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2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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NFLスーパーボウル53を見た

 


僕はこのブログとは別にNFL(アメフト)ブログをやってるので、スーパーボウルの話はそっちで書けばいいんだけど、でも日記的にこちらに。しかも1カ月以上経ってからだけど。


「アメリカで、一番ピザが売れる日はスーパーボウルの日」というトリビアがあって、僕は特に真偽を確かめてないんだけど、調べるまでもなく本当だと思う。みんなで集まってスーパーボウルを見る(視聴率40%以上のコンテンツって、今時すごくないですか?)。それでピザを食う。


7年ぐらい前からまあまあヘビーなNFLファンになった僕はと言えば、「漫画喫茶の狭く薄暗い個室で、酒も飲まずに見る」のがスーパーボウル観戦の定番になっている。なぜかというと、「観戦しているところを誰にも(妻とか)邪魔されたくない」という幼稚なワガママが理由であり(実際には妻は邪魔しないだろうけど)、もっと正確に言えば、「食いつくように観戦してる自分の姿を誰にも見られたくない」という謎の防衛本能がその理由だ。


僕が応援しているのは「ニューイングランド・ペイトリオッツ」で、ここ5年間で4回スーパーボウルに進出した「ド本命」のチーム。


8年前に、英語の勉強のためにアメフトの試合見てみようかな、と思ってBSの中継を見た時。解説の人が(多分)ペイトリオッツびいきで、「このチームの勝利にかける完璧主義はすごい」みたいなコメントを「ふーん、そうなのか」と思いながらゲームの推移を見守った時に、自分でも無意識に「このチームのすごいところを見てみたい」と、勝つところを期待しながら見たのがファンになったきっかけだ。


「インプリンティング(すりこみ)」である。「本命チームであるペイトリオッツが勝つだろう」という予想を聞かされて、他にこれといった情報を知らずに見ていると、自分でも気づかないうちに、その予想が期待に変わる。そして、期待どおりのことが起きると動物的な快感があり、それが繰り返されることを脳が求めるようになる、という。


なので、僕にとってのNFL観戦は、エロ動画を見ているのと本質的には変わらない所業なのであって、誰にもその姿を見られたくないし、ましてや自分の推しチームが出場する決勝戦となればなおさらである。


さて、スーパーボウルはどんな試合だったかと言えば、ロースコアの「我慢対決」のようなシブい試合。将棋で言えば「相手の狙いを事前にツブしあって、派手な手の出ない中盤戦の長い勝負」だったし、麻雀で言えば「お互いに決め手を与えずに、流局が続いて同点のまま南3局」みたいな。


スーパーボウルの前のカンファレンス決勝では、「若手MVP(QBパトリック・マホームズ)対絶対王者(QBトム・ブレイディ)の終盤第4クオーターでの点の取り合いからの延長戦決着」というマンガみたいな試合があって(将棋でたとえれば「詰めろ逃れの詰めろの応酬の果ての秒読みで、長手数の即詰めを逃さず絶対王者が勝利」)、それを超える展開はなかなかないはずなのに、「この手があったか!」とでも言うべき名勝負だった、ということ。(しかも、自分の応援するチームが勝ったのだから、言うことは何もないです)


長々と書いたけど、端的に言えば最高でした。来季も楽しみ。

 

 

(ファン以外には退屈だったとの評判もありましたが、ハイライトのリンクを貼っておきます↓)

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(NFLブログに書いた記事がこちらです。スーパーボウル47~52を紹介しています↓)

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本当は中立地(ニュートラル)なのに、アウェー(敵地)と思い込んでしまうことがあると気づいた話

 

あまり知られていないと思うんだけど、村上龍のサッカーエッセイはものすごく面白い。中田英寿がヨーロッパで戦っていた頃に、中田ヒデの友人だった村上龍は、「フィジカル・インテンシティ」という観戦エッセイでヨーロッパサッカーについてずっと書いていた。

 

アウェーで戦うために―フィジカル・インテンシティ III 知恵の森文庫

アウェーで戦うために―フィジカル・インテンシティ III 知恵の森文庫

 

 

そのシリーズが順番に単行本化されていたのだが、その中に「アウェーで戦うために」というタイトルがある。本の内容はもう覚えていないし、すごく好きだったとしても今後読み返すことがあるのかはよく分からない。でも、中田ヒデという人物が、「アウェーでも落ち着きを失わない強いメンタリティ」を持っているという印象は時々思い出す。


失礼を承知で素人ながらに比較すれば、本田圭佑には「必死に自己暗示をかけて、もがき苦しみながら獲得したメンタリティ」というイメージの「苦しさ」を感じてグッとくる。それに対して、中田ヒデは「冷徹に誰にも頼らずに考え抜いて、一番戦いにふさわしいキャラを獲得した」というイメージの「哀しさ」を感じてグッとくる気がする。

 

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上のリンクは、サッカー日本代表がはじめてワールドカップ行きを決めた「ジョホールバルの歓喜」の試合直後のインタビュー。この時のヒデのコメントがすごい。「もう練習したくないんで、よかったです」「まあ、代表はうまく盛り上がったんで、あとはJリーグを盛り上げてください」というもの。


普通ならそれが歓喜であれ、興奮であれ、号泣であれ呆然であれ、種類は分からないけど「感情が爆発」してもおかしくないシーンで、「まるで他人ごと」というようなクールすぎる受け答え。たぶん人生で一番大きなものが懸かった試合を、延長戦で勝った直後とは思えないような態度とコメント。


「アツい感情を表に出すことに照れがある」という部分も少しはあったかもしれないけど、それを考慮しても尋常じゃない。彼はこの試合で、想像を絶するような活躍をしていて、「絶対に勝ちたい」と誰よりも思ってたことは、プレーを見れば素人でも分かる。でも「その時の状況」に彼自身の感情が「1ミリも飲まれていない」ことが伝わってくる。すごいインタビューだ。

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さて、僕が気になっていたのは、村上龍でも中田ヒデでもなかった。「アウェー」という言葉の使い方の話。


この「ジョホールバルの歓喜」がちょうどわかりやすい例になる。恥を承知で書くけど、僕はこの試合を、「アウェーでの厳しい戦いに勝利した」となんとなく思い込んでいた。でも確認すると、事実は異なっている。「アウェー(敵地)」ではなく、「ニュートラル(中立地)」での開催だったのだ。

 

(参考記事↓)

【川口能活クロニクル】ヒデがいなかったらW杯には出られなかった――フランスW杯アジア最終予選・イラン戦 | サッカーダイジェストWeb

 


この試合の対戦相手はイラン。そして、試合の開催地ジョホールバルはマレーシアの都市。実際、日本人サポーターが相当数駆けつけ、「ホームの雰囲気」とすら言えたらしい。なのに僕は、中立地での試合だったことは完全に忘れて、「アウェー」と勝手に覚えていた。記憶の塗り替えである。


一番最初に挙げた僕自身のツイートは「世間一般、テレビなどでの誤用」を憂いてるような内容になっていて、実際僕自身はそういう印象を持っているけど、どのように誤用されているかを調べるのは難しい(というか面倒)なので、世間一般の話ではなくて、僕の誤解の例を引いてみた。以下も、僕自身の話として続けたい。

 

さて、僕がこの誤解を「根が深いな」と思うのは、「必ずしもアウェー(敵地)でもない状況なのに、なんとなく勝手にアウェーだと感じていること」が結構あるな、ということ。

 

先日もこんなことがあった。


妻が、「凧あげ教室」のチラシを写真で撮って、それを携帯に送信してきた。息子が行きたがってるから、土曜日(僕が子どもを見る日)に連れていったらどうか、と教えてくれたものだ。予約なしで、費用もほとんどタダ。ボランティアの人の指導で子供が凧を作り、作った凧は公園でそのままあげて遊べる。端的に言って、最高の教室である。


