鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【日記】マンガばかり読んでるうちに日が暮れる(018)

2021年6月24日(木)「やついフェス」で泣いた話

翻訳仕事で締め切りのプレッシャーがやんわりとかかり、「やってもやらなくてもいい」「楽しいわけでもない」タスクであるこの日記をサボってた。翻訳仕事がハケたので、ちょっと思い出しながら先週のことを書いてるところ。


土曜、日曜で「やついフェス」をニコ生でチラ見した。「やついフェス」は、エレキコミックのやついさんがオーガナイズする音楽と笑いのフェスで、オンラインでも見ることができる。


僕は毎週深夜ラジオの「エレ片」を楽しみにしていて、そのラジオで話題になるだろうから、「話題に乗り遅れたくない」という不純な動機で見た。まあ、「不純」とはちょっと違うかもしれないんだけど、「すっと楽しみに待ってた」「絶対見逃せない」というテンションとはちょっと違う、ということ。見たことがないから、どういう期待感を持ったらいいのかよく分かってない。


それで、見て、僕は感動して泣いてしまったのである。感動、というと陳腐になっちゃう気がするんだけど、思い出しながらメモしておきたい。


僕が見ようと思ってたのは片桐仁さんが相方を変えて10組ユニットをつくり、コントを披露する「キングオブコント決勝への道0回戦」という企画。ここで優勝したユニットは、実際に1回戦にエントリーするらしい。


そして、その企画の少し前に、視聴方法を確認して、実際に見られるか確認するために、他のライブもちょっと見てみた。検索して、フェスの公式のホームページに行く。なるほど、渋谷のライブハウスで、会場がいくつかあるのか。ライブ参戦の人は、自分の好きなバンドやお笑いユニットを狙って回遊して、ネット観戦の人は、テレビをザッピングするように見ることができる、と。理解。


翻訳仕事をやりながら、その途中のサボりとしてチラ見する。流れ星がネタをやってるぞ。と、ちょっとしてからやや違和感。あれ? あんまり、ウケてない…? と、そう思ってすこし時間差で、「そうか、観客も、そんなに声を出さないように気をつけてるのか」と気づく。


コロナ禍のライブがどんな様子なのか、見たことなかったし、あまり想像したことなかった。「チケットを取って、わざわざ現地に出向いた」人は、基本的には応援する心情で観るだろう。もちろん、流れ星のファンだってその場にはいただろう。


観客の人数制限(つまり客席でのディスタンス)はガイドラインを守ってるだろうし、全員マスクをしているだろう。笑ってもいい、と思っていても、「声を出すことを我慢すること」がクセになってる。なんと、切ない光景か。僕は、舞台にいる流れ星の2人と、現地にいる観客を思ってちょっと祈るような気持ちになってしまう。


その後、別のライブを見る。トゥインクルコーポレーション(エレキコミックや片桐さんの事務所)の若手たちが登場するやつ。これは、そもそもあんまり面白くなくてウケてない。これも祈るような気持ちになる(ならないか)。


僕は一度ブラウザを閉じて仕事を進めて、今度は歌の企画を見る。どういうことかよく分からないんだけど、松本伊代がセンチメンタルジャーニーを歌ってる。これが、驚くことに、「かわいい」んである。まるで40年前(!)と同じような「初々しさ」。審査員(歌合戦、というフォーマットらしい)のいとうせいこうが、「サインをもらったことがある」とニヤけた顔を隠せずに話して、なんとも不条理だけど、とてもいい雰囲気。


その後、このフェス自体のテーマソング(?)を、やついさんともう1人のヴォーカリスト(Sundayカミデさん。カッコいいオタクみたいな雰囲気の男性)が歌うんだけど、この歌がいい歌で。歌詞は全部が聞き取れるわけじゃないけど「うまくいかないことがあっても、それはそれでへっちゃら」みたいな歌。


僕は、その歌を聴いて泣いたよ。なんというか、「粋」な歌なんだ。「怖がらないで、笑いなよ」って、あっけらかんと伝えてくる。「頑張れ」とか「ツラいけどもう少し我慢」とか直接的な言葉じゃなくて、「言いたいこと言ってるだけ」みたいな雰囲気で、のんびりと励ましてくれるような、優しい歌なんだ。5分前までは、まったく感動する心の準備もしてなくて、それでも泣いた。あるいは、心の準備をしてなかったから、警戒心もなかったのかも。


