鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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「ブラハラ」っていう言葉を知って考えたこと

職場に貼ってあるポスターのうちの1つに、ハラスメントについての注意喚起みたいなやつがある。パワハラ、セクハラ、マタハラ… 「○○はハラスメントです。困っている方は連絡ください」と、社内と社外の相談窓口の電話番号が書かれてる、というような。


その中に、「ブラハラ」っていう言葉があって。「ブラッドタイプ(血液型)ハラスメント」のことらしい。恥ずかしながら、「ブラハラ」という言葉はよく知らなかった(だから、その言葉を僕が知っただけでも、ポスターは1つ役目を果たしたことになるのかもしれない)。


そのポスターを見た時の僕の反応は、正直に言えば「ブラハラって何なんだ。そんなこと、存在するのか?」という感じだった。確かに、昔は「血液型による性格判断」みたいな話ってよくあったし、今でも好きな人はいるかもしれない。だけど、「ハラスメント」っていうほどなのかな、と。


それでも、ちょっと調べてみて、「なるほど」と思えたこともある。少数派の血液型がネガティブな印象を持たれやすい、という研究(主張)があるらしい(真偽は僕には判断できないけど)。根拠のない「決めつけ」を繰り返し口にされるのであれば、愉快じゃないだろう。「B型は○○だ。だからお前はダメなんだ」と上司に言われたら、それは傷つくだろう。というかそれはパワハラか。「○型だからこういう仕事は向いてるよね」と褒められた場合でも、「血液型は関係ないだろ」って腹が立つかもしれない。


例えば、採用や昇進に関して、特定の血液型が不利だったり有利だったりしたら、それは差別だろう。もしも、それが当たり前な世の中だとしたら、血液型を基準に何かを判断されること自体が不適切で不快なものになる。


例えば、採用面接で。面接官が応募者に血液型を聞いたとする。実際には血液型で合否が左右されることがなかったとしても、応募者が「血液型で何かを判断されるかも」と恐怖を感じるとしたら、そんな質問をされたこと自体が問題かもしれない。(「業務遂行に関係ない質問、雑談」はハラスメントになる危険性があると思った方がいい気がする)


ここまでメモしてきて、なんで「ブラハラ」に興味を持ったかが自分でも何となく分かってきた。「ステレオタイプ的な決めつけ」に対して、ある程度落ち着いて考えられる題材なような気がするからだ。


「人種差別」「性差別」を考えるのは、なかなかに根気のいることだ。現在進行形でそれに苦しみ、傷ついている人が多い以上、慎重に考える必要があるし、個人の尊厳との結びつきも濃密だ。ただ単に「傷ついた」という話ではなく、具体的な不利益、不公平な扱いの歴史があって、それと向き合うのは覚悟が必要だ。


だけど、「血液型に対する偏見」であれば、すでにある程度「無害化」されてるんじゃないか。「血液型に対する偏見」に今も傷つき、苦しんでいる人もいるだろうから、その人たちは僕のこの文章にも傷つくだろう。でも、上の例で僕が想像したみたいに、「人格攻撃に血液型が使われる」とか、「面接で必要もないのに血液型を聞かれる」とかは、血液型に対する偏見自体が問題と言うより、権力の不適切な使用によって、それが有害化した、ような気がする。


何を言いたいか。「血液型への偏見・ステレオタイプな決めつけ」が、どんな場合に有害となり得るのか、を考えれば、それをセクハラやパワハラの「アリ、ナシ」を考える時に応用できないか。


血液型の偏見は僕にもある。「血液型」によって性格が決まるとは思ってないけど、「A型っぽい人間」「B型っぽい人間」みたいなイメージに、自己暗示的に影響されて育った人はある程度いるんじゃないかな、と想像している。


僕の妹は、生まれた直後の診断ではA型と言われていたけど、中学生になって検査したらB型だった(血液型が変わったのではなく、生まれた直後の検査は正確な結果が得られないことがある)。そのことが分かって以来、妹は「几帳面な性格」を自ら辞めたのだ。いちごを食べる時に、それまでは最初にヘタを全部取ってから食べていたのが、「B型」になって以来、適当な順番で食べるようになった。これは、もちろん血液型が変わったから性格が変わったのではなくて、血液型がA型じゃないことが分かったから、「A型っぽい自己イメージ」を妹がやめた、ということ。


それと同じように、きっと「自己暗示」みたいな感じで、自分の性格を「よくある性格診断」に「寄せていった人」というのはある程度いたんじゃないか、と思ってる(そして、それはあんまりよくないことなような気もしてきた)。


僕自身の「血液型への偏見」について、誰かから指摘されても、ムキにならずに受け止められる気がする。性差別については、ちょっと緊張感があがる。「それって偏見ですよ」って言われたときに、反射的に自己弁護をしてしまいそう。そう思うと、ブラハラの歴史と実態について研究するのは意味があることかもしれない。


ステレオタイプ的なものの考え方から逃れるのは難しい。初対面の相手に対して、「まっさらな、プレーンな状態」で接するのはかなり難しい。年齢、性別、職業、服装、出身地、学歴なんかから「この人はこう人なんじゃないかな」と想像しないと、コミュニケーションのとっかかりがない。


ならば大事なのは、「なくすこと」じゃなくて「無害化すること」なんじゃないか。「血液型の性格診断に対する思い込み」は、ナンセンスすぎるのになぜあれほど世の中に受け入れられていたのか。どういう場合に「たわいのない雑談」として許容され、どういう場合に「克服すべきハラスメント」になり得るのか。そんなことを考えるのに、ちょうどいいかもしれない。

 

(長くなりすぎたのでここで1回おわりにします。いつか続きを書くか、もう少し短くまとめ直すかもしれません。人種差別や性差別は現在進行形の問題であって、それなのに「ステレオタイプ的なものの考え方から逃れるのは難しい」なんていうのは能天気すぎるような気もしていますが、もうちょっと考えてみたいです)

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