すごく大雑把な言い方になるけど、「60歳になった時に、自分の人生について、恨み言を言わずに済むこと」って、かなり「至難の業」なのではないだろうか。
仕事、家庭、健康、自己実現。そのうち1つでも満足できる人生をゲットするのは相当困難。それなのに、1つでもうまくいかなければ(大抵の人はそうだろう)、息が詰まるほど他人が妬ましい。まして、60歳になったらどうか。1日のうち14時間は他人を羨みながらすごす自分が容易に想像できる。
でも、もっとリラックスした考え方もある。何か1つでも、自分が納得できていたら、どうにか自分の人生を肯定できるのではないか。そして、人を恨まず、落ち着いていられたら、ひょっとしたらそれだけで十分なのではないか。そんな気もする。
だから、僕は将棋王になることに決めた。
もしかしたら、60歳になった時に、「僕の人生はOKかも。将棋と出会えて、将棋に夢中になれたから」と、思えそうな予感があるから。もし、そう思えるとしたら、そんなに幸せなことはない。挑戦してみる価値はある。
人間は、何かに依存しなければ生きられない。村上龍は小説「音楽の海岸」で、登場人物にこんなことを語らせている。「モーツァルトを聴くと悲しくなる。こんな完璧に美しいものが何でこの世に生まれたのか。人間がそれを必要とするからだ。野生生物は、モーツァルトを必要としない」というようなセリフ。
僕はこのセリフが好きだった。「美しさを求めるということは、悲しいことだ」というような考えが、何か切実に感じたからだ。僕らは、生きていく上で、色んなものを必要としている。そして、必要なものが多ければ多いほど、それを失う不安に苛まれる。
僕はミニマリストではないし、これからもミニマリストにはならないだろうけど、「物を減らすことで、執着を減らしていく精神状態に自分で納得していく」みたいなことかな、と想像して、それは悪くないかもな、とは思う。
さて、将棋だ。81マスの盤が1つ。8種類40枚の駒が1セット。対局する人間が2人。たったこれだけで、人が一生をかけて夢中になることができるのが将棋なんだと仮定してみる。そこまで思い込めるほどには極められないかもしれないけど、そんな予感があるだけで幸せではないか。
だから、僕は将棋を指し始める。
(※40歳を超えた僕が、高校の頃にハマった将棋に再び挑戦することに決めました。シリーズ的に、ブログ記事にしていくつもりです。999話まで続けるつもりで、*001と番号を振りました)
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