俺ってダメなヤツ」と自分を責めると、ヤケになってドカ食いしてしまったり。自己実現的なものを含めてしまうと、判断力が鈍ってしまう。もちろん、最初と最後は「気持ち」が大事なんだろうけど、気持ちを強調しすぎると、試行錯誤に精度を欠いてしまう、というか。


「地球にやさしく」なんかも同じ部類じゃないか。やさしい気持ちさえあれば、効果がないことに取り組んでもいいのか。ていうかそもそも、「やさしい気持ち」って不安定だろ。そんなものあてにするの、全然サステナブルじゃないじゃん。


そうか。「人類、社会と地球との関係」を考える時に、それって「今までと同じやり方じゃ地球がもたない(人類の住みやすさベースで評価して望ましくない)らしいから、もろもろ考え直すべき」って時に、それって考えるのめちゃくちゃめんどくさい(現状の把握と解決策の効果測定を正確に評価するのがムズいし、今までのやり方を変えるとなれば対立する利害をどう調整するのかまで考えなくちゃいけなくなる)。


だったらとりあえず、「地球にやさしく」って言えばめんどくさくない、みたいな。感情とか根性とか礼儀とかが重要じゃない、とは言わない。だけど、思考停止の隠れ蓑になったり、冷静な判断のジャマになったりするから、それは警戒した方がよくないか。


「差別」について考える時に、「好きか嫌いか」とか「優しい気持ち」とかはむしろジャマになるんじゃないか。「フェアかどうか」だけが重要だろ、とか。憲法改正案で「家族は、互いに助け合わなければならない」と書く時に、まず議論すべきは「家族は助け合うべきかどうか」じゃなくて、それって憲法に書くべきことなのか、みたいな話にも思いを馳せたよ。


いやはや。子どもがもらってきたプリントを見て、ちょっと狼狽してしまった。


子どもたちよ。ぜひ心を込めて掃除をしてくれ。校庭で元気よく遊んでくれ。でも、それは「きまり」じゃないよ。「心を込める」も「元気よく」も自分で決めていい。心を込められない日だってあるよ。そんな時でも、タスクとしての掃除を消化することも覚えてくれ。校庭で遊ぶ以外にも元気のよさはあるし、元気になれない日もあるだろう。そんな時に、自分を責める必要なんてないし、誰にも自分を責めさせないでいい。そうでしょ。

 

4月某日 とりあえず休ませてくれ

読んだマンガ。

「おかえりアリス」(押見修造)…1~3巻。これは、まあ、かなりすごい。シンプルに、絵がうまくなっていて、表現力がエグいことになってませんか。主人公が、幼馴染を見る時に、「エロい目線で見てしまう瞬間」が、ダイレクトに分かってしまう。


マンガを読む時に、アクションとか、表情とかを、ストーリー(文脈)で判断して、脳内で補正しながら理解すると思うんですよ。「たぶん、主人公から見た世界はこんな感じなんだろう」みたいな感じで。それが、「おかえりアリス」では、「補正しなくちゃいけない範囲」がすごく少なくて、ダイレクトに伝わってくる。「伝わってくる」とどうなるか。「よく分かる」。よく分かると、その分、「分からないこと」が際立ってくるんじゃないか。


思春期の男の子にとって、自分の性欲は「わけの分からないもの」「自分の中にあって、確かに自分の一部なのに、自分ではコントロールできないかもしれなくて怖いもの」でもある。その「分からなさ」がめっちゃ伝わってきて、怖いんすよ。続きが読みたいけど、読みたくない感じ。とりあえず休ませてくれ。


押見修造、「惡の華」読んだ時は、才能を燃やしながら描いてるイメージを勝手に持ってたんだけど。つまり、あんまり長続きしなさそうな作家なんじゃないかって。それがどうよ。似たような場所をグルグルしながら、表現力が深まりまくってるのでは。


「BET」(押川雲太朗)…全3巻。これ、昔好きだったんだよな。竹書房の麻雀マンガ雑誌じゃなくて、「モーニング」に載ってたのか(今調べた)。懐かしかった。テキサスホールデムのポーカーで、「ブラフが効くタイミングを読み切って勝つ」みたいな回が好きだった。押川雲太朗は女性キャラがほぼイマイチなので、女性キャラ皆無の「BET」が一番面白い説あるな。


朝の通勤時と、会社についてからの15分ぐらいだけ、村上春樹(The Elephant Vanishes」)を少しずつ読んでるんだけど。英語版で、いわばベスト盤みたいになってるのな。「ねじまき鳥と火曜日の女たち」から始まって、「パン屋再襲撃」「眠り」「納屋を焼く」「ファミリー・アフェア」(これで一部なんだぜ。すごくないか)を経て、今日は「TVピープル」。


比喩表現、メタファー。「ありきたりで陳腐」にもならず、「独りよがりで意味不明」にもならないバランスと鋭さで比喩を使われると、それだけでトリップできるじゃないすか。やっぱりエグい。こんなにシリアスでこんなにふざけた表現、あんまりないでしょ、とか思いながら読んだ。


ちょっと気になったこと。今、「納屋を焼く」の表記を確認するためにググったんだけど、ついでに、いくつか解説っぽい記事をななめ読みして。「解釈&解説」という時に、「正解(正しい解釈)があり、それを見つける」みたいなノリの記事ばかりだった。「おいおいおい、正解のない問いを突き付けるのが文学だろ。正解のなさを味わえよ」とか。(まあ、そういう記事の方が読まれやすく、検索結果として上記に表示されるということかもしれない)

 

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