僕は、その教室が毎月1回行われてることを、実は結構前から知っていた。公園でチラシを見て、「いいかも」と思っていた。でも、なんとなく忘れていた。もっと正確に言えば、「子どもを連れていくのが面倒で、その教室の存在をわざと忘れたフリをしていた」。


この「忘れたフリ」というのは、ほとんど無意識的な防衛本能というか、自分でも気づかない程度の「わざと」なんだけど、僕はなんとなく「凧あげ教室」の存在が苦手で、脳内で「できれば避けたいもの」のフォルダにそれをしまいこんでいたことが分かった。


妻から言われて、「自分でも気づかないうちになんとなく凧あげ教室を避けてきた」ということを思い出したんだけど、「いや、なんとなく面倒なんだよね」とは妻にも息子にも言えない。とりあえず、「ああそうだね。今度行ってみようかな」と答えておいて、あわてて自分の心情を分析してみた。それで驚いた。僕は「凧がうまくあげられないこと」に、劣等感を抱いていたのだ。


年末年始になると、公園で凧あげをする親子がいる。僕らも、妻が通販で買った「お手軽おしゃれカイト」みたいなのを持って公園に出かける。でも僕は、凧あげができない。だから、子どもにうまく凧あげのコツを教えられなくて、なんとなくみじめな思いをしている。「子供たちよ、世の中には2種類の父親がいる。凧あげができる父と、凧あげができない父だ。残念なことに、パパは後者なんだよ」と内心思ってしまう。


でも、子どもたちは凧を持って走り回って、偶然うまくいった時だけ凧があがった状態でちょっとだけキープして、だいたいはすぐに落ちてきてしまうんだけど、凧あげはそんなものだと思って割と楽しんでいる。


そんなことが年に2回ぐらいあって、それ以外の時は凧あげのことなんて考えないから、僕はそのコンプレックスと対決せずに済んでいた。だけど、「凧あげ教室」の存在はそのコンプレックスを否応なしに思い出させるから、避けていたんだ。僕がなんとなくイメージしていた凧あげ教室は、「凧あげのうまいおじさん、おじいさんに偉そうに教えられる。子どもの前で恥をかきながら、ヘラヘラ凧あげを教わる」というかなりバッドなものだと、思い至った。


僕は上に書いた思考をたぶん15秒ぐらいで巡らせて、「オレの自己防衛意識、過剰すぎるだろ」とおののいた。ちょっとしたことに挑戦したくないばかりに、かなり無理やりに自我を守っている。

 

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悪いイメージを脳内で作り上げ、そんなものは避けて当然なのだ、と自己弁護的なストーリーを作る。それを自分で信じ込み、その上で、勝手なストーリーを作ったことを自分で忘れる。結果、「凧あげ教室のチラシ」は僕の中で「見えてるけど存在しないもの」になり、自分がそれを避けてることすら気づかなくなる。


ここまで意識を反芻して、ようやくそれは「過剰防衛だな」と気づく。凧あげ、凧作りに挑戦するのは息子だし僕が恥をかくこともないだろう。ボランティアの先生が偉そうな人というのは僕の劣等感が反射した思い込みだし、もし仮に本当に偉そうだったとしても、そんなことは気にするほどのことでもない。冷静に考えれば、そう思える。でも、「無意識で避けていた」という状態だと、そのことには気づけない。感情ではなく理屈で考え直して、参加することを決意した。生理的な恐怖心に打ち勝つには理屈しかない。

 

実際参加してみると、凧あげ教室は最高だった。凧あげの同好会のおじいさんたちはみんな謙虚で優しかったし、用意してくれた凧(息子はそこに絵を描いた)は、「コツを教わる」必要なんてないほど簡単に風をつかまえて空にあがった。本当に行ってよかった。自分でも気づかないほどの恐怖心で、行くのが面倒だったのは恐ろしいことだと思った。


実は、似たようなことがよくあるんじゃないか、と思う。本当は「アウェーでの戦い」でも何でもないことを、「アウェー」だと思い込んでしまうような精神性。でも実際に行ってしまえば、そこはアウェーじゃなくてニュートラルだと分かる。もっと言えば、「ホームの雰囲気に近い中立地」のことが多いんじゃないか。


マンガ「逃げるは恥だが役に立つ」では、高齢童貞、高齢処女が描かれている。社会問題と言っていいかは僕には分からない(社会として解決すべき話なのか判断できない)けど、共感を呼ぶのは理解できる。未経験な現実に挑戦するよりは、自分を騙して、騙したことを忘れてしまった方がいい。それは自然な自己防衛だ。でも、何にも挑戦しないままでいると、「成功と失敗の繰り返しの中で培われる自尊心」を獲得するチャンスを逃し続けてしまう。たぶん、世の中のそこかしこにそんな人がいるだろう。僕もそうだ。


僕は自分自身にアウェーで戦えるメンタリティがあるとは思えないし、それが普通だと思う。でも、「ニュートラルをアウェーと思い込むことをやめる」ぐらいなら、気をつけていればできる気がする。そんなことを思っている。

 

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今週気づいたこと(2018年7月①)

ツイッターにメモしたことを、週に1回振り返ってまとめることにしました。ツイッターは、もちろんウケ狙いでやってることではあるんですが、それとは別に「ちょっとでも何かに気づきたい」ということはあるので、振り返りながらまとめていきたいです。

<先週分はこちら>

<次週分はこちら>

 

 新しくできたセブンイレブン、オープンして2ヵ月で一度も行ってない話

自宅と駅を直線で結んで、ちょうど半分ぐらいのところにセブンイレブンができた。オープン前の工事中の時には、「お、ちょうどいいところにセブンできるんじゃん」と思って喜んでいた。帰宅途中に買い食いしたり、妻から頼まれたゴミ袋買ったりするのに、ちょうどいい、というようなイメージで。

でも、実際にオープンしてみると、避けてるわけでもないのに、1回も寄ってないことに気づいた。行きも帰りも、「なるべく信号に引っかからないで済むルート」かつ「車どおりが少なく、イヤホンでラジオ聞きながら歩いても危険じゃなさそうなコース」をなんとなく選ぶと、「位置的には真ん中」でも、「ルート的には絶対通らない場所」にそのセブンイレブンはあるのだ。

行きも帰りも、「絶対に決まったルート」があるわけじゃない。ツタヤにマンガを借りる(返す)時とか、「暑くて日陰をなるべく通りたい時」「雨が降ってて、なるべく商店街のアーケードを通りたい時」とか、ちょっとした条件で通る道は変わる。

でも、そのセブンの前は、ほぼ絶対に通らない。パチンコで、いいところに開いているはずのチューリップに、絶対に玉が入らないような設定になってるみたいに、僕はそのセブンには入らずに2ヵ月が過ぎた。もちろん、行くつもりで道を選べば確実に通れるんだけど、意識しない限りは無理。なんか不思議な感じがした。

きっと、無意識のうちに、ルートに入ってこない物ってたくさんあるはず。「読まず嫌いのマンガ」とか、「なぜか一緒に飲みに行かない人」とか。だから、自分の中のルーティンを、あえて変えてみると、無意識に避けてたものと出会える日があるかも、とかも思った。

 

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息子への誕生日プレゼント 

 

 
すでに別のエピソードで書いたことがあるんだけど。僕の友人Kに披露宴の余興にギターの弾き語り頼んだところ、快く引き受けてはくれたのだが、僕のリクエスト(ブルーハーツの「歩く花」)は歌ってくれなかった。「歌うのはこっちなんだから、気持ちを込められる歌を自分で選ばせろ」っていう理屈で。

<過去記事はこちら>

それがなんか面白くて、僕もなにかプレゼントをするときは、相手が欲しいもの、とかあまり考えないようにしている。

もちろん考えてもいいんだけど、結局何が欲しいかなんて分からずに、ドツボにハマったりするので。

退職することになったバイト仲間に、「ONE PIECE」の9巻だけを送って、「この巻が一番好きだから」って言ったのは7割ウケ狙いだったけど。

ONE PIECE 9 (ジャンプ・コミックス)

(↑Amazonのリンクです。9巻ピンポイント!)

