鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

スポンサーリンク

【日記】マンガばかり読んでるうちに日が暮れる(021*最終回)

2021年8月13日(金)あとがき


「マンガを読む日々」を記録してきたこの日記ですが、なんとなく中断して、再度書き始めることができないまま1ヵ月以上が過ぎてしまった。「やると決めたことをサボってる」という罪悪感もちょっとはあり、そこから自由になるために一応「最終回」を書いておきたい。


僕がこの日記が書けなかったのにはきっかけがあって、それは世にもくだらないきっかけなんだけど。


「ハイキュー!!」を最後まで読み終わったので、その感想を書いた長文(「SLAMDUNK」と比較して、「ハイキュー!!」の長い後日談のよさを反芻したものでした)があったんだけど、それを間違えて保存せずに消してしまったのね。


それで、その翌日にもう一度書こうとして、「もう1回書くほどのことでもないよな」みたいにシラケてしまったんである。いやあ、シラケちゃったらもう書けないよね。


ところで、この前「元演劇人」みたいな人と話してたときに、「今、時間にもお金にも余裕があったとしたら、演劇やりたいか(コロナの状況は考慮に入れないとして)」という仮定に、「いや、やらないでしょ」と僕は即答してしまった。あんなもの、「俺は天才」という莫大な勘違いエネルギーがないとできない所業なわけであって。


それを言うなら、この日記だって本質的には似たようなものである。「僕の文章には読む価値がある」なんていう図々しい思いを持っていないと、アップロードなんてできやしない。


僕としては、日記を続ける精一杯の言い訳として、「これを僕が書くのは、誰かに読んでもらうためなのではなくて、書きながら自分の気づきを定着させたり、恨みつらみを消化したり、自分の心を整えるために書くのだ」「もちろん、どこかの誰かに、思いが届くことがあるかもしれない、という図々しい気持ちはある。でも、それは言わば書くための方便であって、本当に届くかどうかはこの際問題ではない」みたいなことを度々書いてきた気がする。


「ハイキュー!!」の感想、自分の考えをまとめるために一度書いたのはいいとして、その時はアップする前提で書いてたのもいいとして、「一度書いた文章を、誤って消してしまって、それを思い出しながらもう一度書くかどうか」で迷ってテンションがフリーズしてしまい、何も書けないまま1ヵ月が経った、と。


なので、再起動するためにこのマンガ日記はひとまず終了とします。自分としては、「ダラダラと思いついた順番に思いついたことを書く」というスタイルは好きなので、また何らかの形で日記はやると思います。


今年に入って読んだマンガで面白かったもの。思い出して一言ずつコメント加えます。(順不同です)

 

「空挺ドラゴンズ」…想像力が揺るぎなくのびやか。奇をてらってるわけでもなく、特定の層の読者に媚びているわけでもなく、めちゃくちゃ読みやすく「読んだことない世界」を味わえる。


「ゆるキャン△」…恋愛もなく、インターハイもないこの作品世界。趣味を極めるわけでもなく、コレクションをコンプリートしようともしていない。成就されるべきミッションのないストーリーに、どうしてこうも引き込まれてしまうのか。見事。


「ワンピース」…75巻ぐらいから99巻まで読んだ。いやあ、全ページ、全コマ面白かったんじゃないか。(連載でなく)コミックス派の僕には味が濃すぎて、何度も飽きちゃたこのマンガ。でも読み直してみたらやっぱり面白い。「ワンピース」は、ひょっとしたら最も過小評価されてるマンガだと思います、僕は。


「とんかつDJアゲ太郎」…本当に、めちゃくちゃ脱力して読めた。マンガを読むときに、「この程度のギャグで笑ってたまるか」とか、「この程度の展開に感動してたまるか」とか、「読者ナメんな」みたいな気持ちを完全に捨て去るのって難しいと思うんだけど、このマンガはそんな力みを感じずにページをめくれました。アゲ太郎の成長を妬まずに応援できたよ。


「34歳無職さん」…これは、チェーホフですね。舞台上では、ほとんど何も起こらない。でも、目が離せない。舞台で流れている時間の前後に、重大なドラマが起こっていることを、観客は徐々に知っていくからだ。ああ、正気を保って、まともな人間として生きることが、こんなにも難しいとは。染みまくった。


