鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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【コラム】ヒットチャートにもジェンダーギャップはあるらしい

ラジオで、「ヒットチャートのジェンダーギャップ」についての話を、ラジオで耳にした。「TOP100」のようなヒットチャートにランクインした曲は、女性アーティストよりも男性アーティストによるものが多いらしい。この傾向は何年も続いているらしく、日本でもアメリカでも男性がかなり優位なのだそう。


「ヒットチャートのジェンダーギャップ」をテーマにした」インタビュー本の紹介としての短いトークだったので、詳しいところまでは分かってないんだけど、ちょっと興味を持った。「出産育児でキャリアを中断や断念することは、女性の方が多い。その傾向は、芸能人でも変わらない」「何かを強く訴えるような女性像が、あまり支持を集めない」というようなことが原因としてあるのでは、などの視点が紹介されていた。

 

最初に、ヒットチャートにもジェンダーギャップがある、という指摘を聞いたときに、「マジかよ、そんなはずないでしょ」と反射的に思ってしまう自分がいて、ちょっと引いたな。「音楽の曲が売れるか売れないかに性差別はないんじゃないの」「ショービジネスって、女性が活躍しやすいんじゃないの」と、そんなようなことを僕は無意識に思ってらしい。そのことに気づけただけでも面白かった。


雑な連想にすぎないんだけど。「お笑い」について考えると、男性優位がイメージしやすくなる気がする。「鋭い毒舌」「体を張った芸」「下ネタ」などを「女芸人」がやっていると、相当うまくやったとしても見てる側が居心地が悪く、笑うのが難しい、という話はよく聞く。


ならば、新しい角度やテーストの笑いなら「女芸人」でも不利にならないかもしれないけど、いったいどれだけの人が「新しい種類のお笑い」を求めているのかは疑問。過去のパターンを踏襲しているから笑える、みたい感覚が普通で、「新しい笑い」などあんまり求めていない人がほとんどなんじゃないか。とすれば、特に「女芸人」を嫌ってないつもりの人でも、「なんだかんだ言っても、今まで知ってるお笑いのパターンの繰り返しが好き」と思った時点で、実質的には「お笑いのジェンダーギャップ」を支持するムーブになってしまう、みたいなことはあるんじゃないか。


おそらく、「歌」の世界も似たようなところがあるんだろう、と想像した。男性アーティストの方が、「ウケる歌」のレンジが広そう(「強い僕」も「「弱い僕」も「賢い僕」も「愚かな僕」もアリになってる、というか)。


そんなことを考えながら、「将棋」のプロの世界に「女性棋士」が誕生してないことを思い出した。これもいろんな原因があるんだろうけど、ちょっと関係あるかもしれない。


将棋という競技自体に性差別はない。なさそうに思える。誰が駒を扱っても、与えられる駒の動きは同じ。そこに問われるのは実力だけであって、性別は関係ない、みたいなことは言えるかもしれない。だけどそれをもって「将棋界に性差別はない」とは言えないはず。


例えば、「既得権が守られてることが、ジェンダーギャップにつながってる」という指摘はできる気がする。将棋でプロになるのはかなり狭き門で(その狭き門にはドラマがあるからファンとしてはなかなか否定しにくいんだけど)、3段リーグの上位とC級2組の下位ではおそらく3段リーグ上位の方が強いはずなのに、3段リーグからC2に上がれる(=プロになれる)のは年間4人のみ。控えめに言って、新陳代謝が悪すぎるんじゃないか。


で、将棋界というのは男性が圧倒的に優位な世界なんであって、「既得権が守られる」というのは、「男性優位が温存される」というのと同義と言っていいって話なんじゃないか。例えば、3段リーグから、毎年14人の新4段が誕生する世界線なら、もうとっくに女性棋士は誕生してるだろう。


それと、世の中自体が無意識に期待するジェンダーロールに、「女性の将棋指し」がマッチしていなかった、というような話もあるのかもしれない。子どもを育てる時に、「負けず嫌い」「1つの物事にわき目も触れず集中する」「勝ち負けをはっきりつける」ということが(将棋が強くなるためには不可欠なことだろう)、男の子だと「男の子らしくていい」と推奨されるのに、女の子だと眉をひそめられる、みたいな価値観。どうかな。「そんな価値観は時代遅れ」なのか。「いやいや、案外根強く残ってる」なのか。(1人でも女性棋士がデビューしたら、「私だってプロを目指せる」と思う女の子とか、「うちの将棋部の女子部員がプロを目指したっていい」という顧問とかが増えると思うんだけど)

 

何を言いたいかというと、多くの人にとって自然な感情である「現状維持を受け入れること」自体が、そのまま「男性優位を支持する」に限りなくニアリーイコールになることって案外多いんだろうな、と気づいて、それを覚えておこう、と思った、という話。

 


HIPHOPはどうなんだ。ミソジニー、ホモフォビアを克服できるのか。「売れてなんぼ」の世界だから、聴いてる側の意識が変われば、案外簡単に変わるかもしれないし、そうでもないかもしれない。フィメールラッパーが提示する「強い女」「面白い女」に、いろんなバリエーションが増えるといいな、という結びはナイーブすぎるのかもしれないけど。


※聞いていたラジオ:MUSIC GARAGE:ROOM 101

MUSIC GARAGE:ROOM 101 | bayfm 78.0MHz ベイエフエム

 

※『女性たちの声は、ヒットチャートの外に ~音楽と生きる女性30名の“今”と“姿勢”を探るインタビュー集』というインタビュー本について、著者の平井莉生さんを招いて、番組ホストの渡辺志保さんが話を聞く、という回でした。

 

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉚(自分だったら手に取らないマンガを貸されること)

2023年7月某日 「自分だったら手に取らないマンガを貸されること」

朝から添削仕事を断続的にやるものの、なんとなく落ち着かない。Kさんが、待ち合わせに来るのか心配なんだ。この3年で、何度かLINEもメールも無視されていたので、ひょっとしたらそのことを謝らせなくちゃいけないのかもしれない。もしくは、僕の何かが彼を怒らせていたんだとしたら、僕が謝らなくちゃいけないのかもしれない。別にいいんだけど、そんなの、緊張するじゃないか。Kさんもそう思っていて、ドタキャンや無断キャンセルされたらどうしよう。そしたら、「そんなのひどい」と、ちゃんと彼に怒れるんだろうか。というか、そんなチャンスなんて来るんだろうか。


それで、仕事もあまり進まず、かと言って他のことも手につかないから、時間を持て余したりして。それで、待ち合わせの前に、やっぱり本屋に行くことにした。昨日は本の洪水に圧倒されて買えなかった「ゆるキャン△」を買おう。半分はウケ狙いだけど、半分は本当にプレゼントしたいんだ。人と人が関わるのって、「自分だったら手に取らないマンガを貸されること」じゃないか。


早めに家を出て、書店に向かう。「ゆるキャン△」の1巻を2冊手に取って、でも心配になってきた。ひょっとして、2人はすでに「ゆるキャン△」を読んでるかもしれない。だって、めちゃくちゃ有名な作品じゃないか。そして、ひょっとしたら嫌いかもしれないじゃないか。まあそれはそれで面白いというか、しょうがないんだけど、「読まず嫌いで済ませていた作品との出会いをオレが演出」という主旨が不発になってしまうのは悔しい。


それで、もう1つ選ぶことにした。そうだ。Kさんは村上春樹が嫌いだったから、きっと読んでないに違いない。もう中年になって久しい今、ひょっとしたら案外読めるかも、となるかもしれないじゃないか。「読んでみたら、やっぱり嫌いだった」となってもいいんだけど、できれば「なるほど」と思ってほしい。


それで、「神の子どもたちはみな踊る」にした。目立たない短編集ではあるけど、読みやすさと読み応えが両立した作品だ。「ハルキ臭」がデキャンタージュされてまろやかになっていて、でも「ハルキ味」はしっかりとボディがある(ワインで例えるのがダサすぎるけどそれはすみません)。昔、村上春樹にアレルギーを感じた人でも、イケる作品だと思って。


レジで、「カバーはかけるか」と聞かれ、新潮文庫は販促キャンペーンのプレゼント(しおり)があるから選ぶように言われ、同じ巻数を2冊で間違いないか確認されら。その段階になって、「ゆるキャン△」を買うのが恥ずかしい気がしてきた。ていうか、村上春樹だってむしろもっと恥ずかしくないか?(恥ずかしくないし、恥ずかしくても仕方ないし、もうあとは図書カードで払うだけのタイミングなんだけど)


本屋で、対面で本を買ったのが久しぶりだったので、「自分が欲しい本(いわば、なりたい自分じゃないですか)」を、誰か(店員)に見られる恥ずかしさを思い出して驚いた、という。


