鯖缶@3rd&forever

2児(娘8歳、息子6歳)の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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運動会での組体操について考え中


今この6月の自分のツイートを見て、僕はどちらかというと「組体操」にシンパシーを感じていたことを思い出す。


(ツイッターでは、「危険な組体操を子どもにさせるなんて正気の沙汰じゃない」みたいなツイートが春にも秋にも拡散されるので、それを見て僕も何か感じたんだろう)


例えば、「登山」や「遠泳」はどうだろう。もちろん危険だ。でも、だからこそ、その危険を最小化するための準備や判断、実行するときの集中力、それをクリアした時の達成感にはものすごく大きな教育効果があるんじゃないか、みたいなこと。


それと同じような考えの延長上で、「組体操だって、ちゃんと準備したら“アリ”なんじゃないか」「もちろんケガのリスクはある。だけど、ケガのリスク=中止にしていたら、ラグビーもアメフトも世界からなくなってしまう。それでいいのかは疑問」というようなことを感じていたんだと思う。


ひょっとしたら、「自分たちの学校の伝統だから」とか「こんなにも難しいことをやったということを誇示したい」という、一部の教師の自己顕示欲の駒として、生徒が危険なことをさせられている、という例も一部にはあるのかもしれない。それなら許せない。だけど、実際にはもっとまともな教師、学校がほとんどなんじゃないか。それなのに、危険や不安だけ拡散するのは誰も幸せにならない、というようなこと。


で、今僕は半年前の自分のツイートを反芻する中で、ちょっと自分のナイーブさに笑ってしまった。


ちょっと調べてみると、問題とされている危険な組体操の例は小学校で7段、中学校で9段のものが多くて、僕は驚いた。「危険かもしれないけどチャレンジしてもいいのでは?」と僕が想像していたピラミッドは、3段~4段だったからだ。


「小学生で7段」は、ものすごい。到底信じられない。「シルク・ドゥ・ソレイユ」「上海雑技団」レベルの訓練がないとできない難易度に感じる。


去年小学校に上がった娘の運動会に行って、僕が応援した子どもたちは、「モデルのように手足が長い(というかヒョロヒョロの)子ども」がたくさんと、「運動が得意じゃない系の健康優良児」が少しだった。彼らが7段に挑戦するのは「狂気を通り越してシンプルに無理」としか感じない。


僕がイメージしてたのは3段~4段で、7段とは危険度が相当に違った。我ながら呆れてしまう。「普通の生徒は3段をやる。それはやりたくなくても、苦手でもやってみる。運動が得意で、有志の生徒は4段に挑戦。早朝練習や居残り練習をしっかりやって、安全に最大限配慮する」みたいなイメージ。


そして、できれば子どもには挑戦してほしいけど、その面倒を教員に求めるのは難しいかもな、などと呑気なことを想像してた。議論の前提となるはずの「危険度」が違ったら、「何が何だか分からない」だけの話じゃないか。


ところで、組体操の話題には「危険性」とは別に、「苦労して何かを成し遂げた一体感」が、教育として目指すべき「いいもの」なのだろうか、という観点もあって、そっちの議論もちょっと興味がある。「軍隊的」「体育会系的」「体育教師的」な価値観は、もう古いんじゃないか、というような見方で、それを切り捨てていいかも僕は迷ってしまう。


確かに、「みんなで何かを成し遂げた」みたいな感動を味わいたいことを理由に、子どもを危険にさらすのは大人のエゴだと思う。「自己犠牲を強要する」みたいな「軍隊的な精神鍛錬」はウンザリだ。


そうなんだけど、「自明のものとしてではなく、あえて作るもの」としての「一体感」は、相変わらず今も重要なんじゃないか。つまり、「多様性と一体感の両立」を練習する機会をどうやって作っていくか、というような。「やりたくないこと」をやるときに、どういう内面を作っていくかは、大人になるまでに(または大人になってからも)、断続的にクリアすべき課題じゃないか。


つまり、必要なのは現代にふさわしい形でのアップデートであって、ある程度のノウハウがあるだろうことを全否定してしまうのは単に「もったいない」のでは、というようなことは思う。「組体操」にまつわる教育的意義を否定してしまうと、運動会や体育祭自体も否定してしまうことになる気がする。


「危険だからこと意義がある」というのも安易だけど、「古いから意義がない」とうのも安易だろう。「危険度」も、「教育的意義」もまずは別個に検討、評価する必要がある。そうしてから、秤にかける。


ほとんど何も言えてないけど、とりあえず今回はここまでにしよう。「組体操のピラミッドは危険」という話題があった時に、そのピラミッドは3段なのか7段なのかで全然違う話になってくるのはちょっと面白いかった。議論の前提を揃えることは常に重要なはずなのに、自分でも気づかずにそれがズレてることがあること、覚えておきたい。

 

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