「ハイキュー!!」…最初は作品のサービス精神が、マンガの躍動感を損ねてるかな、と思ってた。試合の得点経過を丁寧に描きすぎる。脇役の設定を細かく説明しすぎる。だけど、途中から躍動感が上回ってくる。そして、「長すぎるエピローグ」が圧巻。脇役たちの「その後」をクソ丁寧に伝えつつ、主人公の日向をしっかり成長させてコートに戻し、影山との対決をオールスター戦で描き… 「サービス精神」に最後まで殉じたじゃねーか、と思って脱帽しました。


「大奥」…痛快なジェンダー論であり、骨太なエンタメでもあり。時代に翻弄されるしかない人間のいじましさがグッとくる。「今読むべき」とか言ったら安っぽくなっちゃうけど。めちゃくちゃ面白い。今読むべき。


8月18日(水)もう1つのあとがき(旅行とオリンピック)

さて、1ヵ月以上も日記を書くのをサボったことには、もう1つ理由がある。コロナについて、自分でもよくわからなくなって、混乱して書けなくなったからだ。なんというか、ちょっと飽和した感じ。


僕は去年の4月から8月ごろまで「スプラトゥーン日記」というのを書いていて、それから「NFL観戦日記2020」「スプラトゥーン日記2021」と、その時々で日記を書き残してきたんだけど。そのなかで、「コロナへの恐怖について、実感をメモしておく」というのを裏テーマにしてきた。


あとから振り返った時に、自分の生活と、世の中の動きとがどんなふうにリンクしているのか(あるいはリンクしていなかったのか)、興味深い資料になるんじゃないか、という気がしていたからなんだけど。


ちょっとずつ思い出してメモしておく。


僕らの家族は、8月のはじめに大阪へ旅行した。緊急事態宣言の「谷間」に旅行の手配をして、USJのチケットを予約した。USJのチケット、めちゃくちゃ難しくて、頭がパニックになった。


入場券とは別に、「人気のライド」に優先的に乗れる(待ち時間をカットできる)「エクスプレスパス」というのがあって、どうやらこれを予約した方がいいらしい。だけど、かなりの値段だ(入場券よりも高い)。僕は、この時点で混乱する。このエクスプレスパス、買ったほうがいいのか、それとも案外買わなくてもいいのか。


「選択肢はストレスになる」という話を聞いたことがある。つまり、自分の選んだものが「失敗」だった時に、後悔することから人は逃れられない(始めから選べなければ後悔することもない)。


このエクスプレスパス、買うべきか、買わざるべきか。というかそもそも、「USJに行く」というプラン自体が「ひょうたんから駒」だったんだ。


当初は、妻が「四国の劇場に行きたい」というのが発端だった。「僕は別に行きたくないんだけど、どうしても行きたいという場所があるなら、その気持ちは大事にした方がいい」みたいなリアクションをして、要するに「1人で行ってきたら?」と促してみたんだけど、「子どもも連れて行きたい」らしい。わかった、それなら子ども2人を妻1人で見るのは大変だし、僕も行くことにしよう。ただ、家族4人となるとなかなかの出費になるよね。せっかくなら、その劇場以外にもどこか行った方がいいんじゃない、という話の流れ。


それで、USJが候補としてあがった。シンプルに、子どもが喜びそうな場所として、最初に候補にあがったというだけで、もっと探せば他にもいいアクティビティはあるのかもしれない。キャンプとか、川遊びとか、サイクリングとか。だけど、そういう情操教育上よさそうなアクティビティは、なんか事前準備が必要そうだ。その事前準備をする自信がない。もっと、「楽に」子どもを喜ばせたい。


そうすると、USJにめちゃくちゃ行きたいような気がしてきた。一生行かなくてもいいや、と思ってたけど、必ず行かなくてはいけないような気になってきた。妻も似たような気持ちになったらしい。「調べてみたんだけど、四国とUSJと両方行くのは時間的にも予算的にもムリだから、もうUSJだけでいい」と。本末転倒とはこのこと。関西方面に行かないのだったら、もはやUSJじゃなくてディズニーでいいんだけど、考えるのが面倒になってる。


さて、それでチケット予約を調べることになった。この時点で、「USJに子どもを連れて行きさえすれば、自動的に子どもが喜ぶ」という謎の信仰心だけが先走り、USJについての知識は限りなくゼロに近い。そんな僕にとって、「エクスプレスパス」は難しすぎた。