あおちゃんとKさんとは無事に会えて、あっという間に3時間過ぎて。「オタク活動の悲喜こもごも」を話してるうちに終わってしまった。「人生はいろいろ大変だけど、なんとか楽天的に構えて乗り切っていこう」というようなことを話したかった気がするけど、「人生を語る雰囲気」にはならなかった。でも、話してる内容が問題なんじゃなくて、「自分が話したい話し方で話せる相手がいる」ことを確認できてよかった、というか。


店(サイゼリヤである)から出て、駅前で3人でセルフィ―撮って解散。次に会うのはまた3年後か。それとも案外3カ月後か。元気でいてくれるといいな。僕も元気でいられるといいな。

 

7月某日 どんな気分転換だよ

子どもたちの登校を見送った後、朝から添削仕事をやろうとするんだけど、どうにもこうにも進まない。質問に答えようとしたり、修正点だけでなくその背景にある考え方も伝えようとしたり、ついつい真面目にやってしまう。それで、せめてやってる間は無心になればいいものを、「こんなに時間をかけてやるのはあまりにもアホらしい」と邪念が入ってしまい、ただでさえショボくれた集中力がますます元気を失くしてしまう。


それで、スプラトゥーンをやるんだけど、全然勝てない。勝てないどころか、コントローラーも調子が悪い。Bボタンを押し込むと、戻らなくなってしまうのだ。これは致命的、ジャンプしたくないのにジャンプし続けてしまう。こんなのでは当然面白くないので、新しいコントローラーを買うなりすればいいんだけど。「いや、これを機会にスプラも引退してしまおう」みたいなことも思って、つい先延ばしにしてしまう。壊れかけのコントローラーでイライラしながらやるゲーム。なんなんだ。どんな気分転換だよ。


午後になって、まだ添削が終わらない。すぐサボってマンガを読むんだけど、イマイチ夢中になれるマンガもなくて。今日読んでたのは「不思議な少年」の4巻。引力のある絵とストーリーとキャラなんだけど、それで引っ張られた関心や感情がどこかに着地せず宙ぶらりんに放り出されるような不完全さがある。その不完全さが魅力なんだろうけど、「夢中になって読めて、納得できるオチがある」みたいな尺度では測れなさそうな作品なのよな。


仕事も進まず、得意なはずの気分転換もはかどらず。途中で料理を挟んでみた。ミネストローネ。多めに、3日分ぐらいの分量を作る。これはいい。なんというか、手を動かすと具体的に仕事が進んでる実感がある。いろいろやって、火にかける(IHだけど)ところまで進めてからPCの前に戻って。


結局、夕方までかかって添削仕事のノルマは終了。本当なら1時間で終わらせないとまともな仕事とは言えない分量なのに、情けないよ。正味2時間ぐらいなんだけど、「ああ、まだ仕事が終わらずにダラダラしてる」と思ってる時間は7時間ぐらいだった。さすがに頭悪そうなので、ちょっとやり方を考え直さないとな、と思ったところ。


あとがき(8月29日)

さて、不定期に書いてきたこの日記ですが、ここで最終回ということにしようかと思います。


「マンガを読むこと」で、それを日記のネタにする(マンガの感想を書いて、それを種火にしていろんなことを書く気になる)。日記のネタにすることをモチベーションにして、マンガを開拓する。そんなイメージで始めてみて、なかなか楽しくできました。


ここまで読んでくださってありがとうございました。また、気が向いたら別のタイトルで日記は書くと思います。それまでお元気で。

 

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉘(熱意が想像を超えていた件)

2023年6月某日 眠くて不機嫌になる話

昨日の夜、寝る前に。妻が息子を慰めるような、励ますような口調で語っていて。その時僕は、麻雀Mリーグの切り抜き動画を見ながら飲酒をしていたんだけど。その飲酒のせいもあって、息子たちに向けてついアツく語りだしてしまった。


「みじめなこと、イヤなことがあっても、それはチャンスなんだ。コロナで世の中ギスギスして、そのギスギスにつられて不安だったり、イライラしちゃったりしたけど、ふと思い出すと、それでも案外平気かも、と思ってたりする。あれ、ひょっとして、僕って案外弱くないかも、って気づくチャンスなんだ。イヤな思いをして、みじめな思いをして、そこからいっぺんに楽しくなるのは難しくても、イヤな思いをしても案外へっちゃら、って気づくと、それが自信につながることもある」とかなんとか。


当の息子は、「うん、わかった」とシラケるようなリアクションでそのまま布団に入って寝てしまい。僕の酔っぱらったセンチメンタルな説教(?)は空回りして。仕方ないので妻に向かって話し続けて。イヤな気持ちになった時に、イヤな気持ちになった自分を弱いと思って責めるんじゃなくて、イヤな気持ちを否定せずに受け止めて、ひと呼吸置いてから、イヤな気持ちになっても案外平気な自分を思い出す、それができるといいね、みたいな話を繰り返して。


その一連の流れを、今日になって振り返ってみて、「何かがおかしい」と気づいた。子どもたちと僕が夕飯と風呂を終えたぐらいのタイミングで帰ってきた妻が、息子を慰めるような口調で話しかけていた(学校でイヤなことがあったんじゃないか、と思ったらしい)ことが発端だったんだけど。よくよく思い出してみるに、息子は学校から帰ってきてすぐに友達と公園に遊びに行き、帰ってきて姉とスマブラをして、夕飯では手羽元を平らげ、ずっと上機嫌だったじゃないか。それが、寝る前になって「もう眠いのに歯磨きが終わってない」みたいなことで半ベソをかいていただけなんじゃないか。「眠いと不機嫌になる」という、生理現象的なメソメソ、そんなの子どもによくあるよ。


娘にもちょっと聞いてみた。「昨日さ、落ち込んでもいい。落ち込んでも平気って思えたらちょっと強い、みたいな話をしちゃってたけど、そもそも誰も落ち込んでなくない?」 娘もそう思ってたという。息子よ、すまなかった。早く寝かせてやるのが一番だった。

 

6月某日 吹奏楽部の先生の熱意が想像を超えていた件

子どもの吹奏楽部の保護者会に行った。保護者の中で、役員を決めなくちゃいけないのでちょっとだけ気が重いんだけど、それとは別に、保護者会の前に、練習の様子を見学させてくれるというので、それは楽しみだった。


これが、なかなかにすさまじい練習だったのである。何がすごかったか。新しく来たT先生の吹奏楽への熱意が想像を超えていた、という。


T先生。基礎練習みたいなやつ(曲というよりはシンプルなフレーズで音を出す、というような練習?)の指揮ですら、熱意が伝わってくる。部員たちを励ますような雰囲気で、実際に励ますような声をかけながらリズムを刻むんだけど、その分、「手を抜いたら許さんぞ」というような雰囲気がある。これ、僕はめちゃくちゃ好きなんよ。大声で𠮟りつけないんだけど、練習をナメたらいけないとオーラで伝えてる感じ。


「音量じゃなくて、音の圧力でクレッシェンドね」とか「間違ってもいいからとにかく最後まで音を出して」とか、指揮をしながらの声掛けも面白くて。言い方はやさしいんだけど、基礎練習でも(基礎練習だからこそ)、音楽的なイメージを要求してる感じなのか。


「じゃあ、お母さんたちに、曲を聴いてもらいましょう」と、ミニ発表会みたいな時間になって。T先生劇場は加速するんだけど。ルパン三世のテーマをやるらしい。子どもたちのうち何人かは、張り切っているようなリアクション。「じゃあね、まだ練習中だけど、先生も応援するから、ノリノリでやっていきましょう」みたいなことを言って、T先生は指揮棒を置きトランペットを持つのだ。


曲が始まってすぐに、T先生のトランペットは“爆発”する。「踊る」とか「歌う」とか「叫ぶ」とかの比喩ではなく、「爆発」するような演奏。とにかく、シンプルに音がデカい。子どもたちの12人分ぐらいの音量を先生1人で出すのだ。「トランペットのポテンシャルを聞いてる奴全員に“分からせる”」ようなバイブス。一緒に演奏する子どもたちに、「言っとくけど、オレがノリノリって言ったら、それって本気でノリノリだからね」という伝えるパフォーマンス。T先生、めちゃくちゃ上手いトランペットで、最後までメインフレーズを演りきったのである。


あっけにとられる保護者たち。何だ今のは。そんな、「本気」の演奏を聴く心の準備なんて、平日の午後4時には持ってないんすよ。


「よし、できましたね。じゃあ次は、先生の応援なしでもう1回やってみましょう」と。トランペットを置いて、場所を移動した。正直言ってちょっと安堵したよね。T先生のトランペットが聴けないのは残念だけど、子どもたちの演奏聴きたいでしょ。