 

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羽生善治さん、豊島将之さんリスペクト 

 

 本当にカッコいい人は、カッコよくなろうと思ってカッコよくなったわけじゃない気がする。例えば、「将棋を究める」っていうことの道のりの中に、「理」とか「理を超えた何か」とか「常人には理解できない負けず嫌い」とか「負けず嫌いを超えた何か」とかが含まれてるんじゃないか、きっと。

中田英寿さんのファンでした

 

中田英寿のファンだった。僕は村上龍も好きで、村上龍の「フィジカル・インテンシティ」(小説ではなく、中田ヒデを含め、村上龍がヨーロッパサッカーをずっと追いかけて書いていた連続エッセイ)は僕の大好物だった。

このツイートは創作でもなくて、かと言って事実ともちょっと違って、僕の「うろ覚え」で記憶に残ってる1コマ。

「ベルギーは、赤い悪魔でしたか」で聞こうとしている内容のあいまいさ、平凡さ、中身のなさ、みたいなことにヒデは容赦なくて、回答を拒否するというようなやり取り。

この質問の内容は、「手ごわかったです。でも集中して戦えました」みたいな、ありそうな答えを想定したものなんだと思う。そういう曖昧な考え方、表現の仕方では進歩はない、とヒデは苛立ってて、若い頃の僕はものすごく憧れたものだ。

(※ちょっと検索してみたんですが、記事や動画を見つけられませんでした。うろ覚えではなく、まったくの勘違いかもしれませんので、そこはすみません)

フィジカル・インテンシティ―日本サッカーが初めて世界に曝された (光文社文庫)

奇跡的なカタルシス―フィジカル・インテンシティ II 知恵の森文庫

アウェーで戦うために―フィジカル・インテンシティ III 知恵の森文庫

(↑「フィジカル・インテンシティ」Amazonの商品リンクです。村上龍か中田英寿かサッカーかどれか1つ好きなら絶対おすすめ)

 

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バイリンガルニュース、2年振りに聴き始めた

 

「バイリンガルニュース」というポッドキャストの番組が好きで、以前よく聴いていた。(「英語と日本語のバイリンガル会話で、ニュースを紹介してそれについて雑談する」というシンプルなスタイルの番組。英語勉強中の方はおすすめです!TOEIC800点以上ぐらいの方に適切なように思いますが、試しにチェックしてみてください!)

しばらく聴いてなかったのは嫌いになったわけじゃなくて、僕の通勤回数が減って、「行き帰りに聴くもの」にリストからギリギリ漏れてしまっていただけのこと。聴き始めたら、やっぱり面白かったので安心。

雑記ブログを書いている僕にとっても、お手本にすべき態度だと思った。情報の受け手となる人のニーズ(自然な、生の英語のリスニングを鍛えたい)をしっかりと意識して踏まえつつも、「価値」の中心にあるのは「世界への曇りないな批判精神」なんだと思う。

それができるならインディペンデントは最強だし、それができないのなら個人ブログなどやめてさっさと働けばいい、みたいなことを思って、勝手に尊敬している。

(バイリンガルニュースのマミとマイケルに書いたファンレター的な記事もあります↓)

安野モヨコさん、「バイリンガルニュース」のマミとマイケルへのファンレター - 鯖缶@3rd&forever

 

今日の記事はここまでにします。自分のツイートを見返して、もうちょっと考えてもいいのかもな、と思ったものだけ、あと少し貼り付けておきます。 来週もお楽しみに!

 

 

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ゲームを面白くする「ルール」について

例えばサッカーには「オフサイド」というルールがあって、このルールがなかったら、たぶんサッカーは全然違うスポーツになる。細かくシュミレーションするまでもなく、「中盤を省略した大味なサッカー」がスタンダードになるだろう。
バスケでも同じだ。30秒以内にシュートを打たないといけないルールがある(NBAでは24秒)。このルールがないと、少し差がついた試合では、勝ってるチームが延々とボールをキープして、まったく面白くない試合になってしまう。

このように、「そのゲーム、競技を面白くするために貢献しているルール」がある。というか、ゲームやスポーツの娯楽的な側面を考えるときには、すべてのルールは「面白さ」のためのものだと思う。でも、そのなかでも、「グッとくる」ものがある。思い出して、まとめてみたい。

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・GKへのパス禁止(サッカー)

バックパス・ルール - Wikipedia

サッカーでは、フィールドプレーヤーからゴールキーパーにパスをした場合、キーパーは「手でボールを扱っていい」という特権を行使できない。このルールがサッカーに付け加わってから、「勝ってるから、無理しなくていいや。ボールを取られそうになったら、キーパーに戻してやり直し」みたいな時間稼ぎができなくなった。

なので、ボールを奪おうとして前線からプレスをかける、みたいなことが有効になったはずだし、ディフェンダーはただ相手の攻撃を跳ね返す「強さ」だけでなく、中盤や前線の選手みたいなボールの扱いの「上手さ」も問われるようになった。

このルールになんで僕がグっとくるかと言えば、「1行ルールを書き換えるだけで、競技全体を相当エキサイティングなものにした」という功績の大きさを感じるからだ。

 

・モータースポーツにおける、ファステストラップ


ファステストラップとは - 大車林 Weblio辞書

サーキットをグルグルまわるレース。序盤でマシンにトラブルがあって上位入賞が見込めなくなったチームにも、狙える記録があって、それが「ファステストラップ」である(トータルのタイムではなく、1周のラップタイムを競う)。マシンの性能やチームの力をアピールすることができるので、周回遅れの車にも見せ場を用意することができるのがすごい。

 (↓amazonのリンクです。画像を拝借します・・・)

 

 

・麻雀の王牌(ワンパイ)

麻雀は、136枚の牌を使って遊ぶ。プレイヤー1人の手牌は13枚。そこに1枚引いてきて(「ツモる」といいます)、「アガリ」の条件を満たす14枚になれるか、または他のプレーヤーが捨てた(「切る」といいます)牌で、「アガリ」となれば他のプレーヤーに得点を払わせることができる。

ここでいう「王牌」というのは、「1回ずつのゲームで、使わないことに決められた14枚の牌」のことを指す。これは、なんというか。「神様に捧げた供物」みたいな感じがするのだ。各ゲームから、14枚は「お供え物」として、誰も使えないものとする。「気品」の感じられるルールなのだ。

自分がノドから手が出るほど欲しかったアガリ牌。相手がそのアガリ牌を見破って切らなかったのであればまだ諦めもつく。でも、その牌が「王牌」に眠っていた時の切なさときたら。詩を詠まずにはいられないような情緒がある。「もとからアガる見込みのない手だったのに、それに気づかずに指に力を込めて無駄ヅモを繰り返していたなんて・・・!」

麻雀の面白さは、「最善を尽くしても勝つとは限らないこと」にある気がしていて、それを象徴する存在として、「王牌」があるのかも、と思っている。

(↓amazonのリンクです。画像を拝借します・・・)

麻雀牌 『役満 鳳凰』

麻雀牌 『役満 鳳凰』

・アメフトのボールの形

このブログでは、僕は随所でNFLのファンであることを小出しにアピールしている(というより、何かの例を出そうとするとアメフトになってしまうから隠せない)ので、ここでもアメフトから何かひとつ取り上げないと、と思って考えた。でも、これが難しい。細かいルールの集成であるアメフトから、どの要素を1つ取り出してきたらいいものか。

考えた結果、「あのボールの形」が最もドラマを演出しているのでは、ということになった。ラグビーボールと同じ形(やや小さくて、片手でも投げられるのが特徴か)。フォーメーション(プレーごとの陣形)やら、プレーコール(プレーごとのサイン)やらが細かく決められて、「屈強な男たちを使った即興カードバトル」のようなアメフトにおいて、緻密な戦術が見所であるのは言うまでもない。でも、ここであのボールの形がドラマをもたらすのだ。