どういうことか。この優先パスにはランクが松竹梅とあって、「全アトラクション待ち時間ゼロ」のスーパーVIP券と、「人気7ライドで優先」、「人気4ライド優先」がある。僕はとりあえず「4ライド優先」の梅ランクを選択。ここまではいい、だけど、この時点で僕の頭は崩壊する。この梅ランク券、種類が100種類ぐらいある(たぶん。ちゃんと確かめてません)。「どの4つを選ぶのか」と、「そのうち、時間指定のある予約をどの順番で組むのか」と。こうなるともうわけが分からない。


どのライドに乗りたいか、どころか、ライドなんて1つも知らないんである。どんな順番で乗るのが「優先権の行使」のコスパがいいのか、分かるわけがない。というかそもそも、「入場券のみ」でも実は大丈夫なんじゃないか、という選択もある。パニックである。


さて、結局、「身長制限があって乗れないライドがあるらしい」というのでちょっとだけ選択肢を狭めて、あとは適当に上の方に出ていたやつを購入することにした。もう、「何を買ったらいいのか分からない」というストレスから逃れるには、「この購入という行為を終わらせるしかない」みたいな、精神状態に追い込まれた。ああ、こうやって人々はツボや絵を買っていくのかな、とか思う。

 

(ところで、息子の「謎の咳症状」は、7月に入ったぐらいで完全に収まりました。もしこの日記を続けて読んでくれて、心配してくれた方がいたら、と思って書き添えます。めちゃくちゃ幸運なことに、家族は健康です)


ちょっとオリンピックの件に話題を変える。


この日記では過去に何度かオリンピック開催の是非についてだらしない感想を書いていて、ちょっと重なる部分とか、過去の思いとは矛盾する部分とかあるんだろうけど、また思い出しながら。


そもそも僕は、オリンピックなんて好きじゃない。端的に言って「ナショナリズム」が気に食わないし、「お祭り」が嫌いなんだ。そして、アスリート、オリンピアン、パラリンピアンへの嫉妬もあった。こんなコロナ禍で、ストレスやプレッシャーにめげずに努力を続けるなんて、人として眩しすぎて見ていられない。自分のことがみじめになる。


「ちくしょう、奴らばっかり、努力が認められる場所を与えられやがって」みたいなことをつい思ってしまう。本当は、アスリートだってかなりできることが制限されているんだろうに、自分だって工夫すれば努力できることなんていくらでも見つけられるだろうに、この「嫉妬」という感情は油断するとすぐに出てきて、簡単に膨らんでしまう。


で、僕には「オリンピックなんて嫌いだ」という「そもそも」の思いがあるから、逆に「このパンデミックのさなかにオリンピックなんて許せない」っていう考えにはなかなかいけなかった。「コロナ」という状況を使えば、誰も反論できなくなる。「正義を振りかざして嫌いな奴らを攻撃する」という精神性の方が、オリンピックより27倍ぐらい嫌いなんだ。


コロナの世の中になってから、いろんなものが攻撃の対象になってきた。休業要請に従わないパチンコ店、ゴルフに行く芸能人、ホストがやる演劇、老人、若者、政治家の会食、旅行。まさか「帰省」までが槍玉に上がるとは、ちょっと想像を絶する世界だ。


「ハロウィンでリア充が楽しそうにしてること」自体がそもそも嫌いだった人が、「このコロナ禍に人が集まるなんてけしからん」と、「コロナ」を振りかざしたんじゃないか(この「ハロウィン」には、誰かが嫌いなものが何でも当てはまる。甲子園、でも。ライブハウス、でも)。


これ、僕が記憶してる限りで最初に「ちょっとどうかな」と思ったのは、最初の「緊急事態宣言」の出る前後に、「サーフィンなんてけしからん」という話が出た時だと思う。「サーフィンは別にいいんじゃね?」と思わずのけぞった。


「無症状でも感染してる人がサーフィンをしていて、もしケガをしたら、救急隊員に感染させるかもしれない」というifを二重にした話とか。「感染でなくても、ケガをしたら医療のリソースを逼迫させる」という、それってサーフィンに限らず何にでもあてはまるでしょっていう話とか。


僕は改めて思うけど、あの言説はサーファーに嫉妬してただけなんじゃないか、と思う。つまり、「楽しそうにしてる奴がいたら、おまじないの効果が台なしになるじゃないか」みたいなレベルの話。


「好き嫌い」とか「雰囲気」とかの要素は意思決定から除外すべきだと思うんだけど、ずっと「好き嫌い」や「雰囲気」の話ばかりで、ちょっとウンザリし続けてる。


さて、世の中のことはちょっとおいておくとして、僕としてはオリンピックが好きじゃないからこそ、「オリンピックなんてけしからん」ということは言いたくないな、という気持ちでいた。