でも、油断するのはまだ早かった。2回目の演奏、T先生はドラムで参加するのである。「ノリノリをナメるな」というメッセージがエグいんよ。指揮棒を置いてトランペット、トランペットを置いてドラムスティックという流れは想像してないでしょ。熱意がすごすぎて、ちょっと笑ったよ。

 

2回目のルパン三世が終わった。「ルパンはね、入ったばかりの4年生は、まだそれほど練習できてないから、「かえるの合唱」をやりましょう」と。僕は一瞬油断した。さすがに「かえるの合唱」では爆発しないでしょ、T先生劇場も小休止するだろう、と思った。しかし、T先生、今度はピアノで“かまし”にくるんである。


ピアノで前奏するんだけど、その前奏が、情熱的すぎるんである。あれか。「BLUE GIANT」か。「ピアノはハンマーで弦を殴る、打楽器が本領なんだよ」みたいなやつか。「音を楽しんでないやつはぶっ飛ばす」みたいなオーラで聴く「かえるの合唱」の伴奏。油断した僕が甘かったよ。


僕は、T先生のことが好きになった。誰かに何かを教える時に、気をつけるべきは「教える側のエゴ」だと思ってる。生徒を支配して、コントロールすることの快感に飲み込まれると、生徒の成長を目的ではなく手段として扱うようになってしまうことがある。だから、「熱血教師」には要注意だ。でも、T先生は違うと思った。なんというか、「教えるエゴを抑えてコントロールする」ではなくて、「教えるエゴを突き詰めてむしろ爆発させる」みたいな方向で、「エゴに自分をコントロールされない教え方」を感じたのだ。


練習の見学の20分間、T先生の爆発っぷりにあっけに取られているうちに終わってしまった。子どもたちがついていけるのかはちょっと疑問なんだけど、少なくとも、何かを感じてくれることだろう。

 

6月某日 「相乗効果で魅力倍増」とは限らない

読んだマンガ。

「告白~コンフェッション~」(原作:福本伸行/作画:かわぐちかいじ)…全1巻
「生存~Life~」(原作:福本伸行/作画:かわぐちかいじ)…全3巻


ブックライブで、20%OFFのクーポンが当たったけど、特に買いたいマンガが思いつかない。それで昔読んだのを思い出して、これを。超有名作家2人による、けっこうガチめのタッグだよね。単なる“企画もの”という感じじゃなくて、作品としてちゃんとパンチを当てにいこうとしてる感じがある。隠れた名作、みたいな印象だった。


読み直してみて、感想としては「うろ覚えだった印象より面白くない…かも…あれ?」だった。「カイジ」で名を売った福本伸行が、特殊ギャンブル以外でも「極限の心理戦」を描けるんだと示した原作。人物の表情をアップで描かせたら、圧力がケタ違いな、かわぐちかいじの画力(Wカイジじゃねーか)。こんなの、つまらないわけがない、と。そう思ったし、事実ちゃんと面白いんだけど…


「相乗効果で魅力倍増」とはなってないかもな、とか思った。かわぐちかいじの端正な絵で見ると、福本伸行の話の展開が、「そうはならんやろ」ってなってしまう、というか。そう思うと、福本伸行にとって自身のあのユニークな画力は、欠点ではなくてむしろセールスポイントだったのかもしれない。「毒を持って毒を制す」というか。「脂がギトギトすぎてクセの強い肉の味を、もっとクセの強い薬味で食べると、不思議といくらでもイケる」みたいな。


(ところで、僕はいまだに「カイジ」は追っていて、「ワンポーカー」も「24億脱出」も、「むしろ面白い」と思って読んでたりします)

 

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉗(僕とオフロスキー)

2023年6月某日 僕とオフロスキー

オフロスキーというのは、Eテレの子ども番組に出てくるキャラクターなんだけど。お風呂に住んでる、妖怪というか、妖精というか。河童とか天狗とかみたいに、ほとんど人間と変わらない体形なんだけど、たぶん人間ではなさそうな存在。


さて、たぶん12~13年ぐらい前のこと。職場の喫煙室で、居合わせた同僚に、「オフロスキーに似てますよね」と話しかけられた(思えば、喫煙室というのは、普段話さない人とちょっとだけ会話をするような場所でもあったんだな。もうタバコ吸ってないので、ちょっと懐かしい)。


で、当時の僕には子どもはおらず、子ども番組も見ていなかったので、オフロスキーのことは知らなかったので、「ごめんなさい、ちょっと何言ってるか分からないです」というようなリアクションしかできなかったんだけど。


その時から数年後、僕は子持ちになり、子どもにEテレを見せ、オフロスキーのことを知ることになる。。オフロスキーは、お風呂を模した部屋のようなところで、いろんな遊びを1人で楽しんでる。なんでもいい。ティッシュを1枚上に投げて、ふわりふわりと落ちてくるティッシュをキャッチしたり、扇風機のモノマネをしたり(この例は今僕が適当に考えただけであって、実際には1つも覚えてないんだけど)。そして、テレビの前の子どもに向かって、「君もやってみなよ」みたく誘うのだ。


オフロスキーのカッコいいところは、サービス精神があるのに、子どもに媚びてないところ。孤独を楽しんでるところ。いつでも自由で、無理してないのに上機嫌なところ。僕はオフロスキーのことを好きになった。


そして、「僕はオフロスキーに似てると言われたことがある」というのは、僕にとってひそかな自慢になったのである。僕のビジュアルは、オフロスキーに似てるわけじゃないんだけど、でも、ちょっとだけ分かる。僕が職場で演じてるキャラが、近いのかもしれない。特定の派閥には加わらず、昼休みは1人で過ごす。ゴシップや陰口で仲良くなるのがイヤだからあんまりおしゃべりには参加しない。でも不機嫌だと思われるのは申し訳ないので、同僚とすれ違った時には手を振ったりする(オッサンがブリッコ風に小刻みに手を振るのはなかなかキモいんだけど、機嫌悪くないことを伝えるための道化なんだ。ユーモラスだと言い張れば、キモさだっていいアクセントになるでしょ)。


チーム内で、自己紹介を書くシートがあって、それには質問が50個書いてある。答えなくてもいいし、ウソを書いてもいい、みたいなやつ。その中に、「自分が似ていると言われた人は?」という項目がある。そこで、つい魔が差して「オフロスキー」と書いてしまった。書いた次の日には、猛烈に恥ずかしくなったんだけど、もう今から消すのも恥ずかしい。調子に乗った自分を内心責めていると、意外なことに、何人か「言われてみれば、オフロスキーに似てるっていうのは分かる」と認めてくれた。


僕は、「これがセルフプロデュースか」と知ったのである。多少無理があっても、「僕はオフロスキー」と表明することで、なんとなく「アリ」みたいな雰囲気になってしまう、というか。こうして僕は、妖精系(妖怪系)おじさんとして、多少上機嫌にしていれば誰からも嫌われないポジションを獲得した、という。


……なんだこの話は。憧れのキャラに似てると言われて、内心喜んでるだけならまだしも、それを何年も経ってから同じチームの人に自分から言って認めさせて、その歴史を日記に書いて反芻しているという。なかなかヤバすぎるでしょ。でもまあ、しょうがない。オフロスキーに似てるって言われたら、人間は喜んでしまうんである。当のオフロスキー本人は、誰かに似てると言われても、きっと何も気にしないだろう。それをずっと覚えていて、日記に書いたりしないだろう。なかなかそんな風にはなれないよね。

 

6月某日 甘くて軽いエピソードじゃないのかよ

読んだマンガ。


「ブルーピリオド」(山口つばさ)…11~13巻。11巻がかなり好きだった。藝大の1年目を終えた八虎が、高校の美術部の先生(つまり、美術の入門を導いてくれた恩師的な存在)の絵画教室でバイトをする春休みのエピソード。


悩み多き藝大1年生をなんとか乗り切って、でもいまだ、どこにもたどり着かなかった八虎が、たぶん2年生になってもアートの森で迷い続けるであろう小休止的な春休みで恩師と旧友との再会。甘くて軽いエピソード挟んでくるのかと思いきや、めっちゃシャープでビターな話だった。どんだけ読者を信頼してるんよ。(僕は惚れ直しました)

 

「吉祥寺だけが住みたい街ですか?」(マキヒロチ)…4~6巻。最後まで、ずっと面白かった。いろんな街の空気感を肯定的にとらえる眼差しがやさしい。各エピソードの主人公(部屋を探しに来る人)が、「この街で暮らそう」「この部屋で暮らそう」と決める瞬間を美化しすぎずに描いていて、勇気をおすそ分けしてもらえる感じ。