チーム全体のフォーメーションの読み合いと化かし合い、個人同士の体術と技術の戦いに勝って、ディフェンダーがQBにタックル。ボールを弾き出したとする。ここまではチームと個人の実力だ。しかし、弾き出されたボールがどこに転がるかは、「運命」としか言いようがない。その、絶妙な味付けには、「一流の演出家」の存在を感じずにはいられない。転がりやすく、手につきにくいボールを必死に追う男たちを、運命が弄んでいるように見えるのだ。

 

世の中にあるいろんなルール。ちょっといじるだけで、ゲームが面白くなったり、つまらなくなったりする。他にもいろいろあるので、近いうちに続きを書こうと思う。

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ツイッターを始めた僕が、1ヵ月の間に感じたこと

ツイッターを始めたのが1ヵ月前、というと実は少し語弊があって、実際には結構昔から、NFL(アメフト)の情報を仕入れたりして、「気楽にできる英語の勉強」みたいな感じで使っていた。
でも、1ヵ月ぐらい前から、アカウントを作り直して、自分でもツイートしてみるようになった。そして1ヵ月。だいたい以下のようなことを感じた。思い出しながらまとめておきたい。

 

 

①中毒性ハンパない

僕はもう10年ぐらいタバコを吸ってないけど、ツイッターって、タバコとよく似ている。通勤電車内とか、電車と待つ時とか。会社の休憩時間とか、昼メシ注文してから待つ間とか。短い細切れ時間に、ついつい見てしまう。その間は、情報量に頭が麻痺する感覚があって、なんとなくリラックスできる気がする。すると、いつのまにか、ツイッターを見ると自動的にリラックスできるんじゃないかと頭が錯覚して、家でPC作業とかしてる時にも、「あとちょっと進んだらツイッター見てOK」みたいに、「禁断症状を我慢してる状態」みたいな気がしてくる。
自分でツイートを発信するようになって、ツイッターは間違いなくより面白く感じて、「ツイッターの面白さを知らないなんて人生損してる」とすら半分ぐらい本気で思う。

 

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②誰でも対等なのがすごい

例えば、年齢とか、社会的な地位とか、ツイッターの中ではあまり意味なくて、「パソコン通信の初期に、愛好家たちが感じた興奮」みたいなことって、この感じと似てるのかな、と想像したりした。

有名人のほうがフォロアーも集めやすいとか、「ずっと続けてる古参の人」の発言はある程度尊重される、とか、そういうこと多少の既得権はあるかも知れない。でも基本的には、面白い内容のことを発信すれば、誰が発信してようがあんまり関係ない。この感覚には、大げさに言えば僕は「救われる思い」がした。

例えば、この「はてなブログ」という場だって同じなのかも知れない(有名人でなくても、面白い記事とか役に立つ記事は注目されることがある)けど、ツイッターのほうが、「対等さ」をはるかに実感しやすいということ。

僕が公園でちょっと面白い光景を見て、ちょっとしたツッコミとともに紹介したら、瞬く間に拡散されて驚いた。ツイッター上級者にとっては当たり前のことなのかも知れないけど、僕にとっては「のべ2500人がタイムライン上で目にした」というのは十分に興奮するに足る数字で、恥ずかしい話だけどちょっと気をよくした。

中学から高校にかけて、引っ込み思案でクラス内でほとんど喋らずにいた僕は、大学に入ってから自分で劇団を作って、自分の内向をぶちまけていた。。あの頃、ツイッターと出会ってたら、多分劇団は作らなかったような気がする。(それがいいことなのか悪いことなのかは不明だけど)

 

③みんなで書くデスノートみたい

DEATH NOTE モノクロ版 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

(↑アマゾンのリンクです)

マンガの「DEATHNOTE」は、「そのノートに名前を書くと、名前を書かれた人は死ぬ」という死神のノートの話だ。そのノートを正義感の強い高校生が拾う。彼は独善的な正義感を暴走させ、ノートを使って世の中を支配しようとする、みたいなストーリー。

このツイッターというメディアでは、名もない一般人が発信した内容が、タイミングや内容によってはあっという間に広まる。場合によっては誰かを社会的に抹殺してしまう、ことがあるかもしれない。

僕の大学時代の友人には、ツイッターのサービスが開始されるはるか前に、「ツイッターもどき」をやっていた男がいる。僕が大学に入った頃、周囲で携帯を持ってた人間は1割程度。大学を中退(入学から4年後)する頃には、多分7割ぐらいの大学生が携帯を持っていたと思う(逆に言うと、まだ携帯を持っていない大学生もいくらでもいた)。そんな頃彼は、自分のホームページの日記(当時は「サイト」ではなく「ホームページ」、「ブログ」ではなく「日記」と言ったものです)を、「携帯から更新する」ということをやっていた。「山手線なう」みたいなことを、僕の知る限り時代を5年ぐらいは先取りしてやっていた(僕自身が40歳を超えた今になってツイッターを始めるぐらいの「情報音痴」だから、実際には似たようなことをしてた人はたくさんいたのかもしれません)。でも彼は、巨万の富は築けなかった。彼自身も認めていたが、彼は「自分の小ネタを発表できていれば満足」であって、「誰かと共有しあう」という発想はなかった、というのだ。
「リツイートしたい」という気持ちも、「リツイートしてほしい」という気持ちも理解できなかった、というのが彼の弁である。

この、「リツイート」がすごい。自分に何も発信するネタがないときも、「何かに」参加してる「気分」になれる。タイムラインとの組み合わせもエグい。ツイッター中毒になって(①)、1回か2回何かでウケると(②)、フォロワーのタイムラインに頻繁に自分を登場させておかないといけないのでは?という強迫観念が訪れる。そんな時に、「拡散すべきかも」というネタが来ると、リツイートせずにはいられなくなってしまう。

キャッチーな動画と一緒に、わかりやすいストーリーで、「Aは許せない」となると、あっという間に「つぶやき」ではなく「大合唱」になったりする。

 

④わかりやすいほうが勝ち

ここで思うのは、「微妙な気持ちを遠慮がちに表明したツイート」は、端的に言って弱い、ということ。これは、世の中では普通のことなので、別にツイッターのダメなところ、とは思わない。

ツイッターに限らない一般論として僕がよく思うのは、「思い込みの強い人間のほうが声がデカい」ということ。

例えば職場で、「会社っていうのはチームなんだからさ。団結力が大事でしょ。飲み会参加しない新人とか、俺には考えられんよ。ガハハ」みたいな上司がいたとする。そんな人に限って、考慮に入れるべき条件をナチュラルに突破して、自分の考えに自信を持っていたりする。

僕は、そんな上司は個人的には嫌いだけど、「チーム戦の定義が曖昧」「団結力がなくても勝てるチームあるかも」「飲み会で団結できるか疑問」「飲み会で形成した団結力が仕事に生きるかは別問題」「新人が飲み会に来ないのは団結したくないんじゃなくて、あなたが嫌いなのかも」とかはなかなか言えない。

上司だから遠慮してしまうとかでもないし、どうせわかってもらえない、という諦めとも違う。単に、「とっさに言葉が出てこない」のだ。「ひょっとしたら、こういう人がいたほうが組織ってのはうまく回るのかも?」とか、「口では単細胞みたいなことを言ってるけど、考え抜いた上でバカのフリをしてるだけなのかも?」とかの可能性をまずは考えてしまう。上司のガハハに負けない声のボリュームで、「そうとは限らないでしょ!」ととっさに言える自分はなかなか想像できない。

