鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る①

2023年2月某日 タバコを吸うようにマンガを読んでる

5年ぶりに会った友人がいて、近況をアップデートしながらダラダラと話した。マンガをたくさん読んでたことを伝える時に、「家で仕事とか、家事とか、着替えとか、何かやらなくちゃいけないことをやる時に、その合間にマンガを読むのよ。タバコを吸うみたいな感じで」とか話しながら、我ながら勝手に腑に落ちた感じがした。


そうか、僕にとってマンガを読むのは、喫煙と似ているのか。似ている気がする。タバコって、味がおいしくて吸うんじゃなくて、タバコを吸う「時間」が好きだったような気がする(もう10年も吸ってないからはっきりとは覚えてない)。僕にとってのマンガも、ちょっとそんなところがある。マンガが好き、マンガが面白い、と言うよりは、「マンガを読んでる時間がなんとなく落ち着く」みたいな感じ。


朝起きてから、映像翻訳の添削の仕事をすることが多いんだけど。スマホのタイマーを「6分」にセットして、まず「6分間だけでいいから、仕事を進めろ」と自分をなだめて(励まして)、とりあえず仕事に取り掛かる。6分経ったら、タイマーの「繰り返し」をタップして、マンガを6分間読む。それで、6分経ったら今度は仕事を6分×2ターン進める、というルーティン。


決められた量の仕事を終わらせる過程で、一番難しいのは「朝起きる」と「仕事を始める」なわけであって、そこさえ越えればあとは何とかなるじゃないですか。だから、「読みかけのマンガの続きを読みたいな」みたいな気持ちを、仕事の起動に利用する、というようなことで。仕事を始めてからも、だいたい「仕事2:マンガ1」の割合で、マンガを摂取しながら時間を過ごすのが好きだ。スルメをアテにして日本酒を飲むみたいに、「タスク」と「サボリ」がセットになってる、という。


まるで、タバコを吸うようにマンガを読んでる。このたとえが、自分の中でしっくりくるのは、もう1つ説明が必要かもしれない。僕は、「マンガを読むこと」に対して、ちょっと後ろめたさを感じてる部分があるということ。「本来ならもっと集中して仕事をしたらいいのに、それができずにダラダラしてしまう」ことの象徴としてのマンガ。「本当はもっと高尚な文学を読んで人生を豊かにしたいのに、その集中力もなく手軽なエンタメでサブカル気分だけを味わってる」ことの象徴としてのマンガ。もちろん、好きだから読んでるわけであって、そんなネガティブなことを100%常に感じてるわけじゃないんだけど、ちょっとずつの「後ろめたさ」のフレーバーが混ざってる感じがタバコと似てる。


(ダラダラ仕事したっていいし、そのダラダラは別にマンガのせいじゃなく僕の問題だ。“高尚な文学”よりもマンガが“下”じゃないし、マンガを読んでるからといってドストエフスキーが読めなくなるわけじゃないと分かっているんだけど、それはそれとして、「後ろめたさ」は感じてきた)


そんなところで、この冬の入り口ぐらいに、自分の中で「マンガを読むことを、もっと積極的に喜んでもいいのではないか」と思った時があった。


翻訳をしながら、「ああ、原文を理解しようとする時に生まれる喜びがあるな」「理解したことを、訳して誰かに伝わる形にしようとする時にも、喜びがある」みたいに思った時があった。もちろん、仕事をしている間、その底にある感情は「めんどい」「ダルい」がほとんどであって、感情をミュートしようとしてる時間が多いんだけど、それでもなお、消しきれない「喜び」があるような気がした。その喜びは、「安心感」みたいなことに近い。


僕には宗教がない。集団への「帰属意識」も相当低い(「国」「地元」「会社」とか、「○○の一員として」という発想が好きじゃない)。そのことには慣れていたつもりだったんだけど、それが中年になって、不安になってきた。「大きなものの一部に含まれてることの安心感」がなくて、これから年を取っていったときに、その寂しさに耐えていけるのか、という不安。


