ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!「最近」と言っても、もはや半年以上前のツイートをほじくり出して語り直しているわけで、我ながら悠長な話です。
今回はこんな感じ…
捨てられない1000枚の写真
机の足元のプラスチックの箱に、1000枚ぐらいの写真がある。「長すぎる思春期の終わりの始まり(27歳ぐらい)」の頃、親友のヘタレ童貞美少年と2人だけで自主映画を撮ろうと1年半ぐらいもがいた時に撮った写真だ。捨てる前にもう一度だけ見ようと思って、見る勇気が出ないまま2年ぐらい経つ。
— 鯖缶 (@savacanmemo) October 10, 2019
これは、去年の10月のツイート。まあ大変恥ずかしい話なんだけど、その後この写真は捨ててない。妻が勝手に捨ててしまったかもしれないんだけど、怖くて確かめてない。写真とか、手紙とか、日記とかって誰かが勝手に捨てていいものではないと思うんだけど、もし本当に捨ててたとしたら、正直ちょっとありがたいような気持ちもあったりして、自分でもどう捉えたらよいものかよく分からない。
「自主映画を撮った自分」は確かにいて、人生の中でも最高の思い出、というか、「美しい記憶」とはちょっと違うんだけど、少なくとも濃密で、あの体験は「ガラクタだけど宝物」ではある。じゃあその間に撮った写真は大事か、と言えばよく分からない。全部捨ててもいい気がする。一応、元のデータのCDはどこかにある。でもそれも、正直言ってあんまりもう開きたくない。
1000枚の写真(というか、現像したのが1000枚であって、撮ったのはたぶん3万枚ぐらいなんじゃないか)、捨てる前にもう一度自分で見てから捨てたいんだけど、「あの頃のダメな自分」は今でも全然地続きで「今のダメな自分」につながっていて、まだ生々しさが新鮮過ぎて見られない。
というか、あの時撮った150本ぐらいのテープ、いつか捨てるんだろうか。全部見直して、記憶をたどりながらそれを小説にまとめようか。それを老後の楽しみにしようか。
なんだこれ。どうでもいいこと思い出しちゃったよ。自分のツイート時々さかのぼってエッセイブログのネタにするこの遊び、面白いな。
読まず嫌いを威張るなよ
昔劇団の仲間が、あるマンガ家について「絵が嫌いだから読めない」とか言って、その時は好みだからしょうがないと思って。でも帰宅後に腹が立ち、「俺は! 最初は絵が好きじゃなかったマンガが、読んでたら好きになった体験、何度もある! そんな体験がなくて芝居できんのかよ!」と空に叫んだ。
— 鯖缶 (@savacanmemo) October 18, 2019
これは、今でも時々思い出す。人の読書センスを隙あらば見下そうとしてくる劇団メンバーのNがいて、僕が村上春樹を好きだというとバカにしてくる。じゃあ、自分は何が好きかと聞けば、安部公房だとか答える。安部公房っていうのは、もはや答えとして"安牌"なんだよ。なんか頭良さそうで、文学スノッブぽさも露骨じゃなくて、バカにされにくい感じ? しかも、なんなら僕のほうが安部公房読んでるからね、言っとくけど。
まあ、いい。なんかの打ち合わせをしてる時に、古谷実の「行け! 稲中卓球部」の話になった。するとNが、「絵が嫌いだから読めない」みたいなことを言ったんだよね。俺さ、なんであの時、「絵が嫌いだから読めない、なんて、役者ならそんなこと言うなよ」と即座に言ってやらなかったんだ、って、帰りに腹が立ってきて、もう10年ぐらいずっと、時々思い出してはムカついてる。
自分の好みでないものは読まないでいいのか? しかも、古谷実だよ? もはや好き嫌いの問題じゃないじゃん。「古谷実が読めない私は趣味がいい」なんて、ちょっとサブカル好きの文脈を理解してたら絶対出てこない考えでしょ。まあ、それはいいよ。いろんな考えがあるだろう。古谷実を重視しない立場のマンガ読みがいたってもちろんいい。でもね、「好みから外れるのは読めない」というのは恥ずかしいことなんだよ。「好みじゃないと思ってたものが好きになった経験がない」のは、端的に言えば勉強不足なんだよ。