何かを再スタートしたり、方向性をアジャストしたり、人生にはいろんな可能性があるのに、それを試すのをサボってるじゃないですか。でも、「引っ越したら何かが変わるかも」って思える強さ(または能天気さ、図々しさ)が自分にあること、時々思い出すのいいよね。(転居以外に、持ち家のリノベーションを描いているのもめちゃくちゃ秀逸だな)


ボードゲーム屋を紹介して、そこで買ったボードゲームを、内見先の部屋で遊ぶエピソード、なんか泣きそうになった。オレ、ボードゲーム好きなんよ。どんなゲームでも、やればだいたい好きになる。だけど、なかなか面倒で新規開拓なんてしないよね、一緒にやる相手もいないし。見るだけなら将棋と麻雀だけでコンテンツありすぎるし。


「面白いらしいボードゲームを選んで、ルールを覚えて、ちょっとやってみる」程度のコストを、「面倒」ってだけで(自分でも気づかないうちに)切り捨ててきたんだな、とか思って淋しくなっちゃった。でも同時に、やろうと思えば今からでも、いつでもできるじゃん、って思ったらそれだけでうれしかった。実際は死ぬまで一切新しいボードゲームを開拓しないかもしれないんだけど、「やってみればいいじゃん」って思うだけでも、ちょっと力が湧くものがある。


あと、いろんな街の魅力的な映画館を紹介するエピソードがあるんだけど。吉祥寺にはないけど、魅力的な映画館が他の街にはある、という話の流れで。だけど、この時の重田姉妹に伝えてくれ。その後、吉祥寺にはアップリンクが来たんだよ、と。


パルコの地下2階。以前はパルコブックセンターだったところが、映画館になってるんよ。行ってみると驚くんだけど、スクリーンが5つもあるんだ。広いとは言えないフロア面積を、迷路のようにレイアウトして、客席数はそれほど多くなくて、スクリーンも大きいとは言えないけど、わりとお客は入ってるんだよ。


思えば、「吉祥寺だけが住みたい街ですか?」第1話、最初のセリフは、閉館されたBAUSシアターを重田姉妹が見てポツリと言う、「吉祥寺も終わったな」だった。分かるよ。ミニシアターの閉館ほど悔しいものはない。「結局カルチャーなんてないがしろにされるんだ。というか僕も、ないがしろにしてきたんだ。吉祥寺だって同じじゃないか」と、淋しくなってしまう気持ち。


だけど、吉祥寺にまたミニシアターが戻って、しかも、ちょっと繁盛してるっぽいんだぜ。時の流れって、面白いよな。


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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉖(理想の話し相手かもしれない)

2023年6月某日 「どこが面白いのか」が分からないと訳せない

相変わらず映像翻訳の添削仕事をチマチマと。「この翻訳は、よくできてるな」と思うような原稿はめったにない。というか、まったく何も伝わってこない原稿ばかりで、心配になったよ(人の心配してる場合じゃないんだけど)。


それぞれのセリフをなんとなく訳しただけで、「やり取りの流れ」とか「作品としての面白さ」とかがロクに伝わってこない。もちろん、受講生の人が翻訳や課題をナメてるんじゃなくて、必死でやってるのかもしれないけど。でも、3番のセリフと10番のセリフが矛盾していたら、それはナメてるのと変わらない(「ストーリーの流れ」とか「人物の性格や情緒」とか「ユーモアのセンス」とか、いろんな矛盾がある。矛盾というか、つじつまが合ってない、というか)。


映像翻訳、どんな素材でも(広い意味で)エンタメなので、「どこが面白いのか」が分からないと訳せない。自分の好みじゃなかったり、未知のジャンルだったりしても、「面白さを味わうための周波数」を合わせられるとうまくいく(合わせられないとうまくいかない)。


セリフの面白さ、掛け合いの面白さ、キャラの面白さ、ストーリーの面白さ、などなどはそれぞれ相互補完的なものなので、「この素材はこういう面白さなのか」と腑に落ちてないと、解釈も推敲もピントが合ってこない、と思いながら添削してた。腑に落ちないものを、どうやって腑に落ちる状態まで持っていくか。そのパターンを多く持てると、スピードも質もあがるんだろう。


まあ僕も、受講生の心配をしてる場合じゃない。添削ぐらいでしか翻訳に触れてないんだから、シンプルに実力もやせ細ってきつつあるだろう。とは言え、今のところはしょうがない、とブツブツグルグルと自分を甘やかしながら過ごしてる。ゆるやかに諦めてるけど、ダラダラと諦めてない。なにもやってないよりはマシでしょ、と。


6月某日 最寄りのローソンを思い出した話

昨日の夜、娘が「ローソンどこにあるか知ってるか」と急に言い出して。ああ、そういえば思い出せない。ファミマとセブンは普段の行動経路に何軒かあるんだけど、ローソンは普段使う範囲にはないような…。


「駅の近くに1軒あるでしょ」と娘が言う。ああそうか、確かにあるかも。昔、ジブリ美術館のチケットを発券した気がする。「なら知ってるんじゃん」と返したけど、「あのローソン以外のローソンを知りたい」という。


思い出せないのでgoogleマップで調べてみると、行ったことのあるローソンが2軒あった。そうか、子どもたちが通っていた幼稚園の方角に1軒、娘が通っていた英会話教室(コロナ以降オンラインになった)の近くに1軒。


「あ、わかった、ありがとう!」と娘は喜んでて。僕もちょっと盛り上がる。普段、「ローソンに行かないこと」なんて意識しない。ローソンはなくても、ファミマやセブンはあるからだ。それで、「何回かは行ったことがあるけど、それを思い出せないでいるローソン」があったことを思い出して、なんとなく面白い。確かに覚えてるんだけど、普段使ってないから無に等しい記憶の存在が(大げさに言うと)いとおしい。幼稚園の方向、当たり前だけどもうほとんど行かないわけであって。


それで今日、学校から帰ってきた娘が「今月のおこずかい」を要求してきて。おお、そういえばおこずかいの日だったか、と小銭を子ども2人に渡したんだけど。それで、「ローソンに行ってくるよ」と。ランドセル置いたばかりなのにもう出かける、という。息子と娘の2人で出かけていった。


ローソンから帰ってきて、ようやくどうしてローソンに行きたかったのかを話してくれた。娘が好きなYouTuberのグッズ(アニメ絵のクリアファイル)が、ローソンでお菓子を何円か以上買うともらえるらしい。その情報を友達から聞いて、実際にゲットしてきた、ということ。


「友達は駅前のローソンでゲットしたんだけど、もうほとんど残ってないらしかったから、別のローソンがよかった」「お菓子レジで買って、ファイルがもらえますか、って言えたまではよかったんだけど、ファイルもらったらお菓子忘れちゃって、店員さんに呼び止められた」とか、めっちゃうれしそう。


うれしかっただろうな、と想像する。友達から情報を得て、自分も「欲しい」と思って、調べて(父親に調べさせて)、ゲットしてくる。ちょっとしたドラクエじゃないか。なんというか、おめでとう。

 

6月某日 理想の話し相手かもしれない

読んだマンガ。

「吉祥寺だけが住みたい街ですか?」(マキヒロチ)…1~3巻。吉祥寺の不動産屋が舞台。吉祥寺に住みたいな、と部屋を探しに来たお客に話を聞いて、「それなら吉祥寺じゃなくて、この街がいいでしょ」と、別の街での暮らしを提案してしまうユニークな不動産屋さんの物語。いろんな街の紹介と、「住む場所を変える」っていうテーマで、訪れたお客の人生の一幕を読み切りで描く感じ。


不動産屋の重田姉妹(双子)、めっちゃいいな。「人生の節目に、こういう友達ほしいな」っていう憧れの話なのかも。お客の事情を踏まえるけど、同情したり、羨んだり、ジャッジしたりしない。部屋が見つかるまでの短い間、友達になってくれる、というような。


昔、部屋を探した時のこと思い出した(僕は人生で1回しかやったことないんだけど)。出せる家賃は最初に決めて、そこから先どうやって部屋を選ぶのかはすぐには思いつかなくて(考えたことなかったからね)。いろいろ考えた結果、「住む街の雰囲気」は重要だな、と思って。僕にとっては、「読書や執筆に使えそうな店がある」みたいなことはポイントだった(あまり意識してなかったし、恥ずかしくて不動産屋さんにそのまま伝えることもなかったけど)。


今だったら、どんな街に、どんな部屋に住みたいと思うかな。「海の近くに住んでみたい」とか「めっちゃ都会に住んでみたい」とかは思いつくけど、まあそれが本音なのかは自分でもよく分からない。実際その時になってみないと、具体的に考えるのは難しそう。


