サッカー(など)で、「中立地(例えば日本代表が南米のチームとオーストラリアで戦う場合)」でも「アウェー」ってしばしば誤用(?)されてません?
— 鯖缶 (@savacanmemo) 2018年11月27日
ホームから出たら、「中立地」のはずの場所でも「敵地」に感じてしまう被害妄想的なメンタリティが現れてる気がして、結構根が深い感じがします。
あまり知られていないと思うんだけど、村上龍のサッカーエッセイはものすごく面白い。中田英寿がヨーロッパで戦っていた頃に、中田ヒデの友人だった村上龍は、「フィジカル・インテンシティ」という観戦エッセイでヨーロッパサッカーについてずっと書いていた。
アウェーで戦うために―フィジカル・インテンシティ III 知恵の森文庫
- 作者: 村上龍
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2001/10
- メディア: 文庫
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そのシリーズが順番に単行本化されていたのだが、その中に「アウェーで戦うために」というタイトルがある。本の内容はもう覚えていないし、すごく好きだったとしても今後読み返すことがあるのかはよく分からない。でも、中田ヒデという人物が、「アウェーでも落ち着きを失わない強いメンタリティ」を持っているという印象は時々思い出す。
失礼を承知で素人ながらに比較すれば、本田圭佑には「必死に自己暗示をかけて、もがき苦しみながら獲得したメンタリティ」というイメージの「苦しさ」を感じてグッとくる。それに対して、中田ヒデは「冷徹に誰にも頼らずに考え抜いて、一番戦いにふさわしいキャラを獲得した」というイメージの「哀しさ」を感じてグッとくる気がする。
上のリンクは、サッカー日本代表がはじめてワールドカップ行きを決めた「ジョホールバルの歓喜」の試合直後のインタビュー。この時のヒデのコメントがすごい。「もう練習したくないんで、よかったです」「まあ、代表はうまく盛り上がったんで、あとはJリーグを盛り上げてください」というもの。
普通ならそれが歓喜であれ、興奮であれ、号泣であれ呆然であれ、種類は分からないけど「感情が爆発」してもおかしくないシーンで、「まるで他人ごと」というようなクールすぎる受け答え。たぶん人生で一番大きなものが懸かった試合を、延長戦で勝った直後とは思えないような態度とコメント。
「アツい感情を表に出すことに照れがある」という部分も少しはあったかもしれないけど、それを考慮しても尋常じゃない。彼はこの試合で、想像を絶するような活躍をしていて、「絶対に勝ちたい」と誰よりも思ってたことは、プレーを見れば素人でも分かる。でも「その時の状況」に彼自身の感情が「1ミリも飲まれていない」ことが伝わってくる。すごいインタビューだ。
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さて、僕が気になっていたのは、村上龍でも中田ヒデでもなかった。「アウェー」という言葉の使い方の話。
この「ジョホールバルの歓喜」がちょうどわかりやすい例になる。恥を承知で書くけど、僕はこの試合を、「アウェーでの厳しい戦いに勝利した」となんとなく思い込んでいた。でも確認すると、事実は異なっている。「アウェー(敵地)」ではなく、「ニュートラル(中立地)」での開催だったのだ。
(参考記事↓)
【川口能活クロニクル】ヒデがいなかったらW杯には出られなかった――フランスW杯アジア最終予選・イラン戦 | サッカーダイジェストWeb
この試合の対戦相手はイラン。そして、試合の開催地ジョホールバルはマレーシアの都市。実際、日本人サポーターが相当数駆けつけ、「ホームの雰囲気」とすら言えたらしい。なのに僕は、中立地での試合だったことは完全に忘れて、「アウェー」と勝手に覚えていた。記憶の塗り替えである。
一番最初に挙げた僕自身のツイートは「世間一般、テレビなどでの誤用」を憂いてるような内容になっていて、実際僕自身はそういう印象を持っているけど、どのように誤用されているかを調べるのは難しい(というか面倒)なので、世間一般の話ではなくて、僕の誤解の例を引いてみた。以下も、僕自身の話として続けたい。
さて、僕がこの誤解を「根が深いな」と思うのは、「必ずしもアウェー(敵地)でもない状況なのに、なんとなく勝手にアウェーだと感じていること」が結構あるな、ということ。
先日もこんなことがあった。
妻が、「凧あげ教室」のチラシを写真で撮って、それを携帯に送信してきた。息子が行きたがってるから、土曜日(僕が子どもを見る日)に連れていったらどうか、と教えてくれたものだ。予約なしで、費用もほとんどタダ。ボランティアの人の指導で子供が凧を作り、作った凧は公園でそのままあげて遊べる。端的に言って、最高の教室である。