すまん、N。君が、読まず嫌いと思われたくなくて、好きでもない村上春樹や村上龍を読んでたのも知ってるし、僕があの時指摘すれば、君はちゃんと議論してくれただろう。だから、僕がムカついているのは君に対してではなくて、咄嗟に何も言えなかった自分に対してなんだ。僕が勝手に作り出した「読まず嫌いをしてるだけのクセして、よく知らないジャンルのものをバカにしてる奴ら」という藁人形に釘を打ってるだけなんだ。
僕は正直言って「泣けるエロゲー」も「TikTok」も「ヒカキン」もよく知りもせずに内心バカにしてるけど、その「バカにしてる」という心理状態は、「泣けるエロゲーも知らないなんてバカ」 と思われたくなくて、自己防衛の過剰反応としてバカにしてるだけであって、「どうせくだらないでしょ」というのは相当ダサいと思ってる。やってみたら、絶対に面白いよ。そのくらいのことは分かる。
ちょっとだけサイコパス
ツイッターとか眺めていると、「ちょっとぐらいサイコパスな方が、生きやすいのかも」とか思う。感情移入のスイッチを切れたり、自然とミュートにできたりすると楽。それが苦手な人のことを責めるのは違うけど、自分の中でサイコパスをうまく飼える人は、広い意味で社会貢献してると言ってもいい。
— 鯖缶 (@savacanmemo) October 18, 2019
あんまり正確な意味で使ってないかもしれないんだけど、ここでいうサイコパスは、「他人への共感が乏しい」「善悪の判断ができないというよりは、善悪の判断に興味がない」みたいな人、その性質について言ってるつもり。
コールセンターで20年以上働いていて、ベテランのバイトの同僚たちを見ると、ちょっとサイコパスっぽいところがあるような気がする。ストレスフルになりそうな仕事で、「あんまりストレスを感じないように」とか「ストレスを解消できるように」とかを気をつけてそうする、というより、もとからそれほどストレスと思ってない人が結局長続きする。
例えば、クレーム対応をするときに、感情的に怒鳴ってる人がいるとして、その感情への共感をしようとすると、オペレーターはぶっ壊れる。オペレーターを繰り返し叱責して怒鳴りつけるような人の感情を、真正面から受け止めようとすると、オペレーター側の感情を出すことは禁じられてる(「僕に対してそんなに怒鳴りつけるなんておかしくないですか?」とか言えない)以上、オペレーターの感情は混乱してしまう。
かと言って、完全にスイッチを切ってしまうとクレームはエスカレートしてしまう(話が通じないほど腹の立つことはない)ので、「誰が、何に対して、どのように怒っているのか」は理解して、理解してることをなるべく相手を刺激しないようにアピールする必要はある。どうするかと言うと、相手の感情に対して冷淡になって、その感情の解決への興味を持たないぐらいが実はちょうどいい。その方が、人の話が聞こえてくる。
まあ、そう思うとオペレーター稼業が「感情労働」(肉体や頭脳を使うのではなく、感情を疲れさせることで報酬を得る)と呼ばれるのはなんとなくよくわかる気がする。
というか、もはや「感情」とかって。どちらかというと「邪魔なもの」というような場面がほとんどなような気がする。その、「ままならなさ」が人生の面白いところ、と言うしかないんだろうけど。
その他のツイート
今、急に思い立って反復横跳びをやってみたんですけど、絶望的に遅くてビビリました。そして、反復横跳びが遅くても特に困らないな、と思って、絶望しませんでした。
— 鯖缶 (@savacanmemo) September 15, 2019
「春と修羅」は、酒に酔って読むとわかりやすい。宮沢賢治だからって、教科書だと思わなくていい、みたいなことを言ってたら、「鯖缶さん、ちょっとウザいですよ」と忠告してくれた後輩。急に思い出した。懐かしいな。酒も飲んでないし、詩も読んでない。友達にも会ってない。
— 鯖缶 (@savacanmemo) September 17, 2019
5月の連休に、遊びに来た甥っ子(小3男子)が「俺、しりとり強いんだよ」と言う。僕(脚本家志望のなれのはて)は、語彙で子どもに負けないでしょ、と思ったけど完敗。甥っ子は、ありとあらゆる恐竜の名前を知っており、何を言っても「す」で返ってきた。ティラノサウルス。トリケラトプス。
— 鯖缶 (@savacanmemo) September 18, 2019
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