「どこに住みたい」って、自分の欲望(なりたい自分)を認めることだから、誰かに話したいけど、ちょっと恥ずかしい。そんな時、重田姉妹は、理想の話し相手かもしれない。

 


「ブルーピリオド」(山口つばさ)…7~10巻。6巻で藝大に受かって、7巻から10巻は藝大1年生の話。6巻までは「受験」というタイムリミットがあって、シロウトだったら八虎が絵描き修行をする展開は、スポ根のグルーヴが伝わりやすくて、マンガとしての快感がキャッチ―だった。なら、ある種の「燃え尽き」が生じる藝大合格後は、当然マンガとしても失速せざるを得ないんだけど。美術部、予備校の時は、「努力」でなんとかアートに食らいついていってたけど、大学に入って努力の方向を見失うフェーズを描く。


でも、それはそれでやっぱり面白い、というか。八虎の人物造形が秀逸なんよな。「チャラそうに見えてビビリ」「見栄っ張りだけど唐突に素直」みたいな。「過去の偉大なアート」とか「自分より才能がある同級生」とかとの向き合い方が正直なところがいい。「偉大とか言われても最初はピンとこない」「嫌われたり見下されたりするのは怖い」みたいな、「アート好きじゃない読者」でも共感できる性格してるのよ。


ところで、6巻までは主人公に自分を投影して(翻訳スクールに通ってたころの自分を思い出して)、感情移入してたんだけど、7巻以降は「うちの子が、美大に行きたいって言い出したらどうしよう」みたいな目線で読んだ気がする。


「受験のための絵画修行」だった6巻までは、「スタートが遅れたけど、やっと見つけたやりたいことだから、諦めるわけにはいかない」という点で、「30代の頃の僕と同じだ」みたいに読んでたんだろう。それで、八虎が大学に入って、作品作りのために試行錯誤して自己嫌悪して悪戦苦闘する7巻以降は、「やっぱアートって途方もないな」みたいなことで。ちょっと途方もなくて。僕自身が、今からその「途方もなさ」に立ち向かえる気もしないから、「うちの子が、途方もないことに挑戦したくなったらどうしよう」とか思ったのかもしれない。

 

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉕(何かがバグってる)

2023年6月某日 娘と作文

娘が、作文のテーマ「心の時間と時計の時間」について話してる。夢中になってる時はあっという間に時間が過ぎるけど、退屈な時はほんの少しの時間が長く感じる、みたいなエッセイをよんで、その感想をまとめるらしい。テーマを面白いと思ったのか、娘は妻に「自分でも時間の感じ方は場合によって違うし、他人と自分でも違う」ということを話して、それは書けそう、と言う。でも、最後の結びをどう書いたらいいか分からないらしい。


妻に一通り話し終わった後、今度は僕に話しに来る。さっき妻に話してたことは聞こえてたんだけど、先回りせずに娘が自分で言葉を見つけるのを待って、話を聞いた。ここは、興味を持って話を聞いてることが褒めてることと同じ、と思った。興味の持ち方を肯定して、一緒に面白がるイメージ。


何か、1つだけヒントをあげようと思って、でもそれがすぐには浮かばなかったんだけど。ようやく1つ浮かんだ。「それって、“時間”だけじゃないんじゃない?」と。「あ、虫のことが好きな人と嫌いな人がいるとかそういうこと?」「あ、虫の声がきれいに聞こえる時と、うるさいと思う時がある、っていう話?」おお、我が娘よ。なかなか反応がいいじゃないか。


「分かった、なんか書けそう」と言って会話は終わったんだけど。書いた作文、見せてくれないかな。パパ添削得意なんだけど、と思いつつ、ここは辛抱して、作文を見せたいと娘が思ったタイミングでいいかな、と思ってるところ。


6月某日 何かがバグってる

昨日モヤモヤしたこと。ある、見るのも苦しい動画が拡散されているとして。その内容に、怒りたい気持ちで拡散したり、騒動を面白がって拡散したりする人がいる。ツイッターでは日常茶飯事なので、今さらそれにモヤモヤするのもバカらしいんだけど、その拡散は、リンチに参加してるってことじゃないか。


それで、僕がイヤになってしまうのは、「この人たちを責めちゃいけない。同情すべきだ」っていう主旨でリツイート引用リツイートする人なんだ。それ、イジメを加速させてるじゃないか。「この動画を拡散させないでくれ」っていう主旨のコメントをつけて引用リツイートするのは、もう何かがバグってる。


ちょっと似てるけど。回転寿司店で、商品にいたずらする動画が拡散されて、その回転寿司店のイメージが大きく下がって、株価が下がったとして。その動画でいたずらをしていた少年に損害賠償を請求する、みたいなニュース。風評被害で株価が下がったんだとしたら、それって面白がって動画を拡散した人の責任は問われなくていいんですか。まあたぶん、そんな責任は問われようがない、と思ってるんだろうけど。

 

6月某日 生命力を「分からせてくる」

読んだマンガ。

「少女ファイト」(日本橋ヨヲコ)…1~18巻。講談社の「コミックDAYS」で全話無料という情報が流れてきて、1巻から読み直した。前読んだ時もだいたい同じこと感じたんだけど、変なマンガなんだよな。


「スポーツ部活もの」なんだけど、主人公がウジウジしてる取り合わせが「クセになる味」という感じ。説教くさいセリフ回しとエピソードなんだけど、後味はカラっとしつこくないのもいいな。うまいとは言えない絵も、それぞれのキャラが持ってる生命力を「分からせてくる」説得力のあるコマが時々あって、気づくと愛してしまう、というような。


(バレーの試合の展開を描くのはあんまり得意じゃないっぽくて、春高の本戦になってからやや失速してる気はしたけど、そんなこともないか)


「STRONG」(押川雲太朗)…1~2巻。それほど面白くもないだろうことは想像ついてるんだけど、Kindle Unlimitedに入ってるんだからしょうがない(いろいろ失礼)。まあでも、面白いんだよな。努力の継続(働くとか)が苦手なギャンブルジャンキー、好きなんだよ。いくらでも読めるよ。


「書店員 波山個間子」(黒谷和也)…1~2巻。読書マニアの主人公が、書店のブックアドバイザーとして、いろんな人にいろんな本を紹介する話。どうということのないマンガで、絵もキャラもエピソードもセリフもなにもかもが弱い。でも、じゃあつまらないマンガなのかというとそんなことは全然なくて、メインの「本の紹介」がいい。本の紹介も弱いと言えば弱いんだけど(なんというか、遠慮がち)、そこは「私はこの小説をしっかり理解してるか分からない」「この人がこの小説を気に入るか分からない」みたいな、そういう距離感があるのがいい。そうすると、他の部分の「弱さ」も、ひょっとしたら魅力なんじゃないかとなんとなく思えてくるのな。

 

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉔(人生のメタファーかと思った話)

2023年5月某日 人生のメタファーかと思った話

あっけないな。昔のノートパソコンを捨てたんである。それも2台も。それぞれ、動作が遅くなりすぎてたし(起動するだけで7分ぐらいかかる状態にまでなってた)、セキュリティーソフトも解約していたし、もう、触るのもダルい状態だったから、仕方ない。


それとは別に、使ってなかったテレビも捨てて。捨てるというか。リサイクル業者に、お金を出して引き取ってもらったのである。このテレビ、捨てようと思ってから実際捨てるまで、たぶん7年ぐらいかかったな。我ながら、「めんどいタスクの先延ばし」が情けないよ。


でも、一応言い訳も書いておこうか。テレビとしては故障して(地デジを受信するためのカードがうまく読み込まなくなって)はいたものの、ディスプレーとしては使える(DVDやゲームをつなげば使える)ので、「ひょっとして使う機会あるのでは」と思って、捨てずにいたのである。そして、「ひょっとして売れるのでは」とも思ってたんだよな。


まあでも、使わないし、売らないし、ただそのまま放置して、10年ぐらいすぎてしまった(おそろしや)。


「ひょっとして売れるのでは?」と思ってたので、近くの引き取り業者を検索してみたんだけど。「不用品買い取り業者」というのは「犯罪ギリギリ」みたいな悪徳業者も多いという怖い情報も目に飛び込んでくる。


どういうことか。「高価買取」などとうたいながら、いざ家に来ると「これは商品価値がないので値段がつきません」「むしろ引き取り料をいただきます」となる。それだけじゃなく、「他に不用品はないのか」などとなり、貴金属とかを法外に安い値段で買い叩かれる、みたいな商法がある(らしい)。うちに貴金属はないけど、もし買い叩く貴金属がなかったら、シンプルに僕が殴られるかもしれない(?)。


