「牛を虐待しないで」というのに対して、僕は違和感を覚えるけど、「虐待してない。愛とリスペクトで育ててる」というのにも同じぐらい違和感。「虐待」とか「愛」とかどうやって決めるの?
— 鯖缶 (@savacanmemo) July 7, 2019
実際に牛に接してる人が何らかの思いを伝えるならともかく、そうでない人が「愛」というのも変じゃない?
僕にとっては、猫カフェで猫がいろんな人に撫でられてるのは「愛」よりは「虐待」に近い思うけど、猫の気持ちは分からないからそれを主張はしない。
— 鯖缶 (@savacanmemo) July 7, 2019
鯖缶に詰められるサバが、リスペクトを持って処理されたか、残虐に処理されたか、知らないし、そもそも興味を持てない。
食べられる動物の気持ちを想像してしまう人は相当ツラいだろう。その気持ちは、想像を絶する苦しさだろう。でも、申し訳ないけど僕には動物の気持ちは想像できない。
— 鯖缶 (@savacanmemo) July 7, 2019
「牛がかわいそう」に対して、「かわいそうって言うなよ」とか「かわいそうじゃねーよ」っていうんじゃなくて、「かわいそうって言われても興味ねーよ」が僕としては一番近いんだけど、拒否したり茶化したりはしたくなくて、「共感できないことを前提にした方が、まだ話が通じるかも」とか思ってる。
— 鯖缶 (@savacanmemo) July 7, 2019
これは去年の7月の投稿で、何でこんなことをツイッターで書いてたのか、ツイッターをやってない人には唐突感がありそうなので簡単に振り返ってみる。
ツイッターの中では、「ヴィーガン叩き」のツイートがしばしばバズる。僕は、この「アンチヴィーガン」の意見にはウンザリしてる。ヴィーガン、と言うだけで目の敵にして、その一部の人が言った意見(というか感想)に少しでもウソや間違いがあったらさらし者にして、「これだからヴィーガンは」と主語を大きくしながら厳しく指摘し、同じアンチヴィーガンの人がすごい勢いで集まってきて袋叩きにする。その構図の何と面白みのないこと。人間の安易な攻撃性を、裏ごしして、煮詰めて、熟成させたようなスーパークソフードかよ、とかよく思ってる。
ヴィーガンを極端に嫌う人がいるのはまだ我慢できるんだけど、「ヴィーガンの悪口言うと盛り上がる」みたいな雰囲気と、その雰囲気に便乗して「ついでだから言っとくか」みたいに言われる悪口にはガッカリだ。しかもその数のなんと多いことよ。
去年、上のようなツイートを投稿した少し前には、「乳牛は虐待されているから、牛乳じゃなくて豆乳を飲みましょう」という主張のマンガが炎上していた。そのマンガでは、乳牛は「コンクリート床の畳一枚ほどのスペース」で「繋がれて」おり、「カラスにつつかれ」、「酪農家に素手で殴られ」ている。それに対し、「(牛がかわいそうだからって)ウソをつくな」「酪農家への名誉毀損」というツッコミ(というか嘲笑)が集まったということ。
※「アニマルライツセンター」という団体が出した投稿のようです。(ツイッターまとめのリンクです↓)
アニマルライツセンターが公開したマンガ「牛乳のひみつ」に従業員が乳牛を殴る描写を中心にツッコミ殺到 - Togetter
※「動物愛護」に強い思い入れがあり、動物の権利(アニマルライツ)を守ろうとする立場の人、またそれを過激に要求し主張する人は、ヴィーガン(肉や魚を食べない菜食主義の中で、それに加え卵、乳製品、はちみつも避ける)のごく一部であり、それは区別すべきだ、という別のツイートも随分拡散されました。それもリンクを貼っておきます↓)
”ヴィーガン”について誤解されていることを図でわかりやすく説明→「そうだったのか」「ヴィーガン≠過激派」様々な意見が集まる - Togetter
※個人的には、「ヴィーガン=上から目線で文句を言ってくる人、思い込みが強い狂信者」というレッテル貼り、差別がそもそもナンセンスなのかな、と思います。「上から目線で文句を言う、思い込みが強い人」はあらゆる層にいると思います)
僕が覚えているのは、その「乳牛かわいそう」というマンガへの反論として、「酪農家は愛をもって牛を育ててる」というツイートが随分見られたこと。僕が冒頭で「違和感」と言ってるのは、おそらく酪農家でも何でもない人が多くそれを言っていたことだ。
「牛がかわいそうだからと言って、酪農の現実を無視したウソのマンガを描くな」という主張をしたい人が、「動物愛護派が憎いからと言って、自分が望むような理想の酪農家の姿を勝手に持ち出して反論する」という構図は、さすがにナンセンスだな、と思った。
「かわいそう」とか「かわいい」とかって、最も人間のエゴが出るところであって、「命の尊厳」へのリスペクトとは別の話、というかむしろ真逆の話なんじゃないか。イワシ漁の時に、漁師はイワシを愛をもって、かわいいと思いながら網を上げてるんだろうか。そこには「かわいい」も「かわいそう」も「ありがたい」もなくて、ただ素早い作業をしようとしてるんじゃないか。「命の尊厳とか気にしてられない」という態度が、あえて言えば一番命をリスペクトしてることなんじゃないか。(まあ僕も現場を知らずに自分の想像で考えていることを全面的に認めますが)
さて、僕が嫌いなのは「猫カフェ」だ。いくらネコがかわいいからって、人間の都合で狭いところで飼われ、入れ替わり立ち替わり現れる人間に見られ、撫でられ、写真を撮られる。どんなに商品として注意深く丁寧に扱われていたとしても、そんなの虐待と同じことでしょ、と。
人間のエゴで動物をかわいがるのは、まあしょうがない。そして、写真を撮ったりして猫好きをアピールして「いいね」を押し合えばいい。僕だって、水族館に子どもを連れて行くのは大好きだ。クラゲやチンアナゴの写真を撮る。動物園のモルモットを膝に抱いてる我が子の写真は、何枚もお気に入りフォルダに入ってる(子どもが静止するし、上機嫌なので、簡単にいい写真が撮れる)。
だから、僕だって同罪だ。猫カフェを好きな人を責めるつもりはない。ただ、「かわいい」とか「かわいそう」とかは、動物の尊厳へのリスペクトとは別のベクトルの話、と思うだけだ。ロブスターを食べる時に、「なるべく苦痛なく殺すこと」と「なるべくおいしく食べること」が対立するなら、おいしく食べようとすることのほうが、命を尊重することにはならないか。(そして、「命のリスペクト」だって人間のエゴだと思うけど)
200年経って今のことを研究する人がいたら、「21世紀の始め、動物の権利は限定され、野蛮な状態だった」となるのか。「21世紀の初め頃は、人間には動物の権利を心配する余裕があった」となるのか。それとも今とあんまり変わらないか。ちょっとだけ興味がある。
※法律上の動物虐待の基準について、下記記事がコンパクトにまとまってるように思えたので、リンクを貼っておきます。↓
動物愛護団体から動物虐待で訴えられた | 京都第一法律事務所