翻訳をしている時に、その不安から少しだけ解放される感覚がある。翻訳をするための素材を理解しようと試みている時、(ものすごく大げさに言えば)「人類という大きな営み」に参加している感じがする。僕は、「何かを託されて、それを誰かに託す」事業に参加している、というようにちょっとだけ思える。


そう、ちょっとだけ安心した時に、逆に不安も自覚することになるんだけど。「人類という大きな営み」に参加していると思えたらなんとなく安心だけど、もしそう思えないなら、僕は宙ぶらりんだ、というような。思いがせめぎ合ってしまう。


(そういえば、「鬼滅」も「進撃の巨人」も「大奥」も「チ。」も、「思いを託されて、その思いを託す」みたいな願いが、作品の背骨になっていたじゃないか。ああいったヒット作には、その時代の願いが鏡のように映り込んでる。これは僕だけのことじゃないのかもしれない)


そんな中、仕事の合間にマンガを読みながら、「マンガを読むことだって、“人類という営み”に参加してるってことかもしれない」と思うようになった。作品を味わって、理解すること。理解するということには、リスペクトが含まれるでしょ。ならば、「僕まで届きましたよ」と、ありがたく思うこと自体に、なんらかの安心感があるように思えてきた。マンガを読むことが、「人類と言う大きな営みに参加してること」と思えるんなら、もうそんな奴は最強だろ、宗教も歴史も不要だろ、というツッコミもできる。でも、別にそういう思い込みでマンガを読んだっていいかもしれない、みたく思った時があった。


それでちょっと、積極的にマンガを読んでやろう、と思ったという話。日記にして、記録してみる。すぐ飽きるかもしれないけど、今のところはしばらく続けるつもりだ。

 

2月某日 「パニックホラー漫画」って言うのか

さっそく最近読んだマンガを、覚えてる範囲でメモしておく。


「火ノ丸相撲」(川田)…高校相撲編まで読んだ(1~18巻)。なんでか知らないけど、「能力バトルもの」だと思い込んでたんだけど、読んでみたら「高校生部活スポ根もの」だった。絵がすごくよくて。イラストっぽい読みやすさと、劇画っぽい重厚な迫力のハイブリットで。思い切りがよくて。

 

「ピンキーは二度ベルを鳴らす」(うめざわしゅん)…僕にとっては、好きだけど嫌いな感じだったかな。「裏社会」をエンタメ化する時のいろんなアイデアを、サンプリングして詰め合わせた感じ。先行作品の、特定のどれかのパクリというわけじゃないんだろうけど、クラウドの中にある「マフィアもの詰め合わせ」の2次創作みたいな感じ(まあ、それを言ったらたいていの作品はそうなっちゃいそうだけど)。面白かったけど、「こんなのが面白いんでしょ」と思うツボにハマった感じがむなしくて、好きではなかったかな。

 

「モンキーピーク」(原作:志名坂高次/作画:粂田晃宏)…全12巻。ウィキペディア(作者名確認するために検索した)には、「パニックホラー漫画」って書いてあって、「パニックホラー漫画」っていうジャンルがあるのかどうか知らないけど、妙に腑に落ちた感じがする。そうね、パニックって怖いですよね。山の中で、「伝説の猿」に襲われる、みたいな話なんだけど、登場人物たちがパニックで正解の行動を取れない(恐怖から脱出できない)、その連鎖と増幅、結局人間が一番怖い、みたいなのが面白いのか。


デスゲームの一種としてこの作品を見ると、「どうやったら主人公にとって勝ちなのか、どんなミッションをクリアしたら生き残りなのか、ルールをはっきりさせてくれよ」と思ってしまう。「謎解き、推理もの」として考えると、もっとフェアプレー(読者が、犯人やトリックを見破るためのヒントが、解決編の前に作中に示されている)でやってくれよ」と思ってしまう。


でも、「パニックホラー」と思うと、それらが欠点とは思わずに、「何が何なのかわからない怖さがウケる」みたいにとれるので、ちょっと優秀なパッケージングな気がする。僕としては、結構面白かったです。

 

(続きはこちらです↓)

www.savacan3rd.com

 

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