ツイッターで出回る批判の部類が、すべて短絡的な思考とは思わない。「何の権力も持たない一市民が、考え抜いた言葉と柔軟性のあるユーモアで新しい何かを問題提起できる」みたいなことも、十分あり得ると思う。でも、「短絡的だからこそ自信満々な強い言葉」が、「反射的な拡散」で広がりやすかったりするな、とは思う。

ところで、マンガ「DEATHNOTE」の話に脱線してみる。面白いマンガであることは間違いないし、僕も推理バトルを夢中になって読んだ1人だ。でも僕は、ストーリーの中で「冤罪で誰かを殺してしまう」という危険性が特に取り上げられなかったのは不満だった。主人公は、テレビの情報などをもとに、極悪人の名前をノートに書いて裁いていく。当然、冤罪であったり、罰が重すぎたりするようなことも簡単に起こり得るだろう。だから、社会的なテーマとして冤罪の可能性にも触れてほしいというよりは、エンターテイメントとしても、主人公が冤罪の可能性にどうやって折り合いをつけたのか、というくだりがあったほうが面白いのでは、と感じていた。

ツイッターの話に戻る。僕のやってるアカウントは、NFLファンとして、アメフト情報に特化したものだ。アメフトを好きな人ばかりフォローし、アメフトに関することばかりツイートしていた。

なので、「悪質タックル問題」については、ワイドショーで取り上げられるよりだいぶ前に、動画を目にした。(というか、テレビでどのように取り上げられているかは見ていないのでよく知りません。爆笑問題さんの深夜ラジオのネタコーナーに寄せられた投稿で、時事ネタとして出てきていたので、相当流通したんだろう、と想像します)

僕は、あのタックルを見て、「すごいもの見たな」「見てはいけないものを見たな」というようなことを思った。僕は、NFLをネット観戦でずっと追いかけているだけで、国内の大学リーグについては何も知らなかった。NFLの放送(現地のテレビ放送のストリーミング)よりも引きの画で、NFLの選手よりも国内の大学選手は線が細く、グラウンドが広く感じる。だから、妙に生々しい映像に感じたのだ。

NFLは、僕にとって別次元の、別世界の人々がやってる、「架空の生物たちのプロレス」みたいに感じていたんだな、と今では思う。「国内の大学生選手の映像」は、自分と同じ人間という感じがする。(これは、スポーツとしてNFLのレベルが高い、とかそういう話をしたいのではなく、僕が感じたリアルな恐怖感を再現したくて、下手な例え話をしています)

なので、「あのシーン」の印象は、「駅のホームで、誰かが誰かを線路に突き落とそうとしたのが、偶然カメラに映っていて、それが流出した」みたいな感じに近かった。

僕は、ツイッター上であの動画を見て、「何かコメントを付けてリツイートしよう」と、やはり反射的に考えた。でも、結局はスルーした。「故意にしか見えないけど、これだけじゃ判断できないな」と、これも反射的に思って、とりあえず判断を保留した。

そして結局2日後ぐらいに、「故意だと思うし、もしも故意じゃなかったとしたら、ある意味さらにひどい」と思うに至った。これは、2日間ずっとこのことを考えていたのではなくて、たぶん真剣に考えれば5分ぐらいでそういう結論に行き着いたと思うんだけど、特に考えてなかっただけのことである。

で、この時には、僕は「今更何か意見を言っても別に面白くないな」という非常に個人的な理由で、直接的なことは何も発信しなかった。あの行為が許されてもいいとは思わないけど(というか許されるべきじゃないと思います)、炎上の行き着く先がよく分からなくて、あまり参加したくないな、と思ったから。(この記事を書いた時点では、選手や監督、チームへの具体的な処分は決まっていません)

「有罪」と「無罪」のどちらに票を入れるか、なら「有罪」に票を入れるけど、「適切な量刑」は僕には分からない。「4試合出場停止」「3ヵ月出場停止」「1シーズン出場停止」「退部」「永久追放」とか、どのレベルの罰を誰に与えるのが適切なのかはよくわからないし、特に考える義理もないな、みたいに感じたりもした。行き過ぎな罰が加えられる(かもしれない)のに、それに参加したくない、ということだ。

(じゃあここで書いてるこの文章は何なんだ、騒動に参加してるじゃないか、という自分ツッコミもあります。ただ、この文章は「拡散しやすいキャッチーな強さのある文章」ではないと思うので・・・要するに主観的な気分の問題です。また、ツイッター上で早くから問題を広めた人々を批判するつもりもありません。問題を露呈させるのを早めただけなようにも思います)

 

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⑤ブログ頑張れよ

かと言って、今回の騒動を体験して、ツイッターが嫌になったかというと、実はそうでもない。ツイッターがこの世に生まれるはるか前から、「キャッチーな批判や無根拠な願望を短絡的にリツイートする人」はいくらでもいたわけだし(「魔女を殺せ」とか?)、「短絡的ではない思考」を、シンプルに表現できる実力のある人もたくさんいることもわかったからだ。

(「あの大学から、俺の好きなNFLのチームに入団する選手とかいないし、どっちでもいい」という主旨のことをツイートしてる方がいて、僕はとても感銘を受けました。本来「どっちでもいい」以上のことを思わないはずの通りすがりのヤジ馬(僕もそう)が、「自分が気持ちよくなりたいだけの便乗的な義憤を垂れ流すこと」を、皮肉を込めてシンプルに指摘したものと思います)

即効的に問題を広めるのに、ツイッターはすごいパワーを持っている。だからこそ、「結論の出ない問題を、ネチネチ考える」みたいなことが、ブログでできたらいいな、と思ってこの記事を書いた。だから、開き直るわけじゃないけど、はっきりした結論はない。

「ツイッターの面白さを知らないなんて人生損してる」と最初に書いたけど、一方で、「ツイッターの面白さを知らずに済むのなら、それはもはや得がたい財産だ」とも、思ったりもしている。

 

(最後まで読んできただき、ありがとうございました!)

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アメフトの面白さを、将棋に例えて説明してみる

NFL(アメフト)が6年前ぐらいから好きで、雪だるま式にハマっている。そうすると、NFLの面白さを、ムズムズと伝えたくなる。面白さを伝えるには試合を見てもらえばいい(というか試合を見てもらうしかない)のに、それでも言葉で面白さを伝えたい。

僕は子どもの頃から将棋が好きで、中学から高校にかけては相当指した。将棋部に入ってるわけでもないのに、一日平均2局は指したと思う。ネット将棋が普及する前としては、なかなかコクのある数字だと思う。

将棋好きの人はみんな、心のどこかで「世の中で最高の趣味は将棋」だと思ってる節がある(何のオタクでも似たようなものかもしれませんね)。でも普段、そのことを特に口にすることはない。将棋好きであることに十分満足しているので、あえて自慢したり、アピールしたりする必要がないからだ。

でもある日、僕は会社で油断して、周囲を戸惑わせてしまうことがあった。11人のチームのうち、当日欠勤が2人出ることが分かった。バイトリーダーの僕は、チームのみんなに朝礼で注意点を伝えて、最後に「今日は○○さんと●●さんがお休みで、うちの班は飛車角落ちの状態ですが、いつもどおり張り切っていきましょう。よろしくお願いします!」みたいにあいさつして、チームのメンバーも「お願いします」と返してくれたのだが、なんとなく僕の期待した盛り上がりはない。業務開始後、しばらくして隣の席の後輩に、「飛車角落ちって、なんですか?」と聞かれ、ようやく悟った。「飛車角落ち」って言葉、意味が通じてなかった・・・

(ちなみに飛車角落ちの意味は・・・
① 将棋で、実力に差のある相手に対して、飛車と角行を落として勝負すること。
② 転じて、中心的な戦力となるものを欠いて勝負に臨むこと。 「エースと四番打者の欠場で、-のまま惜敗した」
大辞林より)

(僕は、休んだ2人を「主力メンバー」として、その場にはいないけどちょっと持ち上げたつもりだったのに、通じていなかったのです。トホホ)

 

