鯖缶@3rd&forever

2児の父のエッセイブログです。子育て、英語ネタ、コールセンターあるあるなど。

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「自分の将来のために勉強しなさい」なんて、僕は言わない

「自分の将来のため」と言っても、小学生や中学生は勉強しない気がする。少なくとも、僕はそうだった。

 

自分の将来?なにそれ?本当に来るの?

 

本当に来ることが、今になって分かる。でも、おっさんになった今でも、相変わらず成長していない。

「自分の老後?なにそれ?本当に来るの?」

と、ただ呆然と日々に圧倒されて過ごしてる。

 

だからというわけではないが、自分の子供にも「自分の将来のため」と言うつもりはない。もしも、「将来のために勉強する」とか言いだしたら、逆にちょっと心配すると思う。

あじ(娘)が小学校に上がった。そこで、「習い事見つけるマスター」のこはだ(妻)が、英会話教室を見つけてきた。
僕は、実を言うとちょっとだけ抵抗があった。「なんだかんだ言って、英語は役に立つから」という発想が安易に思えたからだ。でも、結局通わせることにした。何よりあじがNHKの「英語であそぼ」みたいなのが好きだし、「小学校の違う子供との交流」はなんとなくいいような気がしたからだ。

 

そんな娘に、いつか伝えてみようと思うことはある。「自分の将来のためじゃなくて、みんなの将来のために勉強するんだよ」と。

 

「民主主義を維持するためには、市民に最低限の知性が必要だ」という意味も一応あるんだけど、「自分のため」と思うより、「誰かのため」と思った方が、少なくとも僕にとってはしっくりくるからだ。

 

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勉強とは違うけど、「オシャレ」について、似たようなことを思っている。僕は子供の頃から、思春期を経て、大人になり、おっさんになるまで、「オシャレが苦手」である。というか、「興味がない」と逆ギレ気味に開き直って生きてきた。より正直に言えば、自信がなくて、自意識過剰で、オシャレしたいと思うこと、それを表に出すことを恥ずかしいと思って生きてきた。そして、それは今でも変わらない。オシャレは苦手だし、恥ずかしい。

(ナンシー関が、美容院を嫌いな理由として、「なりたい自分を人に言わなきゃいけないなんて、恥ずかしすぎる」みたいなことを書いていて、「まさにそのとおり」と思った記憶がある)

 

でも、思春期の頃とは、考えが変わった点もひとつあって、それは「オシャレが必要なときにちゃんとできる人」のことを、尊敬するようになった、というところだ。

オシャレな人たちをやっかんで、その裏返しで少しバカにして(バカにしてるのに相手にされずに)いたのに、なんで変わったか。

 

「オシャレは、自分のためのものじゃなくて、誰かのためのものでもあるんだ」と気づかされたからである。

 

橋本治が、「正月に晴れ着を着るのは、新春をハレのものとして、みんなが納得するため。世間全体で確認するため」というようなことを書いていた。そうかも、と思った。

安野モヨコの「働きマン」でのエピソードも覚えてる。「ネイル」だの「エステ」だのそんなことばかり話す女子たちをちょっとバカにしてた仕事中毒のヒロインが、ハワイで披露宴に出る。「友達である花嫁を、祝うのにふさわしい華やかさの装い」が、自分はちっともできていないのに、バカにしてたはずの女子たちはちゃんとできてる。「そうか、オシャレだって、大人力のうちのひとつなんだ、つーか、女子らしさなんてクソとか思ってた私が、一番囚われてたのかも」みたいなことを思う、というようなエピソード(例によってうろ覚えです、すみません・・・)。

実際、上に挙げた例がどの程度説得力があるのかちょっと僕には分からない。でも、「自分のため」というより「誰かのため」と考えたほうがしっくりくる、というのは僕にとって新鮮だった。

 

もちろん、勉強だってオシャレだって、自分のためにやったっていい。でも、「自分のためにやること」なら、親に言われないでもどうせやるだろう。なんか、そんな気がする。

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