鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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アンビバレントな気持ちを愛せよ

先日見た写真がなかなかに味わい深くて、何度もその味を反芻している。小5の娘が参加した、移動教室のバーベキューの写真。学校がブログ的に写真とコメントをアップしてくれて、それを保護者は見て子どもたちの活動を確認できる、というものなんだけど、その中の1枚。


子どもたちは、距離を十分に取って、同じ方向を向いて席に着いている。そして、離れたところに炉があって、そこで大人たちが肉や野菜を焼き、子どもたちに配る、というシステムのバーベキューだ。


なんとも、日本のいいところもダメなところも凝縮されたような、奇妙な光景ではないか。どうしてこんな、罰ゲームみたいなバーベキューになってしまったのか。学校が引率をする集団生活で、コロナ対策のガイドラインが当然あるんだろう。それを、バカ正直に守るとどうしてもこの形式になってしまう、みたいな。そして、それを子どもの顔が識別できないようなアングルで収めた写真。


僕はその写真を見て、なんとも言えない迫力にたじろいでしまった。「こんなんだったらやらなければいいのに」と嘲笑してしまいたい気分、脱力感。同時に、「こんなんだとしても、準備してくださった大人たちのおかげじゃないか」と、感謝する気持ちもしみじみと湧いてくる。なんだこの気持ち。なかなか味わったことないぞ。嘲笑と感謝のミルフィーユ仕立てか。


僕は、こういったアンビバレントな気持ちになる時間が好きだ。「相反する感情が同時に存在する」ことを確認すると、それが「人間らしい気分」だと思えるからかな。「好き」と「嫌い」の両立。「アホか」と「感動」が味を引き立て合う絶妙なブレンド。

 

「日本語のラップバトル」の動画をはじめて見た時も似た感じがあった。「オタクが無理に悪ぶってる不自然さ」がどんな人でもちょっとずつ混ざっていて、「これはどっちかと言うとダサくないか」と思いつつ、一方で「頭の回転の速さ」に感嘆する気持ちもありつつ、でもやっぱり直接的な「悪口」や相手を威嚇するような態度にドン引きする瞬間もあって(僕も案外育ちがいいな)、でもそんな悪口で言ってるのは「ここからのし上がる」とか「地元をレペゼン」とか「仲間たち」とかちょっと借りものっぽいサクセスストーリーで、それってダサくないかと思う気持ちも、かわいいなと応援したくなる気持ちも両方あって、引き込まれて見てるうちに、時々「本当に言いたいことを本当に上手い言い回しで言えた」みたいな言葉が生まれてくる瞬間があって、その瞬間を目撃した興奮にずっしりと酔えることがあってクセになる。


これも、いくつもの感情が混ざり合った時間だ。「美味いのか不味いのか分からずに何度も食べてしまう珍味、あるいはジャンクフード」みたいな感じ。


東京オリンピックの開催についても、ずっと複雑な気持ちがあったことを覚えている。「ウチの子どもの部活動は休止させられてんのに、オリンピックはやるのズルくないですか」っていうシンプルな嫉妬がもちろんあって、「というかそもそも、オリンピックなんて嫌いなんだよ。このコロナ禍でも努力を続けられたオリンピアン、パラリンピアンなんて、眩しすぎる。彼らが報われる瞬間なんて直視できない」という、これまたシンプルすぎる嫉妬もあった。


でも、だからこそ嫉妬に引きずられて「中止すべきだ」と思ってしまうのも悔しかった。ロックフェスは中止になっても、帰省は自粛しろと言われても、オリンピックが中止にならないなにかの基準がきっとあるんだろう。その基準を知ってから考えよう(結局僕にはその基準がよく分からなかったけど)、とか、「憎たらしいから中止しろ」じゃなくて、「ウチの子どもの部活動もやらせろ」と思った方がまともなんじゃないか、とかも思った。


もちろん、「誰かの努力が報われるのを見るのが妬ましくて耐えられない」というのは僕の気持ちの全部じゃなくて(もしそれが僕の気持ちを支配してしまったら、僕は生きていけなくなるんじゃないか)、その瞬間を見てじんわりと「よかったな」と思える僕だって一方ではちゃんといるんである。


何でこんなことを思い出しているかと言うと、「アンビバレントな気持ちを持つのってよくあることだし、そのことの面倒くささを愛せた方が生きやすそうだな」という感慨を忘れない方がいいかもな、と思ったから。


「○○なんて、けしからん」「○○こそが、素晴らしい」と思えば、気持ちはシンプルになってその瞬間はスッキリするかもしれない。だけど、「気持ちはいつも矛盾したもの」なんじゃないか。そのことを何度も思い出してる。

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