僕に「飛車角落ち」の意味を聞いてきた後輩は、アニメ、マンガ、小説好きの雑学好きだったので、なんとなく聞いたことのある言葉の意味を知りたくて、聞いてきた。雑学好きの彼に意味が通じないのなら、他のメンバーは言わずもがな、である。

僕は、自らを恥じた。会社の朝礼というのは、「話す人」と「聞く人」があらかじめ決まっている。いわば、「話す人」は、全員から時間を預けられてそれをどう使うか決められる「権力者」の立場にいるわけだ。で、あるならば、権力を使い方には慎重でなければいけない。便宜上、「注意点を伝える」というタスクが僕に託されているだけであって、僕がみんなより偉かったり、優れていたりするわけではない。もし、そう思うのであればそれは大きな勘違いだ。
「会社の朝礼において(つまらないから聞かない、という行為が聞く側に許されない場にも関わらず)、みんなの知らない言葉を使って、自分だけ面白いつもりのことを言う」なんて、まさに愚行である。

さて、そんな自らの愚行を省みながらも、「NFLの面白さを、将棋に例える」という、「まったく話がわかりやすくならない例え話」をしてみたい。

 

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NFLのチームは、登録できる選手の人数が決まっている(53人をチームの選手として契約し、そのうち試合に出られる45人を選ぶ)。「他のスポーツに比べて、かなり多い!」と一瞬思うが、実はそうとも言えない。フィールドに出る選手は11人。アメフトでは、オフェンスの選手はオフェンス専門、ディフェンスの選手はディフェンス専門なので、「先発選手」は22人。キックを蹴る人、パントを蹴る人、キッカーにボールを投げる人、というような専門職も45人の人数に数えるから、実は控え選手は各ポジションに一人ずつ用意できるわけではない、ということ。

それでも、かなり多いんじゃない?とも思えるけど、そうでもない。アメフトの各ポジションは、求められる役割が異なるので、例えばオフェンスのラインマン(クォーターバックの前で城壁になりクォーターバックを守る人)が調子が出ないからといって、ディフェンスのスター選手をオフェンスで起用などは、まずない。

それに、アメフトは大変ケガの多い競技だ。毎試合、必ずと言っていいほど誰かがケガをする。開幕時の先発選手全員がそのままシーズン終盤まで無傷でいるなんてことは、あり得ないのである。

そう考えると、「53人のロースター枠」というのは、各チームに綱渡りのチーム運営を要求する、なかなかエグい人数設定であることが分かる。それに、サラリーキャップがある。選手に払う年棒の上限が決まっているので、どんなに金持ちのチームでも、スター選手を買い集めることができない。

だから、各チームは相当に知恵を絞ってチームを構成するし、そのことを知ってるファンはドラフトを楽しみにする。

2015年のシーズンで、僕の応援するニューイングランドペイトリオッツ(いわば本命チームで、ファンもアンチも多い)は、開幕から10連勝を挙げた。レギュラーシーズン16試合のうちの10連勝だから、第1シード目前である。しかし、ここからチームは2勝4敗と失速する。ケガ人が続出したのだ。

僕は、NFLも将棋も知らない妻に訴えた。「飛車、金、銀、桂、香がペイトリオッツの盤面から神様に取られたんだよ!」「大駒が活躍するよりは、配置と用兵の上手さで小駒を活躍させて勝つスタイルだけど、さすがに厳しいよ」特に迷惑げな表情を見せなかった妻に、僕は続けて訴える。「でも、ある意味、そこが面白いわけよ。シーズン前から、駒を選んで、交換して、対局ごとに相手を研究して矢倉でいくのか、振り飛車でいくのか、さんざん考えて戦法を工夫する。それなのに、ランダムに駒が吹っ飛ばされる」伊集院光さんの深夜ラジオのファンである妻は、突然始まった結論のない例え話に耐性ができてる。僕は続ける。「想像してみてよ。羽生さんと森内さんが早指しで対局してる途中に、ランダムにフィーバータイムが発生して、一部の駒が吹っ飛ぶわけ。そんで、さっきまでの戦術の意味がなくなるんだけど、対局は続けなきゃいけない。次にフィーバータイムがいつ起きるかわかんないから、結局今ある駒でまた戦術を練り直すわけよ」と。

 

僕が言いたかったのは、多分こんなことだ。「最善の準備をしたとしても、それが無意味になってしまう不条理は起こる。でも、だからこそ、そんな不条理をある程度計算に入れて準備をするし、起きた事態にアドリブで対応していくことも求められる」「報われるとは限らない準備を、どれだけできるかを試されるチームを見て、その成否を見守るのはハラハラする」というような。(結局、将棋の例え話はどうなったんだ、と我ながら思います。すみません)

多分、モータースポーツとかでも同じだろう。全然詳しくない僕でも、ピット作業を見るだけで、「ほとんど神業レベルの完璧な準備」を各チームがしてきてることは分かる。でもレースでは、雨が降ったり、他のチームの事故に巻き込まれたり、「計算外」のことが必ず起こる。「自己主張の強いスーパースター的なメンタリティで勝負に臨み、でも全員がチームプレーにて撤しないと勝てない」みたいなところもアメフトと似てる気がする。

 

僕にとっては、「運命の皮肉を、知恵と努力で乗り越えられるか」という図式が、NFL観戦の妙味なんだと思う。

 

さて、ここまで書いておいて、やや不謹慎な書き方をしたかな、という反省もある。まるで選手のケガを楽しむようなことを書いたからだ。その点について、言い訳めいた蛇足を加えておきたい。

僕はファンとして、選手がケガをすることはもちろん喜んでないし、ケガはしないで欲しい。でも、「ケガが避けられないほどの危険いっぱいの肉弾戦」は、正直言うと楽しんでいる。ひいきチームの相手QBがボールを持ってる時にタックルが決まれば、夜中の3時に、(隣の部屋で寝ている子どもを起こさないように気をつけながら)ガッツポーズをしてしまう。

ただし、僕がハラハラするのは、「選手たちが命懸けで戦ってること」であって、「実際に命を落とすこと」ではない。伊集院さんがラジオで言っていたことをパクると、「ハラハラを楽しむためのジェットコースターで、本当に死人が出たら絶対に楽しめない。スリルを味わうためのものこそ、普通よりはるかに厳しい安全基準がないといけない」ということ。(別にアメフトに対しての言及ではなかったのですが、記憶に残っています。うろ覚えなので、細かい部分は違うかもしれません)

「最高に体を鍛えた選手が、ルールと対戦相手を厳しくリスペクトして戦っている。危険と隣り合わせの競技だけど、その過程で起きる不運には、打ち克ちたい」というストーリーを信じさせてくれるからこそ(信じるかどうかはファンとしての勝手な都合ですが)、僕にとってNFL観戦はやめられない娯楽なのだ。

 

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マンガを超えたな、と思ったスポーツ話②

大谷翔平選手、羽生結弦選手とか、「マンガとしか思えない」スター選手の活躍について、語りたくなってしまうファン心理。僕にもあります。ちょっと甘やかして、語ってみました。


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 (↑この記事の第2弾です↑)

 

マンガみたいな人①トム・ブレイディ(NEL。ドラフト199位からのGOAT)

5年前ぐらいに、英語の勉強のつもりでNFLの記事を読みまくってた時があって、やたらGOATという言葉が出てきた。

ん?goatって、ヤギなの?とか思ってたら、greatest of all timeだった。

その時の文脈では、「ブレイディとジョー・モンタナはどっちがGOATか?」みたいなのが多くて、スーパーボウル5回出場で3回優勝だったブレイディと、スーパーボウル4勝0敗のモンタナを比べて、「いい勝負だけどややモンタナ」という記事が多かったように記憶している。

 

その時から今に至るまで、ブレイディはスーパーボウルにさらに3回出て2回勝ち、トータルで「8回出場、5回制覇」になった。今では「ブレイディがGOAT」でほぼ結論がついた感じがある。