でも、じゃあ本当にオリンピックを開催していいのか。少なくとも、医療の側が「勘弁してくれ」って言ってる声を無視するのは違うんじゃないか。そこの部分のコンセンサスをサボってしまったら、さすがにダメなんじゃないか。このオリンピック開催までの流れは、「意思決定の基準や経緯が分からなくてもやもやする」「プランB、プランCの準備がなくて後手後手で混乱が膨らむ」みたいな、「コロナ禍でのこの国のていたらく」の象徴みたいだった。


それよりも、僕は自分の中で「開催すべきだ」「中止すべきだ」を決められずにいたことが正直言ってストレスだった。「開催すべきだと僕が思っていて、実際には中止になった」「中止すべきと思っていたのに開催された」なら「やれやれ」でいいんだけど、自分でも整理がつかなくて、それがイヤだった(結局僕も「雰囲気」と「好き嫌い」の話しかしてないじゃないか。申し訳ない)。


さて、そんなすっきりしない頭の中で、僕は開会式を見た。開会式なんて見るつもりなかったんだけど、娘が見たいと言ってきたので(たぶん、学校で先生に言われたんだろう。観戦がなくなって、「オリンピックを体験する」という機会がキャンセルされたので、せめても、というような話)、一緒にテレビで見たんだ。


見ながら、娘にボソボソといろんな話をする。国には国旗があること。国旗なんて、ただの布切れなんだけど、だからこそリスペクトしないと意味がない、みたいなこと。国を大切にすることって、じゃあどういうことなのか、形に示すのは難しい。何が大切にすることなのか分からない。でも、国旗を丁寧に扱うことはできる。それが「シンボル」っていうこと。


いろんなスポーツがある。スポーツができるってどういうことか。お互いがルールを知っていて、相手を認めていて、それで相手に勝ちたいと真剣に思うこと。そうじゃなくちゃスポーツは成り立たないでしょ。あと、平和なこと。国同士が嫌いあって、殺し合ってたら、スポーツなんてできないよね。サッカーのキックの練習じゃなくて、戦車の練習をしろ、ってなっちゃう。


だから、みんなを代表して、スポーツで勝ち負けを競い合うのは、これも「シンボル」だよね。平和なこと、お互いをリスペクトしてることを、形に表す、というか。


でも、ひょっとしたら、本当に世の中が平和で、平和が一番大事、ってみんなが信じてたとしたら、それをわざわざ「平和の祭典」で確かめなくてもよくない? オリンピックは確かに素晴らしいけど、本当に素晴らしいのは、オリンピックが必要のない世界なんじゃない?


オリンピックを中止にした方がいい、って考える人もたくさんいる。ロックフェスは中止になったのに、オリンピックだけズルい、って思っちゃうのも当たり前だよね。だけど、「一部の人だけズルいからやめて」って言い始めたら、何でも中止になっちゃうよね。じゃあ、何を基準にして、それを誰が決断して、誰がチェックするのか。その「決める過程」みたいなことが大事なんだと思うんだけど、それがうまくいってないのが問題なんじゃないかな。


そんなような話を、開会式を見ながら娘に聞いてもらう。娘がどう思ったかは知らないけど、僕が真剣に話してることは伝わった感じがする。


で、オーケストラの音合わせの動きと、アスリートの動きがシンクロする演出のシーン(「結局ナイキのCMじゃねーか」っていう)、僕はまんまと感動してしまうんである。


今まで一生懸命練習してきた人が、だからこそめちゃくちゃ緊張して、その緊張ごと、「やってやるぞ」と自分を奮い立たせる表情。それが僕は大好きなんだ。


そのあとで各国の選手団が入場してきて、その表情もよかった。「楽しんでる。楽しもうと思う」ということを表に出すことだって、感謝を表すこと1つの形だ。


結局、選手入場の最初の頃の数カ国を見てから、僕らはテレビを消して寝たんだけど(早寝なんです)、次の日起きてから。僕は前の日の感動を思い出して、「ああ、僕は今、感動しやすい精神状態にいるな」とか思った。USJのチケットを買うときに、「注文確定をクリックして、さっさとこの選択肢の地獄から解放されたい」と思ったのに似て、「オリンピックをどう思えばいいのかわからなくて混乱する」っていう精神状態から早く自由になりたい、という前提がある。


