鯖缶@3rd&forever

2児(娘8歳、息子6歳)の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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最近気づいたこと(2020年2月②)

ツイッターで僕が無鉄砲につぶやいたことを、時々振り返って反省するコーナーです!


今回はこんな感じ・・・

  

息子の一人称が「ボク」になった

 


半年以上前のこと。


それまでは、一人称は自分の名前を使っていた息子5歳(このブログでは、息子の名前は「いわし」ということになっている)。「次、いわしの番ね」「いわしがやるから、見ててね」とか。


それが、どんなきっかけなのかまったく理解できないんだけど、「ボク」になってた。「もうおにいさんだから、自分のことは僕と言いなさい」とか、別に言ってないないのに、どうしてか、「次、ボクの番ね」になってた。


この「いわし」から「ボク」への変化はもちろん成長の過程での1つの現れなんだろうけど、「必要な経験値を獲得した結果レベルが1つあがり、ボクという呪文を使えるようになった」という感じとはちょっと違う感じがする。どちらかと言えば、偶然手にした「ボク」という一人称を使うことで、何かしら鍛えられる自我があるのかも、という感じが近い気がする。


「いわし」時代と、「ボク」時代の彼に、何か明確な段差があるような感じはない。(ナウシカに出てくる巨神兵は、ナウシカに名前を与えられて急に知能をレベルアップさせたが、それとは違う)


というか、あまりよく覚えていない。


いやあ、もったいない! 僕は、子どもたちの成長の大部分を見逃し、そして見逃さなかったことも、その生き生きとした驚きを忘れている。


ニコラ・フィリベールのドキュメンタリー映画の1つのシーンに、8歳ぐらいの少年が、数を数えていて、それを先生が励ますように聞いているシーンがある。


子どもは一生懸命に1000まで数えて、そこで何かの達成感を得る。先生はそこで、「1000より大きい数は知ってるか?」と尋ね、子どもはもちろんだよ、と答える。そんなやりとりを繰り返すうちに、子どもは「数ってのは、どこまでも数えられるんだ!」という、「無限」の概念に気づく、というシーン(ちょっと細かい部分は違うかもしれません)。そのシーンの瑞々しい感動に泣いてたはずの僕が、自分で子育てして、観察し放題のはずの子どもの成長を、見逃し続けるし、忘れ続けるのはいったいどういうことだ! (まあ、だからこそ映画があるのかもしれないけど)


一人称が「ボク」になって、「ちょっと大人っぽい言い方になったのに、内容はまだ追いついていない」みたいな感じで、逆に幼さを感じさせていた息子だが、半年経ってもうそう思うこともなくなってきた。


できれば、もっと細かく観察していきたい。

 

(ニコラ・フィリベールの映画はたぶんこれです。Amazonのリンク貼っておきます↓)

Etre et avoir ぼくの好きな先生 [DVD]

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  • 出版社/メーカー: バップ
  • 発売日: 2004/04/07
  • メディア: DVD
 

 

「人のセックスを笑うな」

 

「人のセックスを笑うな」とは山崎ナオコーラの小説のタイトルで、僕は小説の中身については正直言ってよく覚えてないんだけど。

 

でも、「その人のあり方の根本」を「ジャッジするな、バカにせず最低限の敬意を持て」という時のワードチョイスとして、「セックス」「笑うな」はこれ以上ない組み合わせのように思う。

 

字幕の原稿を書いているので、「少ない文字数での情報量」と、「シンプルなわかりやすさ」が両立されているとちょっとメモしたくなる。

 

(Amazonのリンクです↓)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

人のセックスを笑うな (河出文庫)

  • 作者:山崎 ナオコーラ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2006/10/05
  • メディア: 文庫
 

 


感情と倫理を分けよ

 


僕は、「問題をごっちゃにする」というのがとにかく嫌いで、とは言っても自分でもいろんな問題をごっちゃにしちゃってるだろうから、それに気づかずに生きてることが恥ずかしい(←文の冒頭から雑な自責)。


「善悪」「好悪(好き嫌い)」「美醜」「要不要」「真贋」はそれぞれ別の尺度であって、「美しいけど悪いもの」「にせものだけど必要なもの」「ダサいけど好きなもの」なんていくらでもある。飲み会を嫌いな酒飲みもいるし、飲み会を好きな下戸もいる。

僕は、君が代の調べは好きだけど、入学式での国歌斉唱は不要だと思っている。「愛国心」という考え方はにせものだと思ってるけど、それでも必要なものだろうと思ってる。


それらがごっちゃになるのが嫌い、というのは、たぶん怖いからなんだろうな。なんで怖いかって言ったら、ごっちゃになりやすいからなんだろうな(←結局なんにも言ってない)。


うろ覚えの迷子

 

覚えてること、覚えてないこと、の境い目ってどこにあるのか。何を基準に、どんなことを記憶として留め、脳内の取り出し可能な場所に置くのか。もう忘れたと思ってたことが、ふとしたことで思い出せるのはなぜか。思い出した記憶は、本物か、にせものか。


駅から、普段通らない道を通って帰った時、見たことない店を見つけて。「あ、ここ新しくできた店だ」って気づくんだけど、じゃあ以前はなんの店だったか思い出せない。「店が替わった」と分かるということは、以前は別の店がそこにあった、と僕は知ってるはずなのに、でもどうしてもその店について思い出せない。


ちょっとだけ怖い。「自分」というものは「記憶の集合」に限りなく近いような気がするけど、その「記憶」というものは自分でコントロールできるのはほんの一部にすぎないっぽい感じが、少し怖い。


上のツイートが、職場の誰のことを言ってるのか思い出せないのはもちろんだけど、今度は創作なのか実話なのかも思い出せない。「誰かに似てる」と思った答えを翌朝見つけたのに、「忘れた」とした方が「気になるむずがゆさ」が伝わるんじゃないか、と思ってちょっと創作したんじゃないか。(何でそんなことするのか)


もう長い年月過ごしてきた「自分」という街の中で、簡単に迷子になってしまうのが、ちょっとおもしろい。


その他のツイート

 

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