ネットの検索で、マトモな業者と悪徳業者を見分けることってできるんですかね。少なくとも僕には難しすぎて、1時間ぐらいで諦めました。結局、自治体の指定する公式業者に引き取りを依頼。出張料と廃棄料を支払いました。「ひょっとして売れるのではと思ってたもの」が、「お金を払わないと捨てられないもの」だと判明したのか。これ、人生のメタファーか。今はお金をもらって翻訳の添削をしてるけど、そのうちお金を払わないと誰にも話を聞いてもらえなくなることを覚悟しろってことですか。まあ、それもしょうがない。


PCの方は、妻も捨てたいPCがあったので、一緒に捨ててくれた。昔書いた短編小説、自主映画の編集データ、翻訳スクールの課題、さらば。なんというか、「もうどうせ見ることもないだろう。というか、見たくない」と思いながらも、「ひょっとしたら売れるのでは」とどこかで思ってきた僕の断片たち。成仏してくれ。

 

5月某日 「見守ることしかできない」というハラハラ感

読んだマンガ。


「ブルーピリオド」山口つばさ…1~6巻。3ヵ月ぐらい前に、どこかのサイトで最初の5話ぐらいを無料でよんでいて。気に入ってたので、また1巻から購入して。これは、すごく気に入りました。大変恥ずかしながら、美大(東京藝大)受験のための予備校に通う主人公に、映像翻訳のスクールに通い始めた頃の僕を重ねたりして(僕はそのころすでに30代だったんだけど)。


描かれている感情が、ことごとく2面性が描かれていて、エモーションに立体感がある。好きなものと出会って夢中になる興奮と、その怖さ。好きなことで人から認められた時の、うれしさと恥ずかしさ。作品に詰め込まれた感情が、薄っぺらくないんよ。なんだけど、展開自体はウジウジせずに前に前に進むドライブ感があって、グルーヴがある。カッコいいな。文化系の題材をスポ根の文体で描くの、引力がある。


「ひらけ駒!」(南Q太)…全8巻
「ひらけ駒!return」(南Q太)…全2巻

これは、1巻を途中まで読んだ時に、「めっちゃいいのでは?」と思った。「将棋に夢中になる人(自分の息子)」のことを、「すべては理解できないだろうと分かってる人(母親)」の側から描く感じが、すごく誠実で、じんわり来る味わいがあるな、と。


「主人公が葛藤して成長する」のがマンガの王道だとして、読者としては主人公に自分を投影して読むんだろうけど、このマンガでは、「将棋に夢中になって、負けて悔しがって、でも将棋に食らいついて」という小学生の息子の姿を、将棋のことはよく分からない(三手詰めの詰将棋が解けたり解けなかったりする)母親の目線から描くので、「葛藤と成長」を、「外から見守ることしかできない」という手触りがハラハラする。


巻数が進むなかで、何についての話なのかやや迷走する不完全な作品ではあるんだけど、その不完全なところも悪くない気がした。

 

「かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜」(赤坂アカ)…23~28巻。僕はこのマンガをすごく肯定したいというか、「いい作品だな、食わず嫌いしなくてよかったな」とずっと思いながら、断続的に追ってたんだけど(1年に1回ぐらいマンガ喫茶で最新刊まで読む、というような)、ついに完結まで読めた。恋愛(や人間関係)への恐怖や苦手意識をこじらせてしまった人たちに、「恋愛は怖くないよ」と励ますような作品。こじらせた人相手にメッセージを伝える時に、陽キャのテンションや文法で伝えるんじゃなくて、こじらせてる人の言葉で伝えてるのがいいと思う。

 

5月某日 「象の消滅」を読み終える

行きの通勤電車の中と、会社に着いてからの20分ぐらいでチマチマ読んできたハルキ・ムラカミの「The Elephant Vanishes」、最後まで読み終わった。短編集のトリは表題にも選ばれてる「象の消滅」。これは、まあすごい作品よな。


「象」が、何かの象徴なんだろうけど、それは言ったら野暮になるわけであって、言わない。「僕らの社会は、生きていくうえで大切な“ぬくもり”のようなものを失ってしまったのさ。あの動物園の象が死んでしまったように」とか書いたら、まるで台なしなわけであって。


ただ、象がどんな存在だったのかを描く。どのように消えた(と思われる)のかを描く。詳しく語ろうとすればするほど、なんについての話なのか分からなくなるのが面白い。そして、恋愛っぽい雰囲気になりそうになった女性に、「象」のことを話すと、関係がギクシャクするのも秀逸すぎる。


読み終わって、次に読みたい本もない。ああ、どこかに行ってしまった僕の読書欲。怒らないから、帰ってきてくれよ。


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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉓(「不幸のピタゴラ装置」が常に発動しがちな件)

2023年5月某日 「不幸のピタゴラ装置」が常に発動しがちな件

職場で、同じチームのBさんが明らかに不貞腐れていて、ちょっと心配なほど。あいさつの声が低く、電話対応のテンションも低く、端的に言うと安定して不機嫌。


職場でも、街中でも。不機嫌そうな人を見かけると、ヘタレな僕は、つい反射的に「僕のせいで怒ってるのかな」と考えてしまいがちなんだよな。なので、自分を守るために、「いい気味だな」と思うようにしています。「怒りっぽい人が怒るハメに陥ってるのか。ざまあ」などと思って、落ち着きを取り戻すんだけど(実際の対人関係よりも、電話のクレーム対応の時とかよく使う)。


で、「Bさんが不機嫌なのは、別に僕のせいじゃない」と思うことによって、やさしくなれる面もあって。「僕のせいじゃないなら、僕が対応する必要もないだろう」と思って、そっとしておいてあげられる、ということなんだけど。まあでも、その「不機嫌」な状態がもう1週間ほど続いてるので、さすがにウザいな、と思うようになってきた。


なんというか、職場のチームとか、家庭とか、学校の部活とかで。それぞれ「集団が許容できる不機嫌」って、限界があるんじゃないか。「これ以上、不機嫌が蔓延すると、集団が崩壊する」という一線があるんじゃないか。その、「不機嫌の許容量」を、1人で独占しちゃってるのである。ズルいじゃないか。


なにせ、大人の男が不機嫌なのって、近くにいると怖いんだ。「この人、もし暴れ出したら、僕は躊躇せず逃げるぞ。備品も同僚も守らない。まずは逃げる」みたいな警戒を強いられる感じ。おい、Bさんよ。不機嫌は内に秘めてくれよ。お互い人間性をよく知らないんだから(なんとなく想像はつくけど)、「敵意も武器も持ってない」って、示し合わないと、ダメでしょ。


と、徐々にBさんに対して腹が立ってきた。で、ここで僕の「争いを避けるヘタレだからこその機能」として、腹が立った分、「許してやろう」みたいな方向に心を持っていきがち。どうするか。心配して、同情するんである。


僕にも身に覚えがあるよ。オッサンなのに、非正規雇用で。若手社員や、電話をしてくるお客から、バカにされてるんじゃないか、ってひがんじゃうんだ。実際には何とも思われてなかったとしても、自分で自分のことをみじめに思ってるから、他人からもそう思われてるんじゃないか、と思い込んでしまう。負のマインドセットが強化される。「どうせオレなんて」という味しかしないガムを、噛み続けてしまう。


人生ムズいな、って思うのは、ちょっとした不運が不機嫌につながり、それが膨らめば不摂生や不健康や不仲や無理や無気力や無職に加速する、みたいな「不幸のピタゴラ装置」が常に発動しがちなところ。Bさんよ。大丈夫か。不機嫌は放置すると、借金みたく膨らむぞ。スキーのゲレンデで雪玉がデカくなりながら加速する、アレみたくなるぞ。


Bさんの態度には辟易してる。不幸が伝染してきそうで、怖い。いい加減にしてくれよ、と思ってる。でも、彼のことをどうこう思っても無意味なので、僕は僕で自分の不機嫌をいなしていくよ。完全には制覇できなくても、便所の個室に入って、音を立てないように気をつけながら放屁するように、なるべく気づかれないように不機嫌を消化する(次に個室に入った人は臭うかもね。でも、まあそのくらいお互い様じゃないか)。


Bさんに対してできることはない。その不機嫌に、気づかないフリをしてあげてるだけで、相当やさしいでしょ。君のことは嫌いだけど、ずっと不機嫌でいてほしいわけじゃない。不機嫌を克服したら、「よくやったな」ってちゃんと認めるよ。僕は、嫌いなヤツこそ、フェアに扱う。しっかり立て直してくれ。


