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2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【日記】TOEIC受けてる場合じゃねえよ①

2022年2月某日 生存確率を上げるための切実な工夫としての日記を始める


「自分の命を維持するためには、最低限度の自己肯定が必要だ」と、よく感じるようになった。20年前には、あまり考えてなかった。すくなくとも、「命にかかわる問題」だとは思ってなかった。自分のことを悩んだり迷ったりしやすいほうだと思ってたけど、自己肯定感は売るほどあった。「俺だったらなんとかなる」と、なんとなく自然にそう思ってた。当時は気づいてなかったけど、振り返るとそう思う。


さて、40代も半ばを過ぎた。「10年前までは自然に湧き出ていた“自己肯定感”、だいぶすり減ってきてるんですけど、このままで大丈夫ですか」と、不安が頭から離れない。自己肯定感のゲージがゼロになると、「命の危険」がある気がする。僕はまだ具体的な自殺願望を持つには至ってないけど、「自殺願望くん」が僕に目をつけて狙ってきてもおかしくないな、という予感ぐらいはある。積極的な自殺願望でなくても、形を変えて、「ゆるやかな自殺願望」というか、いろんな姿をした「自暴自棄」が僕を捕らえる予感が消えない。


“中年の危機”だ。


例えば、僕は自分の年収に不満を持ってる。この不満が、なかなかにエグい迫力で腹の中でグルグルして消えそうにない。どういうことか。「自分には実力があるのに、運が悪いせいで(世の中が悪いせいで)この年収」であろうが、「運も悪くなく(世の中も悪くなく)、この年収は適正」であろうが、どっちでもツラすぎるんである。「運が悪いせいで負けた」のも、「実力がないせいで負けた」のも、受け入れるにはかなりの度量が必要じゃないか。シンプルな話、若いころは「可能性」を信じればたいていの痛みは忘れられる。


例えば、僕は自分の健康に不安を持ってる。3年ぐらい前に虫歯を抜いた(親知らずの最後の1本)。抜いてもらってから、しばらくの間は腫れがひかない。鎮痛剤を飲んでるから痛みはそれほどでもないんだけど、食事はとりにくい。で、「メシが極端に食べにくい5日間」に、「これは老人になった時の予行演習だな」と思った。「普段気づいてなかったけど、ご飯を食べる喜びがなくなると、1日がこんなに味気なくなるのか」みたいなことを思った。そして、それに耐えられるか、自信がなかった。それから、そんな不安が常にあって消えない。これから、どんどん体にガタがくる。それを受け入れられるのか。「楽しさ」が目減りしていく生活で、「上機嫌」を保つことができるのか。


自分に自己肯定感が足りないと、嫉妬深くなる。


お金を持ってそうな奴、自分の能力や判断に自信がありそうな奴、パートナーを性的に満足させてる自信がありそうな奴、楽しそうな奴、若い奴。そんな奴らが妬ましくてたまらない。妬ましいと、そんなことを感じてる自分がみじめになる。自分がみじめになると、誰かからバカにされたり同情されたりしてるんじゃないかと、被害妄想が激しくなる、そうすると、ますます他人が妬ましくなる。


こんなの、間違いなく、生死にかかわる問題じゃないか。

 

どうしたらいいか。ポジティブ・シンキングだ。ポジティブ・シンキングが必要だ。「ポジティブ・シンキング」なんて、影響されやすいバカが自己啓発本で知った薄っぺらい言葉だとバカにしてきた。断じて違う。バカだったのは僕だ。ポジティブ・シンキングは、少しでもサバイバルの可能性を上げるための切実な工夫だ。最低限度の文化的な生活を送るための、実践的な知恵じゃないか。


日記を書こう。気持ちを整理して、少しでもクリアな頭で日々を過ごそう。なりふり構っていられない。


2月某日 TOEIC受けてる場合じゃねえ

この日記のタイトルは、「TOEIC受けてる場合じゃねえよ」にする。安野モヨコのブログ日記(が書籍化された)「日記書いてる場合じゃねえよ」が好きだったんだ。まったくもって、僕はTOEIC受けてる場合じゃない。でも、受けることにした。安野モヨコも、「場合じゃねえ」と言いながら、日記を書いてたんだ。

 

 

(日記の続きはこちらです↓)

【日記】TOEIC受けてる場合じゃねえよ② - 鯖缶@3rd&forever

 

 

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