 

で、彼のキャリアはどこを切っても十分マンガっぽいんだけど、一番マンガっぽいと思うのは、この人、新人のときのドラフトでは6巡目、全体199位指名だったってところ。全体199位って、日本のプロ野球(12球団)で考えたとしたら、17巡目ってことだ。バイト君扱いされても不思議のないぐらいの低い指名順である

 

NFLは、ドラフト前にスカウトのための合同練習会みたいなのがあって、そこで候補生らはポジションごとのドリルを見せたり、幅跳びや高飛びの計測をしたりする。毎年その時期になると、ブレイディの40ヤード走のビデオが紹介され(お世辞にも足が速いとは言えない、というか遅い)、「いかに彼が期待されていなかったか」が紹介される。

Tom Brady runs 40-yard dash at 2000 NFL Scouting Combine - YouTube


しかし2018年現在。同じ年のドラフトで現役を続けているのは、キッカーのSteven Janikowskiと彼だけである。

 

というか、「続けてる」どころか2017シーズンのMVPだ。


最近よく言われる言い方だと、「マンガでもムリだわ!ストーリーの打ち合わせで、こんな案出したら、リアリティがないって編集者に却下されるわ」のレベルだろう。

 

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マンガみたいな人②コービー・ブライアント(NBA)のラストゲーム

 

コービー・ブライアントが引退するころ、ナイキだかアディダスだかが作ったCMがある(すみません覚えていません。関係者の方申し訳ないです)。

 

「コービー、俺はあんたのことが嫌いだった。嫌いで嫌いでたまらない。でも、引退したらブーイングできない。やめないでくれ。もっと、嫌いでいさせてくれ」

 

みたいなことをファンが口々に言うような構成。NBAファンにとって、コービーはそういう存在だったらしい。「憎たらしいほどにすごい」というような。いつでも自信満々にふてぶてしくて、プレーも態度も「不遜」な感じ。

 

ある試合で、相手チームのプレイヤーが、スローインのボールを彼の顔面に思い切りぶつけようとする挑発に出た。もちろんそれはフェイクで、顔面の7センチぐらい前でボールは止まり、実際はぶつけられなかった。この時の彼のリアクションがすごい。

 

まばたき一つせず、その挑発を無視したのである。マンガで言えば、「主人公より人気の出るカッコいい悪役」という感じだろうか。

 

www.youtube.com

 

エゴイスティックなイメージで、カリスマ性を常にキープした彼のラストゲーム。彼は、1人で60点取ったのである。キャラが立ちすぎてて笑える。

 

Kobe Bryant Amazing last 3 minutes in his FINAL GAME vs Jazz (2016.04.13) - YouTube

 (↑6分ぐらいの動画。その現役最後の試合の最後の3分ぐらい。オススメです↑)

 

2人とも、僕のような缶詰が説明するまでもない大スターですが、つい語ってしまいました。結構まだまだありそうですね。また思い出したら書こうと思います!

(↓よかったらこちらもどうぞ↓)

 

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マンガを超えたな、と思ったスポーツ話まとめ

大谷翔平選手、すごいですよね。
エースで4番がプロ野球を経てメジャーへ。
「マンガかよ!」
以外に言葉が浮かばない。

 

ちょっと、マンガを超えたな、と僕が個人的に好きだった新旧のスポーツ話を思い出してみました。

 

①父親の永久欠番を継承したNBA選手、ラリー・ナンスJr.(というか、息子に自分の永久欠番を継承させた男、ラリー・ナンスSr.というべきか)

 

 

永久欠番って、「王」「長嶋」とか、伝説のヒーローの世界だし、男としてはほぼ「最高の夢」に近い。それをはるかに上回る奇跡的な夢が実現した案件がありました。

 

・NBAで活躍(ラリー・ナンス・シニア)。背番号が永久欠番に(奇跡①)

・自分の子どもに、自分と同じ名前をつける(ラリー・ナンス・ジュニア)(奇跡②)

・子どもが成長し、才能発揮。NBA入り(奇跡③)

・移籍により、自分がかつていた(自分の背番号を永久欠番にしている)チームに息子が移籍(奇跡④)

・「俺の背番号を、息子に着けさせてやってくれ」と(完成!)

 

「マンガかよ!」と思いました。

 

sportsbull.jp

 

 

②ルーカス・オルドネス(ゲーマーの夢)


プレステゲームの、「グランツーリスモ」の世界大会的なのを開催。「大会優勝者を、本物のレーサーにする」という、冗談としか思えないプロジェクト=「日産GTアカデミー」(2008年~)。そこから、本当にプロのレーサーが誕生!「マンガかよ」と。

(詳しく知りませんが、この人以外にもその後レーサーが誕生しているようです)

www.gran-turismo.com

グランツーリスモSPORT  - PS4

グランツーリスモSPORT - PS4

 

 

③スティーブン・ブラッドバリー(史上最も幸運な金メダリスト)

 

2002年、ソルトレイクオリンピックのショートトラック(スケート)。世界ランク35位だった男が、見事に金メダル。「タイム」を争うのではなく、「着順」を争う種目ならではのドラマが起きた。

 

「前を行く選手たちが激しいバトルで交錯し転倒」「ペナルティで失格」とかで、そのバトルに参加できてなかった(遅れていた)彼は準々決勝、準決勝とも「ごっつぁん突破」。そして、2度あることは3度ある。決勝でも同じことが起きた。ゴール直前で前を行く選手が全員転倒。遅れていた彼は転倒に巻き込まれず、「棚ぼた金メダル」をゲット(しかも、南半球の選手として、初めての冬季五輪の金メダルだったらしいです)。

 

「スケートの神様、この日は機嫌が悪すぎて、優勝候補の選手たちを不条理にいじめ」みたいな展開。

 

「ギャグマンガかよ」と。

www.yomiuri.co.jp

 

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④ジム・ハーボー対ジョン・ハーボーのスーパーボウル兄弟対決(NFL)

 

2013年2月のスーパーボウルで、ヘッドコーチの兄弟対決が実現。


アメリカ人の親が一番言いたいセリフは、「息子を誇りに思います」のはず(単なる一個人の決めつけです)。なんなら「息子が誇り」というスピーチの練習を毎週してる(一個人の偏った見解です)。

 

「NFLのチームのヘッドコーチになる」って、多分相当のサクセスストーリーだと思うんだけど、息子2人が、それぞれのチームを率いてアメリカ最大のスポーツイベントで対決。父親の興奮たるや、想像を絶するものがある

 

試合前日の、父親のスピーチ
彼らが子供のころ、悪魔が僕のところに現れてこう言ったんだ。「もしお前が生まれ変わったときゴキブリになっても構わないなら、お前の子供を成功者にしてやろう」と。オレは悪魔に言い返したよ。「好きにしろ。子供にやれるもんなら、魂だって来世の運命だってお前にくれてやる。でも、俺は子供たちを信じてる。悪魔の力なんか借りなくても、彼らは成功者になるだろう」ってね。2人がNFLのヘッドコーチになれたのは、悪魔の仕業じゃなくて、彼ら自身の実力だ。でも、明日スーパーボウルで2人が戦うなんてね。信じられないよ。今後俺は、7回連続でゴキブリに生まれ変わったとしても、文句は言えないな。(すみません。父親のスピーチの部分は完全に僕の創作です)

jp.reuters.com

 

(僕が一番好きな「ジダンの頭突き」について、別記事に書いています。よろしければお読みください↓)

 

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 (↓続編記事もあります↓)

 

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ジダン、ブッフォン、レッドカード

僕にとって、スポーツ観戦の醍醐味を無理やり言葉にすると、「見てはいけないもの、見ていられないものなのに目が離せず、ついつい最後まで見てしまう興奮」みたいな感じが近い。


