鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【考察】なぜ字幕には句読点を使わないのか

映画やドラマにつける字幕には、句読点を使わない。映像翻訳の学習では、スクールの最初の授業で習うルールだ。

 

僕自身も、知人に映像翻訳の話をする時に、よくこのルールの話をする。「意識したことはなかったけど、そういえばそうかも」というリアクションをしてくれる人が多くて、話のとっかかりになりやすいから。


「なぜ字幕には句読点を使わないのか」という疑問には、映像翻訳と言う営みの面白さが凝縮されてる気がする。なぜ句読点を使わないのか。端的に言えば、「なるべく目立たせたくない」から、ではなかろうか。そういう願いが込められたルールなんじゃないか。


最高の字幕なんてものがこの世のどこかにあるとしたら、視聴者は「文字を読んでいる」ことを忘れ、「(外国語だから聞き取れないはずの)セリフが聞こえてきて」「(分からないはずの)意味が頭に入ってくる」という状態になると思う。そんな、ガンダーラみたいな、どこかにあるという理想の字幕。


「あまりにも自然に意味がくみ取れるので、文字を読んでいることを忘れてしまう字幕」なんて、一見「無理ゲー」に思えるけど、実際はそこまで絶望的ではない。視聴者は、映像やストーリーに夢中になって、「字幕を読んでるんじゃなくて、セリフを聞いてるんだ」と自分から騙されようとしてくれるものだ。

 

ならば、その勘違いのモーメントを邪魔しないようにすればいい。そのための工夫の1つとして、「句読点を使わない」と捉えれば分かりやすいんじゃないか。句読点が画面にあると、文章を読んでいることを思い出してしまう。ならば、使わなければいい。字幕は、文章である以前に、映像の一部としての演出なんだから。


さて、この考え方は、字幕にまつわる様々なことを判断する上で、ベースにできるように思う。「感嘆符を使うか使わないか」を判断する時に、「どちらが“自然に意味がくみ取れるので、読んでいることを忘れてしまう字幕”に近いか」を考えればいい。疑問符もそう。ダーシも、ルビも、傍点も同じだ。


(そうなると、こういった記号の類は、「使わずに済むのであればできるだけ使わない」というのが基本的な態度になりそう。ところで、僕はニューヨークを「NY」とする字幕は好きじゃない。「NY」をニューヨークと変換するのに視聴者はメモリを消費せざるを得ないから、略した意味がない。「LA」は僕の基準では全然アリ)


斜体にするかどうかの判断も同じ。「心の声」や「場内アナウンス」を、普通のセリフと分けた方が内容が頭に入ってきやすいなら斜体で表せばいいし、あまりに正体と斜体が頻繁に入れ替わって「自然に頭に入ってくる状態」を阻害するようであれば、そもそも斜体にするのをやめるのを検討してみる。


画面情報を拾って字幕に出すかどうかも同じ。画面を通過した自動車のボディに書かれていた文字情報、いちいち拾って「動物管理局」とか字幕で出さなくていい。もしその文字情報を視聴者に伝えたいんなら、画面はフィックスして、数秒はその「文字を読め」と強調するはずだろう。


「なぜ字幕には句読点を使わないのか」、たぶん分かりやすくまとまった資料がどこかにあるんだろうけど、考えを整理したくて、自分なりに言語化してみた。スクールで習ったルール、「そういうものだから」と従うだけでなく、そうなるに至った先人たちのトライ&エラーに思いを馳せてみると楽しいかも、と思い直したところだ。

 

 

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