鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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誰かの真剣さを感じると泣ける


僕は20代を演劇と映画に捨てた。極度の引っ込み思案だったのに自分で劇団を作って役者とスタッフを集めた。極度の引っ込み思案だったからこそ、「仲間と何かを作る」「自分をさらけ出して何かを伝える」という、それまで出来なかったことができる演劇に夢中になった。


でも、冷静になって振り返ってみると、あの頃に努力だと思ってたことは、あんまり努力とは言えない気がする。「演劇の練習」が何なんだかよくわからない(何が「演劇力」を鍛えることになるのかわからない)のに、とりあえず集まって妙な姿勢で走り回ったり奇声を発したり息を殺してスローで動いたりゴリラの真似をしたりしてた。気分が高揚してたのは確かだけど、なにか芝居人的に成長していたとは到底思えない。


「自分をさらけ出して」というのも疑わしい。引っ込み思案過ぎた中学時代と比べて自分を出せる場面が圧倒的に増えただけで、それが「表現」になっているかは別の話。そもそも、自分自身が目をそらしてた自分の姿なんていくらでもある。


「歪みのない目線で自分を見直すこと」ができなければ、それは努力じゃなくてグルグルと変な踊りを踊って汗をかいているのと本質的には変わらない。


それでも、自分なりに真剣だったな、とは思う。作った芝居に自信がある時の方が緊張する(心の底で「どっちでもいい」という思いがある時は、本当には緊張しない)ことを知ったし、夜中に1時間仮眠したら、仮眠してる間にコントのネタが頭の中で完成していた時には興奮した(そんなことは一度だけしかなかったけど)。


ちょっと真剣になったからと言って面白い演劇が作れるとは限らないし、面白い演劇が作れたからと言ってウケるとは限らないし、多少ウケたとしても売れるとは限らない。(たいして面白い演劇も作れなかったし、ウケなかったし、全然売れなかった)


でも。人の努力を想像するとき、誰かの真剣さを思うときに胸を打たれるのは、自分がカケラだけでも「真剣さ」を知っているからかも、とはよく思う。


フィギュアスケートの大会で、リンクに飛び出ていって演技前に一周するときのスケーターの表情。それまでの努力や、この瞬間の緊張を想像するとき。将棋の対局が終わったあと、勝者も敗者も呆然として中空を見つめる様子。ピアニストが、演奏前に鍵盤に両手を置くときの祈るような速度。


それらを見ると、胸の芯が収縮して熱を持つ感じがある。そんな時に、自分もちょっとは何かに真剣になったことがあってよかった、とか思った。

 

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