ちょっと思ったのは、コロナに罹った当事者、コロナを診る医療従事者、現場の人の「表情」を見てないな、ということ。苦渋の決断を迫られる飲食店の人の表情、保育園で、老人ホームで、緊張をしながら働く人々の表情。あるいは、そんな中にも笑顔は混じってるのかもしれない。そんな表情を見てないな。ひょっとしたら、僕が目を塞いで見ようとしてないだけかもしれないけど。


旅行の話に戻る。一度解除されていた緊急事態宣言が発令されて、僕は「旅行の予約はやっぱりキャンセルしないといけないのでは」と少しは思った。「不要不急の外出は避けてください」「県をまたぐ移動はしないでください」なんである。


実際に、ゴールデンウィークの時は、霞ヶ浦への旅行をキャンセルした。僕はちょっと経ってから、「キャンセルの判断をした自分」をちょっと冷めた目で見てた記憶がある。


ゴールデンウィーク、2泊3日の旅行はしなかったけど、娘はその期間毎日友達と誘い合って公園で遊んでるのである。小4であれば、買い食いなんて全然できる。お菓子を買ったり、親からもらったりして、友達同士で交換したりしてる。「マスクをしてね。暑くてマスク外す時はおしゃべりなしね」みたいな話をして、子どもは案外そういった言いつけはよく守るけど、結局のところ管理はできない。


この時、僕は「旅行に行った方が、感染リスク低いじゃん」とか思って苦笑した。マイカーでの移動で、予定していたのはアスレチックとサイクリングの屋外活動で、ディスタンスも保てそう。


旅行がNGと判断するなら、娘が友達と遊ぶのもNGなんじゃね? でも、「友達が誘いに来ても、断りなさい」とは僕には言えないな(言うべきなのかもしれないけど)。子どもが友達と遊ぶのは、不要不急じゃなくて、必要不可欠でしょ。じゃあ、娘が友達と遊ぶのがOKなら、旅行だってOKなんじゃね、みたいなことを考えた。


なんでキャンセルしたのか。「正しい側」にいたかった、「いい人」でいたかった、みたいなことかもしれない。「このパンデミックの中、飲み会に行くのってどうなのよ」とか、誰かを攻撃したい。「恣意的に思える基準で緊急事態宣言みたいなカード使って、同調圧力便りで自粛を訴えるって何なんだよ」とか、緊急事態宣言を無視しちゃったら、宣言の内容に文句が言えないじゃないか。(実際には、攻撃したり文句を言ったりする機会なんてないんだけど)


それで、僕は「ゴールデンウィークに旅行をキャンセルしたこと」について、自分でも微妙な気持ちでいたんである。僕が「正しい側にいたい」っていうエゴのために、子どもに新しい体験をさせる機会を奪ってしまった、と。


だから、そもそもゴールデンウィークの時の旅行キャンセルの時点で、「行かないvs行く」は僕の気持ちのなかで「49:51」だった。なんの話をしているか。夏の旅行の時に、「オリンピックだってやってるんだから、なんで旅行を我慢しなくちゃいけないんだ」という気持ちが確かにあった、というカミングアウトだ。


でも、上のたとえで言えば「オリンピック効果」は「100分の2」である。旅行に行ったのは僕らの判断であって、エゴであって、オリンピックのせいじゃない。


…かなり話が長くなって、正直自分でも飽きてしまったのでここら辺で「あとがき」も終わりに向かいたい。僕は、ここまで書いてきたような「迷い」とかが色々あって、その都度何らかの判断をして、その判断にもクヨクヨと迷って、ここに書いたような壮大な言い訳をグルグルとさせてたんだな、と。


僕は結局、「緊急事態宣言下での旅行」について、「文句あるか」と開き直るつもりもないし、「間違ったことをした」と謝るつもりもなくて、ただなんとなく「後ろめたい」と思いながら日々を過ごしてる。だけど、「行きたくても我慢してる人」は今も現実にいるんだろうから、「家族旅行に行きました」みたいなことは、ツイートもしなかったし、会社の同僚にも話さなかった。その過程で、この日記もちょっと止まってしまったんである。いやあ、ここまで壮大にオチがない、とは。トホホホホ…


いったんここで「おしまい」にします。また近いうちに何らかのタイトルで日記は書き始めると思います。

 

(1つ前の日記はこちらです↓)

www.savacan3rd.com

 

(最初から読みたい方はこちらからどうぞ↓)

www.savacan3rd.com

 

 

 

スポンサーリンク