5月某日 「RRR」見てきた

3月に、映画館の会員になって、「できれば週1回ぐらい行きたいな」と思ってたんだけど、子どもたちの春休み以来、映画に行くのは習慣化せず途絶えていて。僕は月曜と火曜が会社休みなんだけど、歯医者に行くと「ミッションをクリアした」という気分で、外出HPを使い果たした、みたいな流れになっちゃって。「映画館に行きたい気持ち」を「映画館に行くのはダルい」という気持ちが凌駕してしまう。


それで、というか。月曜と火曜、あんまり気分よく過ごせてない。添削仕事を片付けるんだけど、それぞれ2時間ぐらいで十分終わるはずなのに、ダラダラしてしまってノルマ達成が午後になってしまう。月曜と火曜ぐらいは料理をがんばろう(一品ぐらいは気の利いたものを子どもに食べさせたい)、という気持ちはこのころにはもうしぼんでしまっていて、「何もできなかった」と落ち込みながら1日が終わってしまう。


考えてみれば、添削仕事は一応済ませているわけであって、それを「何もやってない」扱いにしてしまうのは、お金を払って添削を受けている受講生の人に失礼なような気もするんだけど、何しろ、そういう雑な気持ちになってしまいがち、みたいなこと。


で、そういう雑に落ち込みやすい空気を換えるために、映画館に行くのはちょうどいいんじゃないか、とやっぱり思い直した。前の日に予約して、クレジットカードで決済も済ませてしまう。そうすると、添削には午前中の2時間しか使えないから、その時間で終わらせるよう集中できる。映画館に出かけて、スマホの電源を切れば、さっきまで「ここから出るのがめんどい」と思っていた日常が、「帰るのがめんどい」という地点に反転するじゃないか、と。


行ってきました、「RRR」。“ナートゥ”のシーンはYouTubeで見たことあって。それで、やっぱりそのシーンが一番面白かった(他のシーンがつまらないわけではない)。


夜、子どもたちと一緒にナートゥをYouTubeで見てたところに、妻が帰ってきた。それで、帰って来たばかりの妻にも、もう一度そのシーンを見せて、そのシーンまでのストーリーを説明して。「これ、ただのクセつよ面白ダンスじゃないからね。このシーン見てる時、観客としてはこのヒゲ男2人をめちゃくちゃ応援する気持ちで見てるわけよ。痛快さのタガが外れてる。興奮のダムが決壊する瞬間だから!」みたいに熱弁してしまって。そうか、自分が面白いと思ったことを大げさに伝える時が一番楽しいかも、とか思った。(だから流行したんだろう)


3時間の映画の一番面白いシーンを、先にYouTubeで見てしまってるのは、損なのか。しょうがないことなのか。YouTubeで見た時に想像した面白さの種類はだいたい予想どおりだったけど、その熱量は予想以上だった、というか。(まあ、「どうせ予想以上なんだろうな」とは思ってたので、そういう意味では予想どおりだったんだけど)

 

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉒(「まな板の上の鯉」を体験できるアトラクション)

2023年5月某日 「意思決定の手順」がナゾすぎる件を思い出した日

職場での「マスク着用」の扱いが、「業務命令」ではなく「個人の判断」となったので。マスクをつけずに働いてみる。これが、まあ、なんというか。うれし恥ずかしい、というか。やっぱりちょっと、落ち着かない、のである。


よく、ニュースで中学生が「マスク外していいって言われても、恥ずかしいし外したくない」みたいに答えるのを見て。「おいおい、空気読んで期待に応えた回答してんじゃねーよ」とか思ってたんだけど。あろうことか、僕もやっぱり、恥ずかしかったです。思春期気分長すぎかよ。


この3年間、「後から振り返った時に資料的な意味が出るんじゃないか」と思って、「コロナ禍ならでは」の感慨やエピソードはなるべくメモしたけど、この「会社でマスクを外してみた」というのが「うれし恥ずかしい」というあっけなさはなんとなく面白いな。


僕は、仕事中のマスク着用がイヤだったわけではないけど、どういう根拠で「業務命令」とできるのかは気になってた。何を根拠に、誰の責任で決めたことなのか。「マスク着用を求めます」という判断は自然な方針に思えるけど、「根拠」と「責任」があいまいだと、「どういう状況ならその命令は解除になるのか」がナゾすぎて、いつまで経っても解除されない、みたいな現象。本当は、あいまいでなく決まっていたことかもしれないけど、特に説明されたことはないから、それって同じことだよね。


もはやどうでもいい話だと思ってたけど、やっぱり気になるな。マスク以外でも、「飲み会は控えてください」みたいな通達。時期によって基準が緩和されたり厳しくなったりしたけど、ガイドラインみたいなのが常に出されていて。あれって何なんだろう。あの基準を破ったら罰則とかあるのか。でも、会社を離れているプライベートの時間、空間で、従業員が誰と食事しようと管理する手段がないから、シンプルに無意味なんじゃないですかね。


コロナ禍を通して、「恋人と会うな、キスやハグをするな」とまでは言われなかった気がするけど、「友人と飲み会するな」はどうして言っていいのか。その差はなんなのか。誰が決められるのか。「感染予防に努めましょう」はいいとしても、生活上の様々な行動の必要性とか、誰にも決められないじゃないか。


感染予防って、正確な知識がなく議論しても無意味だと思うんだけど、正確な知識を得てそれをアップデートするのって簡単じゃない。だから、慎重な判断になるのはしょうがないと思うんだけど。一度決まったことがなかなか解除されなかったのは、現象として興味深い。


やっぱり興味あるな。いろんな「決まりごと」や「方針」が決まるまでの「意思決定の手順」がナゾすぎる件。「全員が納得する決定」を共同体を構成する全員に配れない以上、その決定に至るまでの手順ってすごく大事だと思うんだけど、どうなのか。めんどいけど、興味を持ち続けようと思ってる。

 

5月某日 「まな板の上の鯉」を体験できるアトラクション

待ちに待った(逆の意味)、歯の治療の日。麻酔をして、口の中を何やらされる。口をずっと開けているのが大変だけど、特に痛いことをされるわけじゃない。でも、それはそれとして、怖いよね。「ウィーン」とか「ガタガタガタガタ」とか「シュー」とかいう擬音で動く機械類を次々とねじ込まれ、時おり焦げ臭いようなにおいもあったり。「まな板の上の鯉」を体験できるアトラクション。


怖いのよ。いつ、どのタイミングで人生で体験したこともないレベルの拷問が来るのか。痛みは麻酔できても、想像力は麻酔できてないからね。数年前に治療を受けてた時のことを思い出す。こんな時はオレはどうしてきたか。そうだ、エロいことを考えるんだ。なんというか、「恐怖」と「エロ」って両立が難しいような気がして、歯の治療を受けている時は、エロ妄想を楽しむといい、とかマジで思ってたんだった。


でも、情けないことに、都合よくエロ妄想が続かない。これはなんというか、ちょっとしんみりしたよね。ひょっとしたら、僕はあんまりエロくなくなってるのかもしれない。そんなことってあるのか。まだ現役のムッツリスケベだと思ってたのに、なんというか、中身が薄くなってるのかもしれない。


仕方ないので、村上春樹ごっこだ。TVピープルを見つけた時のように、パン屋に強盗に入ることを決めた時のように、近所の納屋をジョギングで巡回する時のように、諦めに近いテンションでただ「やれやれ」と思い続ける。でも、なかなか春樹の心境になり切れない。まだ修行が足りなかったか。いや、今からでも遅くないはず。頭の中で、呪文のように唱え続ける。「村上春樹。象の消滅。ハルキムラカミ。ジ・エレファント・バニシィズ」


なかなか疲れました。次に行く時には、頭の中で歌う歌を、決めていくといいかもしれない。

 

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【日記】マンガばかり読んでるうちに年を取る㉑(娘の感想文と僕の小規模な失敗)

2023年5月某日 娘の感想文と僕の小規模な失敗

娘が読書感想文(教科書の短編小説)を書くのにまごついていて、それを妻がもどかしく思ってる、みたいな場面があって。妻は、子どもの勉強にあれこれ口うるさく言う方ではないんだけど、「作文」には厳しいのが面白い。子どもの作文のよくあるフォーマット「○○しました。楽しかったです」みたいなのを見ると、「内容が薄っぺらい」と言うのだ。(まあ、確かに薄っぺらいんだけど、子どもの作文を評する言葉としてはいささかストロングよな。僕まで一緒に作文に口を出しては、子どもたちもウンザリだろうから、僕は傍観することが多いんだけど)


たぶん、娘がまごついてるのは、「感想文には、正解があるはずなんだけど、自分はまだ正解を習ってないから書けない」というような気持ちなんじゃないか。これは、なかなか由々しき問題かもしれない。自分で考えるのではなくて、答えを教えてもらうのを待つのが習慣になってしまっている(皮肉なことに、それは得意で成績はいいのだ)。なんというか、僕も心配になってきてしまった。


