「外国人に対して差別心は持っていません」と、自分ではそう思ってるし、そう思いたい。でも、ひょっとしたらそれは、自分にも差別心があると気づく場面に、遭遇せずに済んでるだけかもしれない。
例えば、同じ職場に外国人が働いていたとして。僕と同じ待遇、同じ賃金で働いているとして。「仕事の遂行力が同じだとしたら、報酬も同じなのは当然でしょ」と、僕は思えるか。たぶん、思えるはず。だけど、僕よりも後に入社した外国人が、昇進して、僕の上司になったとしたらどうか。正直言うと、「納得いかない」と思ってしまうんじゃないか。
ちょっと経ってみて、「いや、日本人だったとしても、僕は年下の上司をやっかんでるわけであって、外国人差別とはちょっと違うかも」とも言い訳を考えた。
でも、いずれにせよ、「外国人が上司になる」という場面を、僕が今まで考えたことがなかったのは間違いなくて。僕も、かなりヌルい範囲で多様性を捉えていたものである。「外国人であっても、入社できる」なんてことは、平等でもなんでもない。「外国人であっても、管理職になれる」じゃないと、おかしいじゃないか。(そして、外国人のところには、年齢や性別や、「何らかのハンディキャップ」を当てはめて考えてもいい)
どうしてこんなことをメモしているのかと言えば、「あらかじめ想像しておけば、対処できるかも」と思ったから。落ち着いて考えれば、「どんな属性であれ、能力ややる気次第で、それに見合った待遇を得るのに障壁があるのはナンセンス」と思えるわけであって。でもイメトレをしていないと、「今まで無意識に自分が優越を感じてきた相手に、自分の利益を奪われた」みたく感じてしまうと思うから。
「アルバイトスタッフの僕が、管理職になれないのは差別と同じですよね?」と、僕は面談の時に上司に必ず伝えてる。その話はここでは詳しくは書かないけど、要するに差別って「どこかの誰かの問題」ではなく、誰もが当事者になり得る問題、ということ。ある程度運が良ければ、みんな高齢者になる。誰もが感染症に罹患するかもしれない。そう思えば、差別を克服するためのイメトレを、あらかじめしておいた方がいいんじゃないか、と思い出した。