例えば最近だと、「平昌五輪での羽生くん」とかがわかりやすい例だろうか。僕の羽生結弦選手へのイメージは、「負けず嫌い、どうしても勝ちたい」のレベルが凡人とは違いすぎて、負けず嫌いが「さわやかなスマイル」に昇華してしまった、あるいは、「業がありすぎて悟らざるを得なかった天才少年」みたいな感じ(ファンの皆様、安易な言い方ですみません)。

そんな人が、「大会前にケガをしてぶっつけ本番」なんて、「見てられないけど目が離せない」ではないか。結果、勝利した羽生くんは「運命に克った」という感動を与えてくれた。もし仮に負けていたとしても、それはそれで「運命の残酷さ」みやいなのを感じて、カタルシスがある。


昨日の早朝、僕はこんな記事を書いていた。

 

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 チャンピオンズリーグの準々決勝(レアルマドリード対ユヴェントス)2ndレグをライブで見ながら、そういえばサッカー観戦って、昔結構好きだったな、などと思いながら書いていたんである。

でも、途中から記事が書けなくなった。

試合が面白すぎたからだ。

 

以下、昨日の記事の続きを書きたい。

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2006年ワールドカップ。ジダン現役最後の試合

 

2006年ワールドカップ。ジダンが現役最後の試合で、「頭突き」によってレッドカードを貰って退場したとき、一瞬何が起きたかわからなかった。多分、世界中の誰もが、そうだったと思う。

イタリア代表のディフェンダー、マテラッツィに、母親のことを性的な言葉を使って挑発されて、キレた(みたいなことらしい。真相は僕は知らない)。純粋なる暴力としての頭突きである。「見てはいけないものを見てしまった」と思った。

ジダンは、フランス代表でワールドカップとユーロを連勝し、レアルマドリーで銀河系軍団として銀河系的なことを成し遂げ、要するに「選手として得られるすべて」を勝ち得た選手だ。

たぶん、サッカーの神様が彼にふさわしい花道を用意した。現役最後の試合が、ワールドカップの決勝である。決勝前の投票で、大会MVPも決まっており、まさに「有終の美」である。あとは、イタリアとの決勝に勝てば優勝。そんな試合の、延長戦でのレッドカードなんである。

 

気が遠くなる。何回も同じ言葉になるけど、「見てはいけないものを見てしまった」としか言えない。

youtu.be

 

 

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ジダンの頭突きを、審判に猛アピールしたのはイタリアのブッフォン。すごいダッシュで審判に駆け寄り、訴える。そしてレッドカードが出る。ブッフォンも、この残酷な結末に圧倒されていた気がする。ブッフォンとジダンはもともとユヴェントスでチームメートだった。ピッチを出ていくジダンの肩を無言で抱くブッフォン。ごめんなんて言えない。でも、審判に訴えたのは、君が憎かったからじゃない。
(すみません、うろ覚えなので、細かいディテールは僕の妄想というか記憶違いがあるかもしれません)

 

僕は当時、なにか得体の知れないカタルシスを味わった気がする。運命のめぐり合わせとか、感情というもののパンチ力というか。
「すごい舞台ですごいことが起きた。ストーリーの教訓はよく分からない。でも、間違いなくなにか密度の濃いものを飲み込まされた」というようなことを感じて。

 

ブッフォンの(もしかしたら)CL最後の試合

 さて、サッカー観戦などここ数年していなかった僕が、久しぶりに見た今季のCL準々決勝。ブッフォンは現役を続けていた(正直言って驚いた。上にあげたワールドカップの時点でも、十分経験を積んだベテランだったと記憶している)。どうやら、今シーズンでの引退が濃厚らしい。負ければ、チャンピオンズリーグ最後の試合になる。

(その後、PSGへの移籍が噂されており、現役続行も十分考えられる状況のようです2018/5/25追記)


ジダンは、レアルの監督になっていた。昨シーズンも、その前も欧州制覇して、今季は3連覇を狙っている。

1stレグを3-0で落としていたユヴェントスが、この試合3点を入れて合計スコアをふり出しに戻す。こうなったらもうどちらに転ぶかわからない。

試合はアディッショナルタイムに。ユーヴェゴールを襲うクロス。レアルのシュートはヒットせず、ボールはブッフォンが抑える。ピンチを防いだかに思えた瞬間、主審はペナルティスポットを指している。PKだ。ボールを抱きしめたまま、審判に猛烈に駆け寄るブッフォン。目をひん剥いている。主審の手が胸ポケットに吸い込まれる。そこから出されたのはレッドカード。スタジアムの興奮は沸騰する。怒号は意味を失い、静寂とほとんど変わらない。ロナウドのPKは、まるで最初からその位置に収まることが決まっていたかのようになめらかにゴールに吸い込まれる。監督のジダンは、ガッツポーズすらせず、後ろに両手を組んだまま、凍りついた表情で自分のチームの勝利を見る。

 ・・・いやあ、興奮しました。

youtu.be

 

「ジダンの頭突き」のほうが事件としてのインパクトは強いんだけど、ボールのないところのことだったので最初は何が起こったのかわからなかった。でも、ブッフォンのレッドカードは、ずっと画面上で起こったことなので、目が離せないシーンを、スローモーションで見るような興奮があって、よく分からないけど、シビれました。
「運命の残酷さ」と「それに抗おうともがく英雄たち」。まるでシェイクスピア演劇(よく知りませんが)を強制的に頭に詰め込まれたような衝撃で、1日半経った今でも、頭がクラクラします。

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プレステのコントローラーを手に、サッカー観戦するとクソ楽しい(ウイニングイレブン)

チェンピオンズリーグ(ヨーロッパのクラブチームの頂点を決める大会)を、10年ぶりぐらいに見ている(スカパー加入しました)。

 

かつて(15年ぐらい前)はゲームの「ウイニングイレブン」にハマって、毎シーズン「どの選手を使うか」みたいなことをネチネチと楽しんでいて、その流れで実際のヨーロッパサッカーも浅めに追いかけてたりしてた(当時、地上波でもBSでも結構やってましたよね?僕がよく知らないだけで、今もやってるのかな?)。 

ウイニングイレブン2019 (【特典】myClub用DLC 同梱) - PS4

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そんな、ウイニングイレブンにハマったことがある人におすすめの、サッカー観戦法がある。

 

もうお分かりですね?

「コントローラーを手に持つ」
「実際の試合を見る」
「選手にあわせて、ショートパス、ロングパス、スルーパス、シュートとかのボタンを押す」

 

力説するけど、これが予想以上に楽しいのである。中毒性が強くて、僕が独裁者だったら法律で禁止するレベルの楽しさ。

 

「パス出すの遅せーよ(=コントローラーを持つ俺はもっと早く出したね)」
「ここは浮き球でスルーでしょ(=俺はL1と△同時押ししたよ*コマンドはうろ覚え)」
「シュートふかした(=□ボタンはチョン押しが基本だろっ)」

 

とか、ファンならではの「過剰な感情移入」からの「言い放題のヤジ」を楽しめる。
スター選手が、僕とまったく同じプレーをした時の興奮を想像してみてほしい。

 

スティーブン・ジェラードと同じタイミングでミドルシュートをドスンとやり、それが決まったりでもしたら、はっきり言って性的絶頂とほとんど変わらない。

 

そして、時として、選手が「ゲームを超える動き」をするのも本当によくわかる。

「ここで、このフリーの選手が見えてるんだ、どんだけ視野広いんだよ」
「このシュートフェイクはコントローラー使ってもムリ」

スターたちへのリスペクトも、否が応にも増すというものだ。


(みたいなことを書いてたら、さっきブッフォンが退場しました。これは、「ジダンの頭突き」みたいな、まさに筋書きのないドラマ。ゲームじゃ演出できない興奮。驚きました。もう続きが書けません。サッカー観戦、またハマるかも)

 

(結局、次の日に続きの記事を書きました。合わせてお読みください↓)

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