鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【日記】TOEIC受けてる場合じゃねえよ㊾

2022年7月某日 子どもたちの個人面談でめちゃくちゃ褒められた

今週はなかなか忙しくて。子どもを病院に連れていくのが2件(眼科、皮膚科)、保護者会2回、そして個人面談。調整してくれたみたいで、息子と娘の分を連続してやってくれたので、一度に済んで助かった。


息子も、娘も、ものすごく褒められた。勉強はただ結果としてできてるだけでなく、集中して溌剌と取り組んでるらしい。情緒が安定し友人たちに好かれてる。かと言って友達と遊ぶことに執着せず、一人で本を読むマイペースなところもある。給食もしっかり食べる、食べた後、気を散らさずに本を読むときに集中力がある。ノートを自分で工夫して分かりやすくまとめている。テストの準備など、言われる前に自分から予習するクセがついている。友人たちの意見や感想も自分の発表に取り入れている。


そう話す時の先生がうれしそうだったのにも感激した。面白いマンガをオタク仲間に薦めるときのようなテンションの高さで、子どもたちのことを褒めるのが楽しそう。そうか、それほどうちの子どもたちを好きでいてくれるのか。ありがたい話だ。


子どもたちのことを褒められすぎて、逆にニヤけないように「あ、そうですか」みたく気持ちを隠してしまったけど、それも思春期男子みたいで今から思うと恥ずかしいな。でもまあしょうがない。「よく見ていてくださって、成長を支えていただいてありがとうございます」みたくお礼を伝えられたから一応及第点でしょ(こんな風に振り返ってるのも思春期男子っぽい)。


子どもたちが褒められることの安心感ってすごいな。普段子供と接しながら、もっと優しくしなくては、とか、もっと厳しくしなくては、とか、正解が分からずにウジウジしてることが多いもんな。


まあでも、親としてはもちろんうれしかったけど、「先生から褒められること」が子どもたちにとって一番大事なわけでもないだろう。ひょっとしたら、叱られるぐらいの方が本人にとっては一番成長してる時なのかもしれない(もちろん、わざと叱られるような行動を取る必要もないだろうけど)。「また褒められるように頑張らなくちゃ」とプレッシャーになってもツラいだろうし、自分のことを自分で褒められるようになるのが一番強い。(そんなこと、親が教えたり導いたりできるものでもないだろうから、トライ&エラーがしやすい環境を整えてやるのがいいのかな)


とはいえ、とにかく安心した。家に帰ってきて、同居の母に面談の内容をシェアして。夜には帰宅した妻にも話した。母にも妻にも「いつもありがとう」と言える機会になったし、うれしかった。


7月某日 さすがのオレでもショック受けたよ

荒んだ気持ちで近所を歩いていて、掲示板に貼られた選挙ポスターの笑顔にイラついたりすることがある。「誰だか知らんがどうせ嘘つきなんだろ」っていう雑な嫌悪感。それを自分の中で育ててもロクなことにはならないので、結局イラついた自分に、「不安のはけ口が見つからなくて、誰かのせいにしたいんだな、ダセえな」ってみじめになりながら、逃げるように選挙ポスターの前を通り過ぎるんだけど。


選挙ポスター、破られることもなく、落書きされることもなくて、「案外治安がいいのかもしれない」とか思っていた。僕がグラフィティアーティストだったら、選挙ポスターの掲示板にスプレーするのにな。目立つし、数週間後にはなくなるのがアートっぽいし、犯罪なのは高架下やビルの壁とかでも変わらないだろ。だったら、「不良っぽさ」を示すのに、すごくコスパがいいじゃないか、とか思って。


なんだ、「コスパ」って。でも、「イライラして誰かに迷惑をかけてやる」って思ったら、選挙ポスターにいたずらするのが、なんというか「楽」そう。大した覚悟も準備もなく、大したリスクもなく、インパクトのある迷惑のかけ方ができるじゃん、っていう発想か。


いや、ヤケになってるやつがコスパなんて考えるか? ていうか、コスパっていうなら、犯罪っていう時点でコスパ悪いよ。バズッたツイートにクソリプする方がよっぽどコスパいいんじゃね、とか。


もちろん、僕は選挙ポスターにいたずらしたことなんてないし、これからもしないと思うんだけど。「自分が犯罪をしない側」に留まり続けるのはちょっと不思議な感じもする。やっぱり家族がいるからかな、とか。ちょっと条件が変わったら、ヤケを起こしてしまいそうな気もして。でも、やっぱり選挙ポスターにいたずらでも、万引きでもストーカーでも、それらの行為を僕がせずに済んでるのは倫理観や責任感ではなくて、ただビビってるだけ、というか。「犯罪をしない方が楽に生きられる」っていう冷静さを失わずに生きているのは単に運がいいだけ、みたいに思った方がしっくりくる。


だから、近所の選挙ポスターの掲示板が無事でいることに、なんとなくの安心感を感じていたんだ。社会に不満や閉塞感を感じていたとしても、それを暴力的な方法で発散させない、冷静さを保った人が結局は多いんだな、というようなことを無意識に感じていたんだ。僕も、「無敵の人」には(今のところ)ならずに済んでるし、近所の人たちも法律や常識を尊重する人が多そうな気がする。ああ、安心だ、というような。


ちょうどそんなようなことを考えていたこともあって、安倍元首相が撃たれたというニュースにはショックを受けた。「なんだかんだ言っても、日本は安全じゃないか」と思っていたかったのに、「それってただの願望であって、事実ではないですよね」とビンタされた感じ。「自分の中にいる“無敵の人”を飼いならしていけるかどうか、不安なんだよ。その不安をあんまり刺激しないでくれよ」と、心がアラートを出した。情報を拒絶せよ、と訴えてきた。(今回のケースを「無敵の人の暴発」というふうに見るとちょっとズレてるかも。あくまでも僕の心にどんな反応が起きたか、という話)


僕はコールセンターでずっと働いていて、自動車保険の事故受付をしてるんだけど。そうすると当然、「死亡事故」の受付をすることもある(半年に1回よりはやや少ないぐらいの頻度でしょうか)。交通事故で亡くなった人の家族や、あるいは加害者の側の家族から事故の話を聞く。


「誰かが亡くなった」と聞いた時になんと答えるべきか。新人研修の資料でも触れられてるんだけど、「無理して何かを言おうとしなくてもよい。少しの間言葉を失うのも、やむを得ないし、それは失礼ではない」みたいなことをよく言う(その後、「お悔やみ申し上げます」などと言うのかな)。


衝撃度の大きいニュースに触れて、それが訃報だった時には特に、ただ言葉を失ってしまうのはおそらく当然のことだろう。しばらく言葉を失って、しばらくしてからたどたどしく何かを言えばいい。この日記でも、結論めいたところに着地しないまま、今日のところは画面を閉じようかと思う。


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