「仕事の合間に」、「冷やかすようなテンションで」見てたのに、「ああ、僕はやっぱりこのコロナ禍がツラいと思っていて、緊張していて、でもツラいとか言っちゃいけない気がして、心をフリーズさせていたんだ。でも本当は寂しいし、怖い。だけど、寂しいって思う心があるのは、誰かとその気持ちを分かち合いたいと思うことなのかも。その寂しさは、幸せのもとになることかもしれない」みたいな感情が心と脳を巡って、「励ましてくれてありがとう」みたいな気持ちで泣けたんだと思う。


その流れで、「キングオブコント決勝への道0回戦」を見たものだから、僕はやっぱり感動してしまって。なんというサービス精神。勇気、漢気かと(まあ、コントに対して「感動した」と言われてもうれしくないかもしれないけど)。


6月25日(金)「フレデリック」を思い出す。

昨日の話の続き。僕は、やついフェスを見ながら、「コロナ禍でのフェス」になんというか、わりと安直に感動してしまって。


思えば、去年のNBAファイナルとか、NFLはレギュラーシーズンからスーパーボウルまで追いかけて、「例年のようにはいかない祝祭」みたいなのはネットを通じて追いかけていたけど、僕にとってNFLやNBAはパラレルワールドというか、フィクションに近いもので、あんまり同じユニバースにいる実感はないものなんだけど、「やついフェス」はもっと「地続き」な実感がある(なにせ渋谷だ)。


レオ・レオニの絵本「フレデリック」を思い出す。野ねずみたちが冬の支度をしている(木の実とか食料を集めてる)のに、一匹サボってるネズミがいる。それがフレデリックだ。


仲間たちは、働いてない彼にちょっとムカついてる。でもフレデリックは、ひょうひょうとしている。食料ではなくて、「ひかり」や「いろ」や「ことば」を集めてるらしい。


冬になって、ネズミたちが春を待って凍えて寂しい時、フレデリックは集めた「ことば」を使って、春や世界への期待を仲間に思い出させるような「詩」を披露するのだ。ねずみたちは、「春を待つには、食料や寒さから身を守る藁も必要だけど、勇気だって必要なんだ」とフレデリックに感謝する。


(うろ覚えなので細部は違うかもしれないです。Amazonのリンク貼っておきます↓)

 


やついさんは、フレデリックだ。ひょうひょうとして、「ひかり」や、「いろ」をずっと集めていてくれた。このコロナ禍で凍えた心に「詩」を届けてくれた。他のアーティスト、お笑い芸人も、みんなフレデリックだ。


「このコロナ禍に、アートなんてやってる場合じゃない」みたいな考えに、僕もちょっと傾いてた気がする。不安だから、攻撃的になるのだ。「音楽なんてやってる場合じゃない」と、どうしてもそう思ってしまう。


だけど、そんな風に思うと、僕の中で確実に何かの感情が死んでしまう気がする。心がカチコチに閉じられて、自分の中から、希望やユーモアが逃げていってしまう。僕は、「やついフェス」に触れて、ちょっと心が軽くなった。歌に涙するまで、自分の心がこんなにも緊張していたか、と気づいてなかった。でも、気づけた。


もちろん、「詩」があっても、「食料」が足りなければ、ねずみたちは春を迎えずに死んでしまうだろう。フレデリックにも、食料を集めてもらったほうがよかった、ということになるのかもしれない。


「オリンピックなんてとんでもない」「許せない」「あり得ない」という言葉が、ツイッターで流れてくる。僕の中にも、その気持ちは何パーセントかは確かにある。


開催の是非はとりあえずおいておいて、「攻撃的な言葉に自分の気分が吸い寄せられてしまうこと」が僕はすごく気になってる。本当は、許せる気持ち、許せない気持ちの両方があるはずなのに、「攻撃的」な方に無意識で傾いてしまう。


パンデミックも確かに心配だけど、「ヘイト」が瞬時に伝わって集まって、自分もそれに気づかずに加担してしまうことも、やっぱり心配だな、などと思ったりした。


世の中にも、僕の中にも、フレデリックを住まわせておきたいな、という感慨を、ひとまずの着地点にしておきます。


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