僕は、その教室が毎月1回行われてることを、実は結構前から知っていた。公園でチラシを見て、「いいかも」と思っていた。でも、なんとなく忘れていた。もっと正確に言えば、「子どもを連れていくのが面倒で、その教室の存在をわざと忘れたフリをしていた」。
この「忘れたフリ」というのは、ほとんど無意識的な防衛本能というか、自分でも気づかない程度の「わざと」なんだけど、僕はなんとなく「凧あげ教室」の存在が苦手で、脳内で「できれば避けたいもの」のフォルダにそれをしまいこんでいたことが分かった。
妻から言われて、「自分でも気づかないうちになんとなく凧あげ教室を避けてきた」ということを思い出したんだけど、「いや、なんとなく面倒なんだよね」とは妻にも息子にも言えない。とりあえず、「ああそうだね。今度行ってみようかな」と答えておいて、あわてて自分の心情を分析してみた。それで驚いた。僕は「凧がうまくあげられないこと」に、劣等感を抱いていたのだ。
年末年始になると、公園で凧あげをする親子がいる。僕らも、妻が通販で買った「お手軽おしゃれカイト」みたいなのを持って公園に出かける。でも僕は、凧あげができない。だから、子どもにうまく凧あげのコツを教えられなくて、なんとなくみじめな思いをしている。「子供たちよ、世の中には2種類の父親がいる。凧あげができる父と、凧あげができない父だ。残念なことに、パパは後者なんだよ」と内心思ってしまう。
でも、子どもたちは凧を持って走り回って、偶然うまくいった時だけ凧があがった状態でちょっとだけキープして、だいたいはすぐに落ちてきてしまうんだけど、凧あげはそんなものだと思って割と楽しんでいる。
そんなことが年に2回ぐらいあって、それ以外の時は凧あげのことなんて考えないから、僕はそのコンプレックスと対決せずに済んでいた。だけど、「凧あげ教室」の存在はそのコンプレックスを否応なしに思い出させるから、避けていたんだ。僕がなんとなくイメージしていた凧あげ教室は、「凧あげのうまいおじさん、おじいさんに偉そうに教えられる。子どもの前で恥をかきながら、ヘラヘラ凧あげを教わる」というかなりバッドなものだと、思い至った。
僕は上に書いた思考をたぶん15秒ぐらいで巡らせて、「オレの自己防衛意識、過剰すぎるだろ」とおののいた。ちょっとしたことに挑戦したくないばかりに、かなり無理やりに自我を守っている。
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悪いイメージを脳内で作り上げ、そんなものは避けて当然なのだ、と自己弁護的なストーリーを作る。それを自分で信じ込み、その上で、勝手なストーリーを作ったことを自分で忘れる。結果、「凧あげ教室のチラシ」は僕の中で「見えてるけど存在しないもの」になり、自分がそれを避けてることすら気づかなくなる。
ここまで意識を反芻して、ようやくそれは「過剰防衛だな」と気づく。凧あげ、凧作りに挑戦するのは息子だし僕が恥をかくこともないだろう。ボランティアの先生が偉そうな人というのは僕の劣等感が反射した思い込みだし、もし仮に本当に偉そうだったとしても、そんなことは気にするほどのことでもない。冷静に考えれば、そう思える。でも、「無意識で避けていた」という状態だと、そのことには気づけない。感情ではなく理屈で考え直して、参加することを決意した。生理的な恐怖心に打ち勝つには理屈しかない。
実際参加してみると、凧あげ教室は最高だった。凧あげの同好会のおじいさんたちはみんな謙虚で優しかったし、用意してくれた凧(息子はそこに絵を描いた)は、「コツを教わる」必要なんてないほど簡単に風をつかまえて空にあがった。本当に行ってよかった。自分でも気づかないほどの恐怖心で、行くのが面倒だったのは恐ろしいことだと思った。
実は、似たようなことがよくあるんじゃないか、と思う。本当は「アウェーでの戦い」でも何でもないことを、「アウェー」だと思い込んでしまうような精神性。でも実際に行ってしまえば、そこはアウェーじゃなくてニュートラルだと分かる。もっと言えば、「ホームの雰囲気に近い中立地」のことが多いんじゃないか。
マンガ「逃げるは恥だが役に立つ」では、高齢童貞、高齢処女が描かれている。社会問題と言っていいかは僕には分からない(社会として解決すべき話なのか判断できない)けど、共感を呼ぶのは理解できる。未経験な現実に挑戦するよりは、自分を騙して、騙したことを忘れてしまった方がいい。それは自然な自己防衛だ。でも、何にも挑戦しないままでいると、「成功と失敗の繰り返しの中で培われる自尊心」を獲得するチャンスを逃し続けてしまう。たぶん、世の中のそこかしこにそんな人がいるだろう。僕もそうだ。
僕は自分自身にアウェーで戦えるメンタリティがあるとは思えないし、それが普通だと思う。でも、「ニュートラルをアウェーと思い込むことをやめる」ぐらいなら、気をつけていればできる気がする。そんなことを思っている。
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