鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る    ⑪(「子どもが話し合って決めるべきこと」なのか?)

2023年3月某日 まんがパークに行ってきた

子どもたちは春休み。前から行ってみたかったところに、子どもたちを連れていく。「立川まんがパーク」である。有料の「マンガ図書館」的なところで、子ども200円、大人400円でマンガ読み放題。往復の交通費を計算に入れたとしてもネットカフェよりもかなり安い。「できる限りのマンガを大量に摂取したい」と願う僕にとっては天国のような場所である。ネットカフェが勝ってるのは「ドリンク飲み放題、ソフトクリーム食べ放題」なんだけど、それすらメタボ予備軍(1軍昇格寸前)の僕にとってはデメリットなので、この「まんがパーク」には毎週通いたいぐらいだった。


でも、その存在を知ってから半年間、常に出不精の方が勝って、ずっと行くのをサボっていて。ああ、僕のホンモノの出不精。よほど好きなことでも、「やりたい」より「めんどい」が勝ってしまう。「やったことのないことをやって失敗して、恥をかきたくない」みたいなことを反射的に思ってしまうクセがあって、「未知の楽しさ」を低く評価してしまうのかもしれない。


でもまあ、行けました。「子どもを連れて行く」というミッションで自分を鼓舞して、重い腰をようやく上げて。結論から言うと、行ってよかったです。何より、子どもたちが喜んだというのが一番なんだけど。入場前にまず靴をロッカーに預けて、そのカギ(というかキーホルダー)が、入場券代わりになる(Suicaで改札を通るみたいに入る)のが面白い。(ロッカー代が、入場料となっているシステム。券売機が不要になるわけで、なるほど、と。


それで、靴を脱いで畳敷きの部屋で、マンガ読み放題。各所にベンチがあり、「押し入れ」「2段ベッド」みたいな雰囲気のスペースもたくさんある(人気があるみたいで、僕らは確保できなかったけど)。友達の家でマンガ読ませてもらう感じか。本棚はあるものの部屋が明るくていいな。死角が少ないのも、子どもを連れて行く場所としては安心できる。すごくよかったのは、本がくたびれてなくてきれい。利用者のモラルが壊れてなくて、ちゃんとメンテナンスの手が足りてる、ということなのかな。本がきれいなのは安心感があってよかったです。


たっぷり3時間、気合入れてダラダラできたぜ。僕が読んだマンガは、「ギャラリーフェイク」(細野不二彦)の1~2巻。と、「チ。ー地球の運動についてー」(魚豊)の1巻(どんな組み合わせなんだ)。合計3冊だけなのは、「いろんなマンガあるな」、と本棚を見て回ったから(本の並び方の法則を理解するのに時間がかかった)。次に行ったときに何を読もうか、候補作をメモしたりして。


というか、なぜ「ギャラリーフェイク」なのか。「ギャラリーフェイク」、もちろんつまらないマンガではないけど、「どんなマンガでも読み放題」なのにわざわざ手に取る種類のマンガじゃないでしょ。サラリーマンが、昼休みにやることなくて1話だけ読む感じじゃない? 「美味しんぼ」枠、というか。


Kindle Unlimitedに入ってるマンガはまず除外、ここで読まないでもいつか自分で買うな、というマンガも除外した結果、「ギャラリーフェイク」を読むハメになったんじゃないか、と。それで、読みながら、「なんか違うんじゃね?」と途中思って「チ。ー地球の運動についてー」を持ってきた。


「チ。」は去年も読んでいて。改めて読んでみてやはりズッシリと面白い。「真実を知りたがる」ということは、ここまで危険で、でも抗いがたい行為なのか、と。1ページごとに描かれていることの厚みがすごい。


でも読みながら、ちょっとセンチメンタルな気分になっちゃって。この2年ぐらい音信不通の友人がいて。昔一緒に演劇をやっていた人なんだけど。彼がいくつか演劇作品の構想を話してくれて、僕や仲間たちはその構想をすごく気に入ったことが何度かあった。「チ。」を読むと、彼が話してくれた「演劇の構想」のことを思い出すんだ。「どんなに賢く強い人間も、運命の前では無力」みたいな手触りの作品が、ひょっとしたら僕らにも作れるんじゃないか、と何度も思わせてくれた(いくつか発表に至った芝居もあったけど、完成してみると、その構想が実を結んだとは言えなかった)。


元気にしてるかな。読んだマンガの話したいよ。「チ。」もきっと読んでるだろう。あれ、最高だよな。

 

3月某日 「子どもが話し合って決めるべきこと」なのか?

最近ちょっと気になった、あるツイートについて。「マスクの着用については個人の判断」という方針が出たことを受けて、「子どものクラスで、今後どうするかを話し合った結果、自主的なルールとしてマスク着用を続行することに決めた」みたいな話が拡散されていた。


僕が気になったのは、そのエピソードがある種の美談として、「子どもたち、よく考えた」「子どもたち、優しい」と肯定的なニュアンスで伝えられていたこと。おいおい、ちょっと待ってくれよ。本当にそれ、美談なのか?


ちゃんと確かめてないけど、たぶん小学校高学年ぐらいのクラスなんだと思う。ひょっとしたら、中学生、高校生かもしれない。「クラス内でマスク着用を続けるべきかどうか」って、はたして「子どもが話し合って決めるべきこと」なんですかね。

 

おそらく、熱心で優秀な担任の先生がしっかりオーガナイズして、子どもたちは聞き分けがよく、まとまりのいいクラスの学級会だったんだろう。そんなの、話し合って決めたら、「なんとなくマジメっぽい雰囲気の結論」に流れついちゃうんじゃない? 多数決で決めたのか。挙手による投票だったんだろうか。もし、匿名だったとしても、僕が小学生だったら、本音ではマスクやめたいと思ってたとしても、「着用続行」以外には投票できないよ。だって、それが担任の先生の求めてる結論じゃないか。というか、その空気を事前に読んで、「マスク着用を続けたい」と思うように自分を(無意識に)操作してしまう気がする。


“こっくりさん”のコインをみんなで動かすのと同じように、「みんなが望んでいるであろうマジメっぽい結論」に、着地しちゃうんじゃないかな。それって、「話し合いの結果の自主的な判断」って言えるのかどうか。


もし僕がクラスの担任だったら、「どんな条件を満たしたら、マスク着用のルールは終了になるのか」「感染流行の状況を、誰がどのように確かめるのか。それは子どもたちが正しく判断できることなのか」「議論の方法は? 投票の方法は? 決まった結論に強制力はあるの? ルールを破る人がいた場合どうするの?」「クラスのメンバーやその家族の基礎疾患の有無はシェアできないよね。だったらリスクはどうやって評価するの?」についても意見交換させてみたい。その上で、「これってクラスの学級会で話し合って決めるべきことなのか」について、まず話し合いたい気がするな。たぶん、そんな考えはまどろっこしいんだろうな。

 

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