だけど、「正解なんて決まってないから、感じたことを自由に書きなさい」というのは、子どもに与えるにはちょっと雑な命題なんじゃないか、とも思う。だって、「正解がない」「自由に」とか言われても、「読めと言われたから読んだのであって、別に感想ないんだけど…」という話じゃないか。しかもズルいのは、教える側は、実は「正解」らしきものをいくつか決めていて、それに合致しない感想は「ちょっともう1回考えてみて」とか言うんである。子どもとしては、「めんどいな。正解があるなら先に言ってくれよ」とか、.1思っても当然じゃないか、と。


僕は娘に「一番好きなセリフか、一番好きな場面を選ぶ」「それが好きな理由を説明する」と、ヒントを出した。娘はとりあえずとっかかりができたようで、書き始めたようだ。


書き終わった感想文は僕は読んでなくて、でもちょっと迷ってる。娘としては、ああだこうだ言われたくないから見せないし、僕もああだこうだ言いたくないから見ないんだけど、ひょっとしたら子どものヤル気を削がないようにアドバイスができるかもしれなくて。それができるなら、「見せなさい」みたいに言ってもいいのかも。


書き終わった感想文は読ませてもらってないんだけど、「天気雨のシーンが好き」って教えてくれた。それで、僕は失敗してしまうのだ。もうちょっと反応を待って、娘に、自分の言葉で説明してもらえばよかったのに、即座に食いついてしまった。「それよ、それ。天気雨のシーンがポイントだよね。物語はさ、登場人物の心の移り変わりを読者に伝えるんだけど、どんなにうまく伝えても、読者は読むのがめんどくさいと人物のことを好きにならないよね。でもさ、空の様子とかで伝えると、詳しく説明してないのに、感情が伝わりやすいんよ。うれしさと恥ずかしさが混ざった気持ち、突然心が変わる意外性とか、天気雨の情景に合ってるじゃんね」とかなんとか意気揚々と話して。俺はアホか。それを子どもに言わせないと意味ないじゃないか。


修行が足りない。子どもにクイズを出されて、答えが分かっても、すぐ言っちゃうのはもったいないんよ。「いや、分かんないからヒントくれない?」でしょ。ヒントを考えるのって、めっちゃ難しいからね。そういう頭の使い方を子どもにはしてほしいじゃん。クイズはさ、どうせテレビとかで仕入れた問題なんだから。そんなに「パパ、答え知ってるよ」って言いたいか、っていう話じゃないですか。トホホ。


5月某日 家族でバイキングに行った話

ゴールデンウィークだけど僕は仕事。「24時間、365日」がコールセンターのウリ(企業がコールセンター業務を子会社化して外注するメリットの1つ)なので、コールセンターはゴールデンウィークもお盆も年末年始も稼働してるわけで。祝日でもスタッフを確保しようと、ちょっと時給も上がったりする。


僕は、もう20年以上もゴールデンウィークも年末年始も働いてる。20代の頃、演劇の公演やら自主映画の撮影やらでバイトを好き放題休んでたのにクビにもならずに続けられたのは、ゴールデンウィークや年末年始に働くことで、その穴埋めをしてきたからなわけであって。


まあでも、子どもがいてもそれを続けてるのはどうなんだ、と思わなくもない。「連休らしさ」は、いわば季節感みたいなもので、バカにしたらダメなんじゃないか、今は普段からちゃんと出勤してるんだから、子どもの学校休みに合わせて、僕も有給を使った方がいいんじゃないか、とか。


そう思いながらも、結局休まずに働いた。子どもたちも、「どこかに出かけるよりは家でのんびり」が希望なんである。そして、助かることに妹夫婦が家族で遊びに来てくれるんである。男の子が2人いる。うちの子どもから見ると「いとこ」で、うちの子らは、いとこたちと遊ぶのを毎回非常に楽しみにしているんである。「ちょっと年上のお兄さん」、うれしいよね。だいたいスマブラかマリオカートをやってるだけなんだけど。


僕が会社から戻ってくると、「いとこ」たちが子どもの相手をしてくれてるわけであって、なかなかありがたい。妹夫婦と両親は、テレビをなんとなく見ていて。テレビに映っているのは、高速道路の渋滞だ。「連休になると、絶対に渋滞の野次馬するよね」「まあ、だって今家にいる人たちが一番見たい映像でしょ」みたいな会話。この連休中に、子どもをどこかに連れて行くことをサボってる僕(のような人たち)にとっては、渋滞を見ると「やっぱり家がよかった」と思うのでうれしいんである。でも、ひょっとしたら今出かけてる人だって、渋滞のニュースは見たいのかもしれない。「こんなに苦労したけど出かけたんだぜ」みたいなテンションの上がり方だってある。


続いて、大型商業施設にもめちゃくちゃ長い行列ができてる様子がテレビに映って。そこで妹が、「ちょっと待って。私明日ここに行くんだけど」と。今まで対岸の火事だと思ってたのに、自分も同じ苦労を味わう側だったかと気づかされた流れが面白かったな。「こんなに混んでるなら行きたくないけど同人誌は買いたい」みたいなことをブツブツと言ってました。


夜は、両親と、僕ら家族と、妹たち家族でバイキングへ。うちの子ども、小学校高学年で大人とおんなじぐらい食べるのに半額なので、「得してる」と内心盛り上がったけど、よくよく考えれば両親がもうそんなに食べられないんだから、帳消しかもしれない。お祝いの食事ということで(食事代は両親が出したんだけど)、妹と相談してご祝儀を奮発したりした。新札をちゃんと用意して、ご祝儀袋に入れれば、現金だってなんか縁起がいい感じがしたな。

思った以上に喜んでくれて、それはなんというか、申し訳なかった(普段親孝行をサボりすぎてることを思い出して)。

 

5月某日 じんわりと勇気が湧いてくる

読んだマンガ。

「東京都北区赤羽」(清野とおる)…4~6巻。エッセイマンガだから、当然続くとテンションは落ちてくるんだけど、ある種のマンネリが出てきた方が面白い部分もあるのかも。「マンガ家として売れてない」みたいな悲壮感が薄まってきて、そこは残念(でも、無理に悲壮感を続けるのもサムいと思うので、ある意味仕方ないのかも)。

 

「達人伝 ~9万里を風に乗り~ 」(王欣太 )…1~9巻。たぶん3年ぐらい前にも読んだんだけど、また1巻から改めて。「スケールの大きさ」がいいよな。ストーリーテリングがちょっと隙がある(読んでいて、話の本筋がどこにあるのか分からなくなることが時々ある)ような気もするんだけど、それも含めて、スケールのデカさを感じていいんじゃないか。

 

最近聞いてるラジオ。

「SAYONARAシティーボーイズ」。これは30分番組で、週1回。シティーボーイズが「ひょっとしたら最後の番組かも」の意味で「SAYONARA」ということらしい。冒頭でラジオコントをやって、その後トーク。3人がそれぞれ日記を読んで、その内容にツッコんだりする。


これがですね、非常に面白いんである。面白いというか、じんわりと勇気が湧いてくる、というか。面白い。最近、なかなかラジオを聴く気になれずにいたけど(味は好きだけど胃が受け付けない、みたいな心境)、この番組は聴ける。なんというか、「粋」なんだよな(粋な人たちのことを「粋だな」と評するのは野暮だろうけど)。無理にウケようとせず、かといって枯れた感じを出そうとしてカッコつけてるわけでもなく。


20歳のリスナーから、「若いうちにした方がいいことは何か、アドバイスを下さい」というメールに、「セックスはした方がいい」と答えて、それってボケでもあり、マジでもあり、そのどちらでもない、というか。それで、「難しい本を読んだ方がいい」「でも、俺たちにそんなこと聞かない方がいい」「そんなんじゃ誰もメールくれなくなるよ」みたいなしゃべりをするんだけど。


これってすごくないか。若い人が、「説教してください」って言ってくれてたら、もうね、説教や自分語りを我慢できないよ。普通の老人だったら。それなのに、「特に言えることはない」って言っちゃうのな。肩の力の抜け具合がカッコよすぎる。で、肩の力が抜けてたら面白いのかというとそういうことはなくて、日々の生活へのまなざしに、不条理コントの作法がしみついている。面白いものを見つけようとする観察眼に手抜きはなくて(だって、それはもう身についちゃってるわけだから、肩の力が抜けていても手抜きはないわけであって)。


カッコいい老人たちが、楽しくしているのを聞くと、なんて勇気が湧いてくるんⅮなろう、と思う。憧れちゃうな。

 

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